不機嫌少女 | ナノ

▽ 不機嫌少女と一つの事情



大きな期待を抱いたことなんてない。私の世界は諦めが殆どを埋め尽くして、その中でほんの少しだけ、消えない優しさを守っている。
別に、それで良かった。手に入らないなら望むだけ無駄で、そんな暇があるなら持っているものを、叶うだけの望みを大切に抱えていればいい。

間違ってるなんて思わない。そもそも間違いなんてないのかもしれない。
けれど否定はさせないし崩させない。何故ならそれは私の価値観で、私の生き方で、口出しされるものでも何でもないからだ。

だから、目の前の不穏分子に構うのは、無駄だ。



「すみませんが、見ず知らずの人間にはついて行けません」



表面上は優しげな風貌をしている背広の男に、込み上げる吐き気を押し殺して答える。
言い争う時間も惜しい。関わり合いにもなりたくない。それだけの思いで、使いっ走りでしかない人間にでも牙を剥くことを選んだ。



(冗談じゃない)



ついて行ったところで、手荒な扱いを受けるということはないだろう。家に帰されないということもない。身の危険に晒されるわけではない。
解っている。それでも、嫌なものは嫌なのだ。感情のままに睨み付ければ、人の良さそうな顔をしたその男は眉を下げて笑った。



「見ず知らず…とは、些か無理があると思いますが」



困ったような顔をする男が、どんな立ち位置にいる人間なのかは知らない。私には関係がないし、今の状況で他人のことなんて気にしていられない。



「貴斗様は…ご存じですよね」

「知りません」

「まさか、本当に名前も?」

「すみません。遅くなりたくないので失礼します」

「依鈴様!」



頭が痛い。胃もおかしくなりそうだ。
立ち去ろうと背中を向けたところで、慌てたように掴まれた手首と呼ばれた名前に本気で吐き気が込み上げた。

気持ちが悪い。



「触るな!!」



力任せに振り払った手は、案外容易に拒むことができた。
けれど、失った冷静さを取り戻すのは、簡単なことでもなかった。

驚いた表情で手を引く男から二、三歩遠ざかった足が震える。どうしようもない。どうしようもなく、気持ちが悪い。息苦しい。目眩がする。



(何で)



何で今更。どうして私に。何の理由があって接触しなければいけないの。
私が何をした。私に何の意味がある。何の意味もないから私は、

私は、葵依鈴なんでしょう。



「え、あれ…葵っち!?」



頭の奥が重く、急速に締め上げられる感覚にしゃがみ込んだ瞬間、遠い距離から聞き覚えのある叫び声を聞いた。
慌てたような声の後にはコンクリートを蹴る足音が響いて、蹲る私のすぐ近くで止まる。



「ちょ、どうしたんスかしゃがみ込んで!? 具合悪いとか!? ってか、えっと…この人は? 知り合い?」



顔を上げなくても、状況は判る。まるでタイミングを計っていたかのように現れたそいつの手が、気遣うように背中に触れる。
じわりと広がる熱は身体の芯に浸透していくようで、狭まっていた気道が弛むのを感じた。



「…黄瀬」

「は、はいっス…葵っち大丈夫? 何があったんスか? 何か…ただ事じゃなさそうな雰囲気だけど」

「そいつに聞いて」

「そいつ…って」



背中をさする手がぴたりと止まる。それに合わせて私も再び顔を上げると、先程よりも更に困惑した様子の男が目に入った。



「私は…貴斗様の望みで此処にいるのですが」

「知らない。私には関係ない。意に沿わない連行なんて誘拐と同じよ」

「…何かよく解んねーっスけど…葵っちを誘拐するって言うなら、警察呼ぶっスよ」

「それは流石に困りますね…」



言葉通り、困り切った様子の男に悪意はないのだろう。顔を見れば大体の人間性は分かる。
それでも、それとこれとは話が別だ。例え目の前に立つ男がどれほどの善人であろうと、それを扱う人間が何を思っているかまでは把握できない。



「解りました。この場は引きましょう。代理人では話にならないようですので」



一つ溜息を落とした男は、最後まで礼儀を欠く様子はない。混乱させてしまったようで申し訳ありませんと、不躾な言葉を吐いた此方に頭を下げてきた。

バックは兎も角、この男自身は悪い人間ではないのだろう。だからといって協力はできないが、苦い気持ちを抱いたのも確かだった。



(私には、関係ない)



関係ない、はずだ。けれど。



「葵っち…大丈夫?」



黒塗りの高級車が遠ざかった直後、横から掛けられた気遣わしげな声に軽く肩が跳ねた。
あからさまな反応だ。舌打ちしたいような気分で改めて見上げた時には、整ったその顔は顰められていた。



「何だったんスか、さっきの。雰囲気普通じゃなかったっスよね」

「…分からない」

「それ、本当に?」

「本当に。何が起きてるのか私は知らない」



嘘じゃない。知らない場所で、誰が何を考えているのかなんて。私は本当の意味では知らない。知らなくていいことだから、知りたくない。

唇を噛む私に何を思ったのか、はあ、と大きな溜息を零した黄瀬は、仕方なさげに先に立ち上がった。



「立てる?」

「別に怪我したとかじゃないし…ていうか、何であんたが此処にいるの」

「部活終わって帰るとこっスよ。今日は姉ちゃんに頼まれ事してて、自主練できなくて…でもそれで不審な男といる葵っち見つけたから、今回は結果オーライっスね」

「…ごめん。助かったわ」



大丈夫だと言っているのに、腕を引いて立ち上がらせてくれたそいつに素直に頭を下げる。
込み上げていた不快感は大分落ち着いている。けれど完全に消えたわけでもない。
不安感、嫌悪感、封じ込めて鍵を掛けていたものが、今にも内側から食い破って出てきそうな気がした。

本当に、どうしようもない。



「…帰ろ、葵っち」



差し出された手を、握る気にはなれない。だからといって振り払えもしない。
何も言わず、何も聞かずに無理な笑顔を浮かべる男に、私も何も答えることなくその隣に並んだ。










不機嫌少女と一つの事情




知りたくない。関わりたくない。
それを願うだけの権利は、私は手にしているはずだった。



(で…あんたはどこまでついて来るつもり)
(家まで送るっスよ。あんなん見ちゃったら心配だし)
(お姉さんの用事とやらがあるんでしょうが)
(いくらオレが馬鹿でも、どっちが大事かくらい見極めつくっスよ)
(……ありがとう)
(!…うん。どういたしまして)

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