▽ 不機嫌少女と非常手段
逃げて、避けて、そうやっていつまでも同じことを続けても、完璧じゃない。限界がある。
執拗に追い回してくる人間を、馬鹿にしてやるくらいの気概を持てればいいのに。一切の余裕を奪われ、掻き回されてしまう自分がとてつもなく嫌だ。
「…久しぶりだな、依鈴」
黒塗りの車、運転席のドアを閉めてからこちらに身体を向けた男の顔は、信じられないくらい穏やかなもので。
自分の感情に見合わないその態度一つに、大きく胸が軋んだ。
「呼ぶなっ!!」
びくりと、視界の隅で黄瀬が震える。驚いたように私を見つめる視線にも気付いた。けれど今は、そっちに構ってはいられない。
呼ぶな。馴れ馴れしく、お前みたいな人間が、私を呼ぶな。
腹の底で蜷局を巻いていた怒りが、勢いよく飛び出すのを止める気もなくなる。
睨み付ける私の目は今や憎悪で溢れていることだろう。冷静でいられない。ぐるぐると、過去に染み着いた場面場面が頭の中に浮かび上がって吐き気がする。
折れた筆、壊れたキャンバス、せせら笑う部員達…一度だけ涙を流して謝った、母の顔。
「…随分な挨拶だな」
薄く浮かべられていた笑みに苦味が混じる。はっきりと顔を合わせるのは二度目になる男は、性懲りもなく一度目と変わらない態度で接してこようとする。
一歩、近付こうとしてきた足に首を振った。
「帰れ」
「薄情なことを言わないでくれ」
「情も何もない。帰らないなら警察でも何でも呼んでやる」
「依鈴」
ぎり、と切りつけられたように痛んだ胸から、気持ち悪さが広がる。
思わずまた取り乱しそうになった瞬間、タイミングを読んだように隣から腕を掴んできた手に勢いを殺された。
「っ、き、せ…」
「葵っち、あの人…」
そこで初めて、門の近くに立つ男から視線を移すと、声を掛けてきた黄瀬の方が前方を見据えていた。
険しく歪められた目元には警戒心が表れている。この状況で何を説明すればいいのか、私が迷う間もなかった。
「君はお友達…いや、彼氏かな?」
「……アンタは」
僅かな狼狽に囚われた私を置き去りに、男二人は勝手に話を進めてしまう。
帰れと言っているのに。関わらないでほしいのに。儘ならなくて歯軋りしたくなった。
「初めまして。私は依鈴の父親で、如月貴斗という者だ」
「父…えっ、お父さん…っ?」
「違う」
喉奥に込み上げたのは、確かな嘔吐感だった。
いけしゃあしゃあと、よくも名乗れたものだ。告げられた言葉の正否を求めて振り向いた黄瀬と、一瞬だけ目が合った。
それを振り切り、吸い込んだ息を一気に全て吐き出す。
馬鹿を言うな。そんなもの、身勝手で一方的な戯れ言だ。
「私に父親はいない!」
知人の反応も近所の迷惑も考えず、一際大声で叫んだ。
傍目からは駄々を捏ねる子供のように見えたかもしれないが、それでも構わなかった。構わないほど、我慢ならない。受け入れられない言葉だった。
全肺活量を使用した私の叫びは、僅かな静寂をもたらし余韻を残す。
それが消えてしまう頃、軽く息の乱れていた私の腕がぐい、と強く引かれて蹌踉めいた。
「!? きっ…」
黄瀬…?
何をするのか、疑問に思うより先に引き摺られて絡まりそうになった足を、慌てて立て直す。文句をつける前に向けられていた背中は、何も言わずに少し前に歩いてきた道へ向かって走り出した。
私の腕を、掴んだままで。
「!?」
それから数分の間、急展開の連続に目を回す私は、半分以上引き摺られるようにしながらも走り続けた。
普段から運動なんかしない、それどころか不得手だと自負しているのに、強豪と名を連ねる海常バスケ部のエースは私の腕を離してくれない。どんどん荒れていく呼吸の整え方も分からず、心臓が胸を突き破りそうに暴れまわる。
どれだけの時間走っていたのかは判らない。が、私には何十分にも感じられるくらいの間必死に足を持ち上げていた。
着いていくのも精一杯だった膝ががくがくと震え出せば、さすがに音を上げずにはいられなかったけれど。
「っ…ちょっ…ま、止まっ、て…っ!」
「え!? あっ」
慣れた景色もここまで速く移り変わると、頭がくらくらしてくる。
声を聞いて漸く振り向いた顔が、私を見て一瞬で引き攣った。
「ご、ごめん葵っち! 急に走らせて! 大丈夫っ!?」
「だい、じょ…ぶに、見えるの…っ」
「うっごめんなさい…」
急停止されても、きつい。
慌てて立ち止まった黄瀬は息を切らしてはいるものの全く堪えてはいなさそうで、それどころかわたわたと狼狽えながらも私の背中を擦ってくれる余裕がある。
ここまで差があると、悔しさも湧かない。
ごほごほと噎せる喉を抑えながら、苦い気持ちを飲み込んだ。
「歩幅と体力、考えてよ…」
「うん…葵っちマジで運動苦手なんスね…」
「うっさい、わっ」
あんたと比べるな。
そう言ってやりたいけれど、実際苦手だし好きじゃない。黄瀬でなくても比べられれば相当劣るだろう自覚はある。
それでもじっとりと汗の滲む感覚を嫌えないのは、咄嗟の判断か衝動かは知らないが、唐突な行動がありがたいものだったからだ。
私一人では、振り切れたかどうか。僅か落ち着きを取り戻して周囲の風景を確認すると、家より最寄り駅に近い、車道に出る前に通る狭い路地だと分かった。
「とりあえず、ここなら車入って来れないし…さすがに足で追い付けはしないと思うんスけど」
「…うん」
「…何かワケアリっぽいし、家の前にいるんじゃ今すぐは帰れないよね」
労り撫でられていた背中にある手が、困惑を隠せない様子でゆっくりと止まる。
危ない人かは判らなかったけど…と溢す黄瀬の顔は、俯いて見上げずにいても手に取るように分かった。
「葵っちのお母さんが帰ってくるまで、どっかで時間潰す? あ、勿論オレも付き合うっスよ」
「……いい。自分で何とかするから、あんたは帰って」
「はっ? いや、それはさすがにできないって。第一、オレが今の葵っち放置して帰れないし」
首を横に振りながら、あの男もここまで追い掛けて来たりはしないだろう、と考える。家が知れていれば探し回る必要はない。その場で待ち続ければ、帰らざるを得ない私は簡単に捕まえられるのだから。
そう、家に近寄らないという選択肢は私にはなかった。
そしてこんなどうしようもない個人的な事情に、他人を巻き込むわけにもいかない。
「今日は出張で、母さん帰ってこないから。待つにも待てない」
タイミングの悪さに、わざわざこの日を狙ったという疑惑も浮き上がるが、それは考えても仕方がないことだ。
だからあんたは帰っていいよ。
できる限り平然と装って口にした私に、目を見開いた黄瀬はまた声を上げて驚きを露にした。
「はぁ!? じゃあ葵っちどうするんスか! さっきの、いついなくなるか分かんないのに一人でいる気!?」
「それは…仕方ないから」
「仕方ないとか言ってる場合じゃっ…よく分かんないけど、葵っちはさっきの人に会いたくないんでしょ!?」
「会いたくないよ。視界に入れたくない。けど、」
我儘を言って避けられることばかりじゃない。
口にしたくない言葉を留めていると、苦く歪んだ表情のまま数秒視線をさ迷わせた黄瀬が、わかった、と呟いた。
背中から移ってきた掌が、柔く肩を叩く。広がる温度は不思議と不快感はなかった。
「葵っち、オレん家行こう」
「……は?」
不快感はなかった。けれど。
真剣さの表れるきり、と引き締められた顔付きから飛び出した言葉には、呆気にとられる他に返すべき反応が見つからなかった。
不機嫌少女と非常手段それでも、連れ出してくれたその腕を振り払うことだけはできないのだから。
私も恐らく、限界に近かったのだ。
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