▽ 不機嫌少女の歪む世界
昼休みが始まってすぐに出ていった親友がどこかスッキリとした表情で帰ってきたのは、終了時刻の五分前。流石に短い時間で顔を出すのは諦めたのか、黄色い大型犬の姿は隣にはなかった。
「ただいま依鈴ー」
椅子に座ったままの私の首にぴょん、と飛び付いてきた蜜果は、疲れたとごねながらも後悔する素振りはない。
どんな話し合いをしてきたかは知らないが、それなりに両者納得のいく決着がついたのだろうことは、その態度を見れば明らかだった。
果たしてそれが私にとって、良い結果なのかは判らないけれど。
「蜜果は今日は部活ないんだっけ」
「ないよー。依鈴は確か、結果発表?」
「うん、そう」
「うー…仕方ないけど、今日は依鈴といれる時間少ないなぁ…」
黄瀬くんめ。と、自分から呼び出しておいて恨み言を漏らす親友に苦笑する。
それでも話し合わなければならない何か、私についての何かが存在するのも明らかで、じわりと胸に広がる毒素に静かに息を吐き出した。
分かっている。何となく、なら。解っているのだ。
この子が私を大切にしてくれていることも、理解してくれていることも。
そして残りの一件も、気付いていると言えば、気付いている。
そのことを表に出さないでいるだけの、自分にも。
「でも結果発表は緊張するよねー。依鈴なら大丈夫だと思うけど」
「うん…いや、そうでもないかな」
「自信ありあり?」
「今回はわりとね。自分では納得いく形に仕上げられたから」
「さっすが依鈴! 私も早く見たいなー」
展覧会用の作品は仕上げた後はすぐに搬入の手続きに入るため、基本的に同じ美術部員にしか出来上がりを見ることはできない。
入選して展覧会で飾られるか、落選して返ってきたものを見るかの二択だ。そしてその選考結果が、今日の放課後に言い渡される。
正直、賞が欲しい気持ちがないではない。自分の作品が認められることは素直に嬉しいことだ。
けれどそれ以上に、自分が描いていて楽しかった。熱中できたものを誰かに見てもらえる。それが一番、意味があることだと思う。
(結果は二の次かな)
まぁ、落選して影でこそこそ嗤われるのも不快だから、遠慮したいとは思うけれど。
私としては初のデザイン部門で、自分なりに納得のいく作品が作れただけでも満足な気持ちもある。
「ま、期待され過ぎても困るけどね」
結局のところ、選考委員会の好みもあるんだし。
肩を竦めながら私が呟けば、首に巻き付いていた蜜果の腕がするりと解けた。
見上げた先には、にっこりと笑う可愛らしい顔がある。
「そりゃあ入選してたら凄いけど、私は依鈴の絵だから楽しみで、見たいだけだよ」
「…そっか」
「そう!」
胸を張って頷く親友に、軽く吹き出しそうになる。
同時にじんわりと温かいものが込み上げて、僅かに強張っていた部分が溶かされたような気がした。
「ありがと、蜜果」
ああ、やっぱり大事だな…なんて。
密かに察しのいい親友には、この機微も悟られているだろうか。
不機嫌少女の歪む世界いつまでもこうして、小さな痛みに苛まれながらでもぬるま湯に浸って生きていたい。
そう思うのは人として、別におかしいことじゃないだろう。
楽に生きたい。無駄な争いはしたくない。触れないで欲しい部分には、気付かれたくない。
そう思うのだって、当たり前の筈だ。
私がおかしいわけじゃない。
「葵依鈴様、ですね」
展覧会の選考結果を言い渡され、久々に軽く自由制作に手を加えてきた、帰り道のことだった。
校門を出て、数十メートルは歩いたところ。道端に置かれた乗用車、それも滅多に見られない黒光りする高級車を見つけて、頭の奥に嫌な感覚が集まるのを感じた。
悪い予感を振り切るよう、その横を速足で通り過ぎた次の瞬間に運転席のドアが開いたということは、バックかサイドミラーで窺っていたのかもしれない。
三十路かそこらだろう。落ち着き払った眼差しで私を名指してきた男は、これもまた質の良さそうな背広を着込んでいた。
「如月貴斗様が、一度会って話をしたいとのことです。御同行をお願い致します」
形式的な言葉の羅列に、その一瞬で吐き気が込み上げる。
湧き上がる嫌悪は一気に胸の内を埋め尽くして、穏やかな気持ちを食い破る。
小さな望みじゃないの。
私の願うことなんて、一般的で陳腐なものだ。その筈なのに。
(死に腐れ)
ぐちゃぐちゃに掻き回された絵の具が濁るように、私の世界が汚染される。
これだから、嫌いなんだ。
面倒事なんて、
(大っ嫌いだ)
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