▽ 不機嫌少女の把握範囲
予感はあった。少しの確信も。
気付かないふりをし続けてきたのに、どうして今、この瞬間に駒を動かしてしまったのかは自分でも解らない。
解らない。けれど、訊ねずにはいられなかった。
黄瀬は、私が好きなの…?
私の発した疑問を受けて、息を止めて全身を強張らせた男は、すぐに取り繕うように口角を持ち上げた。
「そ、りゃあ…すきっスよ。葵っちのことは大好きに決まってるし、そんなの、今更じゃないっスか?」
今までもずっと、何回でも言ってきたでしょ?
へらりとした笑みを浮かべて、友人としては模範解答だろう返しをしてきた黄瀬に、私は込み上げた溜息を吐き出した。
「…そういう意味じゃないんだけど」
ぎくり、と分かりやすく再び頬を引き攣らせかける目の前の男は、本当に隠す気でいるのだろうか。だとしたら、随分と無駄な足掻きだと思う。
ここまで表情にも態度にも出されると、何だか緊張感も削られてしまって、いっそ可哀想な気持ちになった。
うろうろと視線をさ迷わせ、何か言葉を探しているらしい黄瀬を、どう扱ったものか。
そもそも私自身、確かめたい気分になっただけで、それ以上のことは何も考えていなかったのだけれど。
「黄瀬は、それでいいの?」
友人としての好意だと、その口が告げるなら信じてもいい。黄瀬がそうしたいのなら、こればかりは隠されても仕方がないかと割り切れはする。
ミニテーブルを挟んで向かい合うように座る距離は、決して近くない。この距離への配慮を見れば、たとえどんな気持ちを胸の奥に持っていたとしても、今すぐに警戒する気にもなれなかった。
数秒の間黙って答えを待っていた私に、ぐぐ、と顔を俯けていっていた黄瀬が不意に低い声を返した。
「……よくない」
詰まった喉から無理矢理引きずり出したような声は、一度出てくればあとはスルスルと、繋がる言葉を吐き出し始めた。
「よくないっスよ…全然、よくない! けど、今そんなこと、葵っちに気にしてほしくもない」
「…どういうこと?」
「弱ってるとこ家に連れ込むとか、めちゃくちゃ下心あるみたいじゃないっスか。実際、自信持ってないとは言い張れないし。でも葵っちの助けになりたいのが一番なのは本当で」
よくない。ということは、つまり、友人としての好意だと括られるのは困るということ。
だけれど、私にそれを気にされたくないという黄瀬の言い分が解らない。
もう少し分かりやすい言葉がほしくて更に訊ねれば、俯いたままの金髪から発せられた内容は、いつか聞いた覚えがあるものに似ていた。
「友達としてなら、少しくらいは葵っちに好かれてるって知れたのに…それだって嬉しいから、駄目にしたくないんスよ。葵っちが信じてくれてるのに、裏切りたくない…しかも、こんな時だし」
「…黄瀬」
「オレ…本当に、葵っちに楽になってほしくて。それは本当で。でも裏側にある気持ち知られたら、警戒されたり幻滅されたりするんじゃって」
「黄瀬、ちょっと顔上げて」
「…顔、見るの怖いっス」
「いいから上げろ」
びくっと揺れた肩を見て、少しだけ凄んだ声を出してしまったことを後悔しないでもないけれど、視線も合わせず勝手な想像で落ち込まれるのは困る。
あからさまに怯えた様子でそろそろと持ち上げられた顔は、捨てられた犬がこんな顔をするのだろうと思うくらい、情けないもので。
ああ…もう。
「怒っても、警戒してもないから」
ついでに、嫌えるわけもない。
何を言われるのかとびくついている男は、それなりにいい体格をしているのに情けないったらない。けれど。
ここまで私に与えてきた言葉や態度を総合して、大事だ好きだと顔に出るほど想ってくれている相手を、今この場で突き放すこともできない。
突き放せば自分も傷付くと分かっている。それくらい、内側に入れてしまっている自覚はあった。
友情と恋愛の区切りなんて、私にはあまり判らないけれど。
「ていうか、何でそこまで思い込んでんの…私あんたの前でその手の話したことあった?」
「葵っちは、男女の情を信じないって…柏っちが」
「蜜果か…」
間違いではない。確かに私は男嫌いの気が少しあるし、そういう意味で男を信じていない、が。
何故それをわざわざこいつに言ったのかと、親友の顔を思い浮かべてつい眉が寄った。
牽制か、助言か。どちらにせよ蜜果は、黄瀬が土俵に立つことを認めたということだろう。
それだけ本気に見えた、ということか。いや、本気でなければ今こんなに落ち込んだ顔はしていないのだろうけれど。
それにしたって。
「……馬鹿じゃないの」
「うぐっ」
ああ、なんだか頭が痛い。やっぱり確かめない方がよかったのかもしれない。
額から指を差し込むようにして、ぐしゃりと前髪を握りこむ。
鼓動は穏やかなままで、嫌悪感や拒否感はなかった。
どうしようもないな、と。それだけ思う。
「さっきも…今も、黄瀬がいてくれて、助かってる」
「…え」
「安心してる。男女の情だっけ? それは抜きにして…少なくとも友人としては、私はあんたのことも信頼してる」
呆然と瞠られていく瞳から、逃げたい気分になりはした。ざわりと身体の奥で何かが騒ぎそうで。それを堪えて、真っ直ぐに向き合う。
向き合わなくてはならないと思うくらいには、黄瀬のことも懐に入れていた。嫌えないし、自分から遠ざけたくはない。
私はこの男を、繋ぎ止めようとしているのだ。明確な想いもないままに。
狡いのかもしれない。そういった考えも浮かばなかったわけではないけれど。
それでも、黄瀬を傷付けてしまえば私も傷付くのは確かだったし、離せばもっと苦い気持ちになると予感していた。
「うまく言えないけど…大事にされてることは分かってた。その理由も、まぁ…今ちゃんと解りはしたし…ありがとう」
男は、信じられない。今でも嫌悪が湧き上がる時はあるし、本質的に理解できない部分も多くある。
けれど、黄瀬は、どうだろうか。
ふと過らせた考えに答えは出なかった。判らない。判断が下せないのは、そういう括りで見ていないからなのか。それとも…
「葵っち、呆れてないの?」
恐る恐るといった風に見つめてくる男が、黄瀬でなければ。
私を大事にしようとする奴でなければ、何に、なんて問い返すことはなかっただろうに。
本気で冷たい態度をとれない自分に、溜息が溢れそうになる。
「オレ、友達になりたいって、最初近付いたじゃないっスか」
「…友人になら、もうなってる。だから別に、その点で軽蔑する気はない」
気持ちや関係は、時を経て変化するものでもあるんだし。
黄瀬が最初から嘘を吐いていたわけでもないことくらい、分かっている。本気で、友達になりたくて近付いてきたことくらい。
だから大丈夫…というのも甘い気はするけれど、そういうことだ。
私の言葉に、それまで真剣だった男の顔がふにゃりと歪んだ。
「っ……葵っちぃぃぃ」
がばりとテーブルに突っ伏した男の手が、こちらに向かって投げ出される。
なんて声を出すのだろうか。なんだか、今にも泣き出してしまいそうな。
「嫌われなくて、よかった…っ」
死ぬほど安心したと言いたげなそれに、ぐっと喉が詰まる。息が苦しくなる。
だから。そんなだから、駄目なのだ。
一度許してしまった距離は、そう簡単に遠ざかりはしないのだから。
不機嫌少女の把握範囲「それで、その…答えとかは、ないんスね」
「私が確かめたくて言わせただけだからね」
「そ、そう…」
別に面と向かって告白されたわけでもないし、そもそも自分の気持ちなんて纏まっていないものを説明もできない。
だから、今答えを出す必要もないかと思って何も言わないでいたのだけれど。
拒否しなかったお陰でとうとう隠す気もゼロになったらしい、そわそわと頬を染めている黄瀬はもう、気持ちを疑う気にもなれないくらい解りやすい。
「…なに、返事欲しいの?」
「いっいいいやいいっス! 今はいいっス! 」
チラチラと投げられる視線にむず痒さを感じて問えば、慌てたように勢いよく首を横に振る。
今は葵っちを休ませてあげる方が大事!、と拳を握っている男を少しばかり呆れた思いで眺めつつ…返事を求められた場合は何と答えればいいだろうかと、つい考えてしまう。
自分が少し、信じられなかった。
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