▽ 不機嫌少女の最後の砦
館内を出てから軽く電車を乗り継ぎ、連れられてきたのは最近巷で噂になっているカフェだった。
休日なだけあって店内には若年の客が溢れていて、所々から聞こえてくる声は明るくテンポがいい。
そんな中で私はといえば、運ばれてきた甘い香りを漂わせるパンケーキを前にしながら、フォークを刺そうとする手に重みを感じている。
原因が何かなんて、考えるまでもない。びしびしと正面から突き刺さってくる視線を、気付かないふりで誤魔化すことはかなり無理があった。
(食べにくい)
食事中に騒がれるのも嫌だけど、これはこれで間が持たないというか。
サングラスも外して頬杖をつきながら、ぼうっとした表情をこちらに向けている男に口許がひくつきそうになる。
何で、こんな微妙な居心地で名店のパンケーキに舌鼓を打たなければいけないのか。
意味が解らないし、勿体ない。
「何なの」
「……へ?」
わざわざ連れてきた人間がフォークすら握らずにいる状況に、耐え兼ねてはっきりと見つめ返せば、ぼんやりとしていた目元がぱちりと瞬く。
「何? どうかしたっスか?」
オレ何かした?、ときょとんとしながら訊ねてくる黄瀬に、悪意はない。それも分かるからあまり強くも当たれない。
妙に苦い気持ちを無理矢理飲み込むにあたり、眉間にシワが寄りそうになるのは仕方がないことだった。
「黙ってじっと見られると、落ち着かない」
美味しいものなら美味しく食べたい。その意思を含ませて相手側の皿を指せば、あ、と声を漏らした黄瀬は慌てたようにフォークを拾った。
「ご、ごめん! なんかまだ、さっきの興奮が抜けきってなくて…思考飛んでたっス」
「…そこまで?」
「そこまでって! 自分を描かれた絵が賞取ったとか、凄すぎるじゃないっスか…!」
「だから、声量。下げろ」
「ぐっ! ご、ごめんなさい…」
ついさっきも自分の首を絞めたくせに、懲りない奴。
メディアにもちょくちょく取り上げられる分際でよくここまで油断していられるな…と呆れながら、クリームとフルーツソースのかかったパンケーキを漸く一口、口に入れる。
甘酸っぱい味と香り、柔らかな食感に少しだけ気分が上昇して、ここに来られたのは得だったかもしれないと思う。
私もそれなりに単純だ。
「美味しい?」
「うん、美味しい」
訊く前から答えが分かっていそうな、穏やかな笑顔を向けられて素直に頷く。
甘いものは適度に好きだし、確かに美味しい。
答えを聞いた男の、更に弛んでいく表情も別段不快感は感じない。けれど。
「葵っちの口に合ってよかった」
不快感はない。けれど、違和感はある。
詰め込んだ慈愛が溢れ出すような、こんな笑顔をこの男はしていただろうか。
(…何だかな)
していなかったに決まっている。
分かっているから、どんな反応を返すべきか迷うことが増えた。
適当にあしらえる程度の関わりで、どうしてか終わりきれなかった。
踏み込んだこともあるから、踏み込まれることがあっても拒めない。何となく自覚はしている。
今目の前にいる黄瀬は、私が縋れば確実に、力になろうとする人間だと。
解るから、居たたまれない気持ちも発散できないまま滞る。
「でも、何であんなの描いたんスか?」
うだうだと似合わないことを考え込んでいるこちらの気も知らずに、味わっているのかいないのか、私よりも早いペースでケーキを口に放り込んでいく黄瀬は首を捻る。
「随分な言い種だね、あんなのって」
「いや、悪い意味じゃなくてっ…ほら、オレ前に葵っちに頼んだことあったじゃないっスか。オレのことも描いてほしいって」
その時はあしらわれたけど…と視線を逸らす苦味の滲む顔を、見つめたまま答えを探すと、皮肉なことに浮かんでくる言葉は目の前の男の声で再生される。
『確かに、オレが葵っちに興味持った切っ掛けはそれだけど…でも葵っちは突き放さないでくれたじゃないっスか。だからそれからまた違う面もたくさん見れた』
『言葉だけじゃなくて、たくさんいい部分見て、知れたから』
不本意ながら疑問に対する答え、理由は被っていた。
過去は過去で、今は今。知り合って接していけば愛着も湧くし理解も深まってしまう。
だから、答えなんて至ってシンプルなものだ。
「描きたいと思ったから」
「…え……」
「あんただけをってわけじゃないけどね…。デザイン部門に挑戦したのは初めてだったし、どうせならインパクトのあるモチーフが欲しくて探してたのも本当」
嘘じゃない。自分がこれだと思うものでなければ、熱心に制作と向き合えない。納得のいく作品なんて出来上がるわけがない。
何でもかんでもいい作品に仕上げられるほどの腕は、私にはまだないのだ。
つまるところ悔しいけれど、描きたい、作り上げたいと私に思わせて拘らせるだけの力がモチーフにあったということで。
「…黄瀬を描きたいと思ったのも本当」
口に出すと、とても重い。
適当に描いて終わらせる程度では、満足できなかった自覚がある。
「そっ」
筋張る手に握られているフォークの先は、ケーキに刺さる前に硬直する。
四方にさ迷わされる視線と、徐々に色付いていく頬がやけに目につく。
「そう、っスか…」
「そう」
「う、わ…何か、嬉しいけど、うわぁ…っ」
今にもテーブルに突っ伏してしまいそうなほど、上半身を傾けて真っ赤になった顔を隠す男の正直な態度には、こちらからは何とも返せない。
ただ、こんな喜ばせ方をしたかっただろうかと、浮かぶ疑問も消化しきれなかった。
結局、当初の目的は果たされたのかどうか。判らないまま時間を潰して帰路につこうとした私に、夕方までの約束を持ち出して家まで送るという黄瀬を拒むこともできなかった。
約束は約束だし、家まで送られることも初めてではないから、構わないかという気持ちもあって。
けれど、自宅のある道へ差し掛かった瞬間、視界に飛び込んできた光景に自分の判断の甘さを恨むことになる。
「…葵っち、あの車」
ざわざわと、悪感情に胸が騒ぐ。
隣を歩いていた黄瀬の表情が険しくなる。恐らく私はその倍は顔を顰めて、門の近くに停車された黒塗りの高級車を睨み付けた。
ああ、甘かった。
頭の奥で、吐き捨てる。
どうして予測しなかったのかと、自分を罵りたい気持ちで一杯になる。
前にもあったことなのに、忘れるなんて間抜けすぎる。
「葵っち…あの人、知り合い…?」
家の前まで張られてしまえば、身を隠すことは不可能だ。
運転席のドアが開き、出てきた壮年の男は上等なスーツを軽く手で整えると、ゆっくりとした動作でこちらに体を向ける。
その動きが、逆に逃げ場のないことを思い知らせてくるようで。
「知らない」
冷たくなっていく指先を握り締めた拳が、震えた。
不機嫌少女の最後の砦逃げられるものなら、永遠に逃げていたい。
許されているはずなのに、どうして叶わないの。
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