不機嫌少女 | ナノ

▽ 不機嫌少女の心的負担



交わされる会話はわざとらしいほどにテンポが良く、数分前に味わった緊迫感は霧散して他愛もない日常が帰ってきたように思えた。
ああ、そうだ。これが私の日常だ。
普段並んで帰路につくことはない男がすぐ隣を歩いていても、それでも非日常的な有様には到底及ばない。

脳天気な声が、意味も殆どないようなやり取りが、暗鬱とした気分を深く深く沈めていった。



「ここが葵っちの家?」

「そう」



新築とは言い難いが古めかしくもない、一軒家。特徴と言えば整えられた庭や季節の花々と言ったところか。門から玄関まで続く細道の片脇を飾る向日葵は、夏の日差しを浴びてほぼ枯れ落ちている。

見目に拘る母のことだから、秋にはまた違う花を咲かせるのだろう。門の傍に昔から植えられた金木犀も近々芳香を漂わせ始める。それを楽しみに思いながら、緩慢な仕草で私は男に向き直った。



「送ってくれてありがとう。あと、遠回りさせてごめん」

「え、いやっ、オレは葵っちといられて寧ろお得だし、謝んなくても!」

「あんたはそうでもお姉さんには悪いでしょ」

「いや、どつかれて終わると思うっス」

「…そう」



やはり弟は姉の尻に敷かれる立場にあるのか。一般的な兄弟像を目の前の男に照らし合わせると、悲しいくらいしっくりきた。



(まぁでも、仲が良いってことか)



何事も気兼ねなく押しつけ合えるということだろう。それも一種の幸せの形ではある。
僅かな羨ましさも感じながら嘆息した私に、すぐに去るつもりはないのだろう。家に前に立ち止まったままの男は気にした様子もなく口角を上げた。



「葵っちは一人っ子だよね」

「言ったっけ」

「聞いてないけどなんとなく。笠松センパイに兄って付ける辺りもそんな感じだし。てか、それもあってなんスけど」



笑っている男の顔が、苦く歪む。それを合図に、振り払ったはずの重苦しい空気が舞い戻る予感がした。



「葵っち、ホントに大丈夫?」



現代社会において、働きに出ず家事に専念するような親も少ない。男の心配を正確に汲み取って、私はうんざりとした気持ちを取り戻した。

つまり、一人で大丈夫かと、この男は気にしているのだ。
先刻の不審な人間とのやり取りを見られていれば仕方のない部分もあるかとは思うけれど、一刻も早く忘れてしまいたい私からしてみれば面倒以外の何物でもない。

それが優しさなのだということは解っている。
解っていても、それでも、触れて欲しいとは思えないだけで。



(最悪)



何が最悪かって、一番は私だろう。
本気で、純粋に気に病んでくれる人間ですら、近付けたくないなんて。
別にこの男は何も悪くない。悪いどころか助けにすらなってもらっておいて、迷惑だなんて思う自分の方が恩知らずだ。

解っている。
そんなことは、解ってるけど。



「ハルト」

「へ?」

「ハルトがいるから一人じゃない」



自分でもあからさまな躱し方だと思う。けれど、どうにかこの話題を終わらせたい。
それだけを狙って吐き出した言葉に、目の前の男は一拍置いた後に顔色を変えたかと思うと、その大きな手でがしりと両肩を掴んできた。



「だっ、え、お、おとっ男!? 誰!?」



動揺し過ぎにも程がある。

切迫した表情でずい、と突き出された整った顔に頭突きでも食らわせてやろうかと考えて、止めた。
タイミング良く視界に小さな影を捉えて、そちらに注目させるよう右手で指差す。



「あれ」

「!? あ、あれってど……れ?」



確かにその姿を捉えても、すぐには理解できなかったらしい。
指し示した塀の上をしなやかな足取りでこちらへ歩いてくるシャム猫。私と目が合うと機嫌よさげに瞳を細めるその猫を軽く数秒間見つめて、男はぎこちない動作で再び見下ろしてきた。



「え、えっと…あれ、もしかして夏休み前に葵っちが描いてた…?」

「飼い猫のハルト。良く覚えてたね」

「そりゃまぁ…すごい優しい雰囲気で描かれてたし…って、でも、猫って…」



焦った、と項垂れる男の意識は逸れただろうか。ずるりと力の抜けた手から身を引く。
バランスを取りながら近付き、高い鳴き声で甘えてくる猫を引き寄せて胸に抱くと、丸くなった目が近くに立つ男を警戒するように睨み付けた。



「…とりあえず、言い分は解ったっス。…けど、葵っち、気付いてるよね」

「…何が」

「らしくねーっスよ…そーゆー逃げ方」



疲れたように額に手を当てながら、溜息を溢す男の意識は完全に逸れてはくれなかったらしい。
自然と自分の表情まで険しくなるのが判った。けれど、判ったところでどうしようもなかった。

解ってる。そんなこと。
私が望む私の形が、ぐずぐずと崩れていっている。
そんなことは、誰に指摘されるまでもなく自分で気が付けることだった。



「…葵っち。オレ、やっぱり誤魔化されんのは嫌っス。どうしたって、今日の葵っちの言葉は…信じきれないよ」



踏み込むべきか、踏み込むまいか。それを慮りながらも近付こうとするその足に、頭痛がする。

解ってる。私がおかしい。心配されていることぐらい、理解できる。
駄々をこねて何もかもを遮断できるほど、子供でもない。



「さっきの男も…葵っちは知らないって言ったけど、とてもそうは見えなかったし。分からないから、オレも特に何もできないし…いや、しなくていいって葵っちは思うのかもしれないけど。でも…無理っスよ、やっぱ」



解ってる。解ってるよ。
解っているけれど、受け入れきれないだけ。

力のこもる腕の中から、息苦しさを感じた猫が逃げ出した。
逸らせない視線の先で、苦い顔をした男が笑う。



「いくら葵っちが大丈夫って言っても、そんな顔してるのほっとけないよ」



私は、一体どれだけ情けない顔を晒しているのだろうか。
ぐしゃぐしゃに丸められた虚勢の所為で、返す言葉が見つからなかった。







不機嫌少女の心的負担




「話したくないなら、今はいいっスよ。それならオレが、葵っちが話したくなる人間になるから。でも、だから、強がりで隠すのはやめて?」



オレが頑張るから。踏み込めるくらい強くなるから。

そう口にする男に、強張る肩から力が抜けた。
何言ってんの、こいつ。



(馬鹿じゃないの)



知ってたけど。この、馬鹿正直な犬のような人間の性質だって、充分に理解していたつもりだ。けれど。

何でそこまで。どうして、触れてくる。私本人ですら避けて通りたい事情に、意識を留めようとする。
ああ、もう、どうしてくれるのか。整理のつかない頭の中が、ぐちゃぐちゃだ。



「あっ、あと何も言わずにこの腕の中に飛び込んできてくれても!」

「しない」

「ですよね…!!」



一変して明るい空気を呼び込み、大袈裟に悔しがる姿は普段と何ら変わらない。
憎たらしいくらいに器用なその男の顔面を、私が猫なら引っ掻いてやりたいところだった。

忠犬のような態度を保っているくせに。
何で、逃がしてくれないの。

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