▽ 黄瀬涼太と非想定事態
天気、よし。持ち物、よし。ルックスもいつも通り、よし。
此処まで辿り着くまでに何度確認したか知れないが、これが最終確認ともなれば見る目も厳しくなる。
問題がないことをきっちり確かめて最後、鏡の中から睨んでくる緊張した面持ちに軽い平手を入れてその場を離れた。
迷いに迷ってチョイスした服装や小物、一応はめてきたサングラスを弄りながら嘆息する。我ながら女子並みだと呆れたくなるような気持ちもないではない。
今までにも女子と遊びに出掛けたことはそれなりにあっても、さすがにここまで念入りに自分にチェックを入れるようなことはなかった。
それもその筈、今日の用事はプライベートの中で位置付ければ最高ランクの重要事項。多分恐らく生まれて初めての、好きな子と休日を過ごせるチャンスなのだ。
浮き足立っても仕方がないことだろう。誰だって、好意を持つ相手には同じように見てもらいたいと思ってしまうもので。
(やっば…)
緊張、してしまう。どうしても。
ゆっくりと迫り来る時間を携帯で確認して、無意識に唾を飲む。
デート、なんて、彼女相手にそんな言葉を使ってもいいのか。そんなところから気にして走り出しそうになる心音を、深呼吸で落ち着かせる。
どれだけ冷静さを保とうとしても、平常心でいられるわけがない。それでも顔に出すわけにはいかない。呆れられるのは慣れていても、格好悪いところばかり見られるのは嫌だから。
もう既に手遅れな部分もかなりあるし、今更と笑う彼女の親友の顔も浮かびはしたけれど。
「あ」
「! あ、葵っち! 早いっスね!」
待ち合わせ場所と知らされていた駅、改札を出てすぐの適当なスペースでディスプレイに並ぶ数字を睨んでいると、耳に馴染む声を拾って反射的に顔を上げた。
少し離れた場所にモノトーンでまとめられた服装の待ち人を見つけて、その瞬間にまた鼓動が乱れる。
約束の時間までまだかなりの余裕があったのに、人ごみを縫うようにして近付いてきた彼女は珍しくぱちりと目を瞠っていて。それが可愛くて心臓が跳ねたことには、多分気付かれていないと思いたい。
しっかりしろ、オレ。意識しすぎるな。
「早いって…どっちが」
あんたの方が早いとは思わなかった、と正直な気持ちを吐き出す彼女は今日も容赦がないから、その部分には安心できる。
「やー、さすがに女の子待たせたりはしないっスよ」
意外だと言わんばかりの表情で見上げられて、溢れる苦笑を抑えることもできなかった。
確かに相手が彼女じゃなければ、今日のように30分前から待機なんてことは絶対にしない。けど、それを本命にまで適応したいとは勿論思わない。
焦りや緊張でへまをしないように、心を落ち着かせる為の時間が必要だったこともある。
「それは変装?」
オレの内心に気付かないのか、敢えて無視しているのか。どっちにしろ指摘されても困るので、サングラスを指差してきた葵っちに合わせて頷く。
一応、目立ってしまわないよう人目を誤魔化せるアイテムを持ってきたのは、周囲の邪魔で彼女に迷惑をかけたくないとも思ってのことだった。
全く、どんだけ楽しみにしてるんだか…。
目の前で軽く首を傾げる葵っちには、さすがにこんなに舞い上がったり慎重になっていたりすることは、悟られはしないだろうけど。
「騒がしくされるとまずいんじゃないかと思ったんで。葵っちは辛口なファッション似合うっスね! あっでもいかにも女の子な格好も似合いそうではあるか…」
「動きにくいのは好きじゃない」
「えー…葵っち可愛いのに、勿体ない」
「可愛いってのは蜜果みたいな子のことを言うんじゃないの」
何の感動も示さずに歩き出した彼女に並べば、紡がれる慣れたやり取りに少し安堵する。
緊張感は取り払えなくても、普段と変わらない会話が成り立つなら余裕もできた。
可愛いのになぁ、と本音を口に出しても変に意識されないのは、言葉が軽いと思われている証ではあるのだろうけれど。
苦いものを感じつつ、今の関係では都合がいいこともあって、なんとも言えない気分にも見舞われた。
ほんとに、可愛いのに。
(いつか、言えるんスかね)
その日が訪れるとしても長くかかりそうだと、吐き出したい溜息は笑顔の裏で飲み込んだ。
「で…葵っちの作品はどこにあるんスか?」
「奥。だけどせっかくの機会だし、他の作品も観るのを勧めるよ。面白いものも結構あるし、彫刻とか…造形ものなんかは正に現代アートって感じあって楽しいんじゃない?」
「でもそう言うってことは葵っちはもう見て廻ったんじゃ…付き合ってくれるんスか?」
案内されて辿り着いた美術館に、足を踏み入れたのは初めてだった。
解放されたギャラリーの入口で貰った簡易的なパンフレットを広げて名前を探そうとしている中、数歩先を歩く細い背中が黒いカーディガンを揺らして振り向く。
その表情は当然のことを訊かれたかのような、不可思議なものを見るようなものだった。けれど。
「誘ったからには付き合うけど」
その言葉一つで、馬鹿みたいに嬉しくなる自分は救えないと思う。
彼女の性格を考えれば当たり前の返答なのに、格好つけることもできなくて弛む頬を抑えられない。
「じゃあ、そうするっス」
デート、なんて甘やかな呼び方は、やっぱりできそうにない。
それでも、ただ彼女と付かず離れずの距離で過ごす時間を、今は大事にしたいと思えた。
黄瀬涼太と非想定事態充分だなんて言えなくても、今はまだ自分は満足していられるレベルだと思っていた。
信頼を勝ち取る為に動くことは考えても、求めるつもりはまだ、なかったはずで。
それなのに。
そうだというのに、これは何だ。
数々の受賞作品を観て回り、辿り着くべくして辿り着いた一郭で、殊更に目を引く色彩に足を止めさせられた。
流すように観ることを許さない、進もうとする足を止めさせる力が、その絵にはあった。そしてその感覚にも、既に覚えがあった。
(渡り廊下、の)
忘れもしない。夕陽に照らされた校舎の風景。
芸術的なものにそこまで興味もないような自分が、初めて見入ってしまった、あの絵。
あの繊細な風景画と比べれば、イメージは遥かに遠い。赤や黄といった暖色を多く使った力強いデザイン、レタリングされた架空の催しの文字、ポスタリゼーション調に描いたその絵は、デザインと人物画を融合したようなインパクトがあった。
作品の下に貼られたキャプションを確認するまでもない。
描かれたその絵を見つめたまま、どくりどくりと脈打つ心臓の音を耳の奥で聞いて身動きをとることも忘れたオレの隣に、少し距離をおいて並ぶ彼女はただ一言、呟いた。
「綺麗でしょ」
珍しいくらい、穏やかな声で。
微かに笑った彼女の視線の先、オレの逸らせない視線の先には、鮮やかな色で描かれたゴールとバスケットプレイヤーのシルエットが躍っていた。
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