▽ 黄瀬涼太の秘めた心肝
知らない、と。
口にした彼女の横顔は、とても言葉通りに受け取れないくらい強張っていたから。
「葵っち、オレん家行こう」
それは、混乱した頭で碌に考えも巡らせられず、それでも何か助けになれる手段を探して、咄嗟に出てきた言葉だった……わけがない。
一瞬で浮かんだ思い付きでも、口に出して提案してしまうかどうか、それくらいの判断は下せた。下した上で、口にした。
幾らなんでも、考えもなくそんな発言ができるほどオレも純粋じゃない。家に呼ぶということはつまり、オレの手の届くような区域に葵っちを泊まらせるということだ。
確かな好意を抱いて、疚しい想像に耽ることだってある。そういう対象として見ている自覚はきちんとあったから、自分がどんな発言をしているかもしっかりと把握できていた。
正直、まずいだろうと思う気持ちもある。歯止めは効いたとしても、こんな状況でもなければ絶対に呼び込んではいけないと。
本当なら、彼女相手ならきちんと順序を踏んで気持ちを伝えるべきだと、解っていた。けれど…
(ほっとけるわけ、ない)
だって、大事に想ってる子が、目の前で弱ってるんだ。
疚しい気持ちはある。きっと不謹慎な、欲に塗れた妄想だってしてしまう。
それでも、ただ彼女を助けたくて、力になりたかったのも本当だ。
この子が自分から助けを求められないなら、いつだって、無理にでも手を差しのべると決めていて。
実際普段の冷静さが嘘のように、見るからに怯えた様子なのに、それを虚勢で覆い隠して普通を装おうとする横顔は、浮かべている表情ほど強くは見えなかったから。
男女の差を差し引いても細くて小さな身体が、今にもぽきりと折れてしまいそうなのを、どうにかしたかった。
オレにできることなら、何だってしてあげたくて。
その気持ちにだけは、絶対に嘘はなかった。
「というわけで…この子、今日は家に帰ると大変そうだから、泊めさせてあげてもいいっスか」
渋る彼女を半ば引き摺るようにして家に連れて帰り、出てきた母親には詳しい部分は伏せつつ状況を語った。
オレの隣に気まずげに佇む女の子に目を丸くして驚いた母親は、話を聞くと困惑を顔に出しながらもゆっくりと、時間をかけて頷いてくれた。
事情は解った、と。
こんな時、柔軟な対応ができる性格の家族でよかったと思う。
モデルの仕事を初めた頃から、オレ自身にも色々と面倒事が起こった。そのお陰か元からの性格かは判らないけれど、家族の全員がトラブルに対する適応力は高い方だ。
「確かに、一人で家にいるには危ないし…涼太も心配みたいだから、今日は泊まっていって」
「…ご迷惑をお掛けします」
「ああ、いいのよ! 家の近くに不審者が出たなんて、怖いもの。女の子一人でいるのはよくないわ」
端から拒むわけはないだろうと思ってはいたけれど、実際答えを聞くと安心する。ほっと息を吐くと同時に、軽く罪悪感も込み上げた。
不審者、ということにしてしまったことにも、小さな嘘を吐いてしまったことにも。
オレも詳しい事情は知らないから、仕方がないんだけど…。
気兼ねしているらしい葵っちが申し訳なさげに頭を下げると、母親は慌てて顔を上げさせる。それから困り顔で頬に手を当てて、ちらりとオレに視線を向けた。
一瞬の動作に、何故か妙にギクリとした感覚が身体に走る。
「ただ、ね。今夜はうちもお父さんが出張で…なのに家にも一匹獣がいるのが、困った話なんだけど…」
「ちょっ…それオレのことじゃないよね!?」
何を言い出すかと思えば…!
そんなつもりなんて欠片も、少なくとも今回は絶対にないのに、酷い言い種につい叫んでしまう。
ていうか、母親がそういうこと言う? 葵っちが真に受けたらどうしてくれんの…!?
慌てて隣を確かめれば、きょとんと瞠られた目には嫌悪感はなかった。
あ、可愛い…なんて思っている場合じゃない。多分、そんな話題を振られるとは思ってなかったんだろうし、気にしてないようならいいんだけど。
「えっと…」
「寝る時には部屋には近付かせないようにするから、遠慮なく寛いでってちょうだい」
「はぁ」
「ひ、ひど…」
どんな返事をしていいのか判らない顔をしている葵っちには安心する。けど、実の息子に対して、母親の方が信用無さすぎじゃないか。
家族がいる家で事に及ぶような趣味も、妙なチャレンジ精神も持った覚えないんスけど…。
「と、とりあえず部屋に案内するっス…あ、姉ちゃんの部屋借りていいかな」
「そうね…間違っても涼太と同じ部屋には置いてあげられないものね…」
「オレだって考えてないからね!?」
頭が痛くなってきて、額に手を置く。肩を落としたオレを、何故か話の中心にいる葵っちの方が気遣わしげな目で見上げてきて、泣きたくなる。
心配しなくても、こんな家で間違っても手なんか出せるわけがなかった。
その後部屋を準備して、少し落ち着けた頃に帰宅した姉にも事情を話した。
泊まるとなると着替えもいるし、途中で買い物をするような余裕もなかったから、その点について頼れるのは実家に残っている下の姉一人だけだ。
「買ったまま似合わなくて置いてた下着あるから。あと適当にルームウェア貸したげるねー」
「ありがとうございます」
「いーえー」
こっちもこっちであっさりと納得して、着替えも出してくれた。
女兄弟がいるとこんな時ばかりは便利だな、なんて思っていると、渡し終えた姉が今度はふっ、と遠くを見つめながら乾いた笑みを浮かべる。
「彼シャツでもいいだろうけど、さすがにそれじゃアレだし…ねぇ?」
「…はぁ」
「彼も彼女もなく葵っちは友達だから…!」
ちょっとありがたい気持ちになってた数秒前のオレに謝ってほしい。というか友達とかオレに言わせるのやめてほしい。切実に胸が痛むから!
またも微妙な顔をした葵っちが急遽借りることになった上の姉の部屋に引き返し始めると、続こうとしたオレの首がぐっと絞まる。
苦しさに足を止めれば、後ろから服の首もとを掴んだらしい姉が、そのまま詰め寄ってきた。
「何、彼女じゃないの? てか、あんたがただの女友達家に連れ込むガラ?」
「だから緊急事態だって…ただの、とかも言ってないし」
「げ…やっぱ気はあるんじゃん」
「それ今追究しないで」
まだ近くに彼女がいるのに、聞こえたら困る。
本当に今は手を出す気もないのに、気持ちがバレて警戒されでもしたら堪ったもんじゃない。
まぁ気を付けなよ、と母親と似たような牽制を入れてくれる姉の表情は、苦いものを口に入れた時のように歪められる。
「どこで箍外れるか分かんないし。隣の部屋で弟が濡れ場とか嫌すぎるからやめてよね」
「だから、やんねーって!!」
「あ。あとねーリョーター」
「あーもーっ、ついまた叫んじゃったし…何スか」
「ブラ合わなそうだったし、もしかしたら今夜あの子着けてないかもよ」
「……バッ!」
バッカじゃねーの!? 何言ってんの…!?
気を付けろと言った口で言うことじゃない、とツッコミを入れる前に、見計らったようにバタンと姉の部屋の扉が閉まる。
(なんつー言い逃げを…っ)
信じられねぇ。マジで信じられねぇ家の女陣。
一気に込み上げる気まずさに、思わず壁にめり込みたくなる。けど、そんなことが現実でできるわけもなく。
変に重くなった足を引きずって葵っちのいる部屋に戻れば、ミニテーブル付近にあったクッションを弄んでいた彼女が振り向いた。
「おかえり。何か、すごい叫んでなかった?」
「……葵っち…」
オレの気持ちなんか知らない、無垢な眼差しが胸どころか身体中に突き刺さる気がした。
ついつい視線が胸元に落ちそうになるのは、あのバカ姉の所為であってオレの所為じゃない。絶対、そういう目で見るために連れてきたわけじゃない。
けど、やっぱ、どうしても気にせずにもいられない自分が悔しい。
「男って悲しい生き物っスね…」
「は…?」
「いや、何でもないっス。うるさくてごめんね」
家の中の姦しさに比べて、葵っちの醸し出す空気の静かさと言ったら。天と地どころか、天と地獄くらいの差があるんじゃないだろうか。
テーブルを挟むようにして座り込むと、オレを目で追っていた彼女の首が僅かに傾げられる。かわいこぶるわけでもない自然な仕種なのに、何で一々こんなに胸が締め付けられるのか解らない。こんな時に不謹慎だと解っていても、可愛い。
「賑やかで楽しそうだと思ったけど」
「葵っち兄弟いないらしいもんね。お母さん帰るまではいつも家に一人?」
「猫がいるよ」
「ああ。そういや…猫ってほっといても大丈夫なんスか?」
「今日は中にいたし、餌もちゃんと入れてたから。一晩くらいはね」
以前一度見た、体の先の方だけ黒かった猫を思い出す。
ものすごく懐いていたみたいだし、可愛がってるんだろう。飼い猫のことを語る顔は穏やかで、動物と解っていてもちょっと羨ましくなる。
成猫だったし、もうずっと飼っているのか。だとしたらあの猫が葵っちの兄弟みたいなものなのかもしれない。
いざという時の助けにはならないよな…と思う気持ちもあるけれど。だからって、彼女にとって要らない存在ではないんだろう。
「でも、猫だけで寂しくはないっスか? 何かあった時、不安とか」
「別に…今時子供が家に一人でいるのもざらだし、幸男兄も気にかけてくれるし……そういえば、何で幸男兄の名前出なかったの」
「へっ?」
思いもよらない切り返しに、声が裏返る。
けれど、葵っちにとっては当然に抱く疑問だったらしい。焦ってばかりで今頃気付いたけど…と口にした彼女の眉間には軽くしわが寄った。
「軽い事情なら知ってるし、泊まりだったら、近かったし…連絡のつけようもあったのに」
「う、えーっと…それは……オレがちょっと嫌で…」
合わせていた視線が泳ぐ。
咄嗟に思い浮かばなかった、なんて嘘も言えない。
幼馴染みで、それ以上の関係や気持ちがないと解ってはいても、自分以外に葵っちを任せるのは気分がよくない。相手が自分も親しい先輩であっても、だ。
だけど、それをうまく説明する術が見つからない。嫌、と口に出せても、その理由までは語れなかった。
だって、付き合ってもいない、友達でしかない関係で嫉妬した、なんて。自覚している今、口に出せるものじゃない。
今、気丈に振る舞っていてもきっと弱っている彼女に、気持ちを告げることは絶対にできない。付け込むような真似は、してはいけないと思う。
「やっぱこのまま放っておけなかったっていうか…オレもできれば話が聞きたくて…」
慎重に、本音の底を晒さないように、嘘にはならない言葉を選んだ。
「味方は、少ないよりは多い方がいいし。葵っちは強がりみたいだから、無理しちゃいそうだし」
好きだから、優しくしてあげたい。大事にしたい。傍に置きたい。
気持ちに繋がる言葉の糸は、ギリギリの部分で切っていく。
もっと、上手く言えたら。働かない頭をがりがりと掻くオレに、暫く口を噤んでいた彼女の声が降ってくる。
「…ねぇ」
徐々にカーペットに落ちていた視線を、誘われるように持ち上げれば、静かに澄んだ真っ黒な瞳に一瞬で意識が吸い込まれた。
どくりと、心臓が脈打つ。
笑っても困っても、怒ってもいない。
感情の読み取れない、真顔と呼ぶには柔らかい表情を浮かべていた彼女の唇が、のろのろと動かされた。
その瞬間に、オレの時間も止められた。
「黄瀬は、私が好きなの…?」
黄瀬涼太の秘めた心肝オレが決して表に出せなかったはずのものは、静かに伸ばされたその手に、暴かれた。
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