▽ 黄瀬涼太と好敵手
ずっと、羨ましかった。
その立ち位置が。与えられた優遇が。彼女の笑顔を引き出せる特権が。
人間として嫌いだったわけじゃない。けど、認められるほど大人でもなくて。
でも、今はどうだろうか。
オレは、どう思ってる?
「随分スッキリした顔してるのね、黄瀬くん」
連れてこられた屋上に人気はなかった。
まだ夏の名残のある、強い日差しの中を選んで昼食をとるような物好きはいない。
着いて早々日陰を陣取り、女子らしい小さな弁当箱をコンクリートの床に投げ出した彼女の親友は、姿勢正しく正座をするとまぁ座れば、とその正面を指した。
それに素直に従い、腰を下ろす。湿気の残る空気が不快だけど、今はそんなことを気にしている場合でもないんだろう。
(昼…食べる時間あるかな)
置かれた弁当には手を付けず、鋭い目付きで睨んでくる柏倉さんを冷静に見返しながら、思う。
だけど、動けない。こっちから空気を壊すこともできずに黙っていると、真一文字に結ばれていた唇が不意に弛んだ。
「まどろっこしいのは嫌いなの。だから単刀直入に訊くね」
「…なんスか」
「黄瀬くん、依鈴のことどう思ってるの」
初めて、目の前に座る女子の声が凛と響いて聴こえた。
初めて、真っ向から向き合わなければいけなくなった。
オレを見つめてくる瞳は真剣さを極めていて、揺らがない。そんなところに彼女との共通点を見て、一瞬吸い込んだ空気を飲み込めなかった。
ひゅう、と喉が鳴る。
(ああ)
でも、解ってた。
言われること、訊ねられること。予想できないほどは、オレだって馬鹿じゃない。
もう、出てきてしまった答えの、処理方法だって考えてる。
「好きっスよ」
口に出したことで、歯止めが効かなくなるようなことはなかった。
だって、そんなのは初めから分かりきったことだ。オレが葵っちを好きなことなんて、今更すぎて躊躇いもない。
だけど、それだけのことでもない。それだけで括ってしまえるほど、簡単で綺麗なものでもなかった。
もう、気付いてしまってる。
「それは、どういう意味で?」
厳しさの増す視線に、自分の口角が上がるのが判る。
遠くからは昼休み特有のざわめきが聞こえてくるのに、風まで生暖かい屋上だけが、別世界のように静かだった。
「どういう意味でも」
答えるオレの声にも、普段とは違う色が混ざった気がした。
ああ、そうだ。間違いない。逃れられない。関係なかったんだ、最初から。
(意味なんか)
葵依鈴の顔が好きだ。
日焼けしていないいかにもインドア派らしい白い肌。つり目がちで、その奥を覗かせてくれない真っ黒な瞳。程好く高さのある鼻に、薄く色付いた小さな唇。艶のあるさらさらと手触りのいい髪も、そこから覗く形のいい耳も。
葵依鈴の身体が好きだ。
片手でへし折れそうな細い首。同じく纏め上げてしまえそうな手首。桜貝のような爪。しなやかでオレのものより一回り以上小さいその器用な手、指。すぐに吹っ飛びそうな薄い胴体、無駄な肉を削ぎ落としたような細い足。
葵依鈴の中身が好きだ。
誰にでも平等に優しくて、大切な厳しさを持っている。言葉を選んで言葉に逆らわない、潔く純粋な生き様。懐に入れた人間には、とことん甘くて弱い。だけど自分の意志に真っ直ぐで、貫く強さは男のオレよりあるような。
そんな子を、好きにならないなんて、無理だった。
「オレは、葵っちが好きだよ」
普段は鬱陶しそうに扱っていても、本当に欲しいものは絶対にくれる。
分からない痛みには触れずにいてくれる。その代わりに痛くない励ましをくれる。
真っ直ぐに、人を、オレを見てくれる。誰よりも優しくて、綺麗な人だと思った。
「オレは、柏倉さんが羨ましいんだと思ってた。でも、本当は違ってた」
その立ち位置が、与えられた優遇が、笑顔を引き出せる特権が羨ましくて堪らなかった。欲しいんだと思っていた。
でも、多分違うんだ。欲しいものは友達とか親友とか、そんな呼び名じゃなくて。
それらが欲しかったのは嘘じゃないけど、彼女に求めたものは形が違った。
「オレは葵っちに、一番信頼されたい」
男として、一番近くで。
口にした言葉はオレの中では最大級に重くて、それを耳にした柏倉さんの眉がぴくりと動く。
間違いなく、この学校では一番彼女に愛されているだろう女子は、オレを見つめる目を一瞬だけ強くしたかと思うと、深い溜息を吐いた。
「無責任」
「…まぁ、そこは否定できねーっスけど」
「友達になりたがってたのは誰よ」
「オレだけど! でも、」
「知ってるっつーの」
はぁ、と二度目の溜息と共に吐かれた台詞に、軽くつんのめりそうになった。
「は…はぁっ!?」
「じゃなきゃあそこまで邪魔するわけないじゃない。馬鹿じゃないの? 今更気付くとか」
「バッ…馬鹿って、や、てゆーか知って…!?」
「分からないわけないでしょ。馬鹿じゃないの?」
「え…えええ…っ!?」
苛立たしげに髪を掻き上げながら漸くオレから視線を逸らした、柏倉さんからの衝撃の告白に一気に頭の中が真っ白になる。
自覚ない内からバレバレとか…そんなに分りやすかったのオレ…!?
「じゃ、じゃあまさか葵っちにもっ」
「…依鈴には伝わってないだろうけど」
「な、なんだそっか…」
安心した…ような、残念なような…。
ほっと胸を押さえながら安堵していると、オレから顔を逸らしたままだった柏倉さんがそれから、と溢す。
その表情は、オレの目には少しだけ暗く映った。
「ただ、黄瀬くんが本気になるなら伝えておくべきだから」
「? 何を…」
「依鈴は、男女間の情を信じようとはしないよ」
「え…と……何スか、それ」
情を、信じない…?
軽く首を傾げるオレに、再び帰ってきた視線はとても、苦いものだった。
「依鈴が知らないのは、知ろうとしないから。拒否しているから」
「…どういう」
「依鈴は男を、そういう意味では一欠片も信じてないってこと」
そういう意味とは、恋愛的な意味、ということだろうか。
わけも解らず眉を寄せる。
「よりにもよって、信頼が欲しいとか……本気なんだろうけど、面倒だなぁ」
「っ…だから、どういうことっスか! 本気じゃ駄目なのっ!?」
「うるさい。叫ばなくても聞こえる。悪いとは言ってないでしょ。言葉通り面倒なだけよ」
深い深い溜息と共にやっと弁当箱に手を伸ばしながら、柏倉さんは一度黙りこむ。
表情はどこか固かった。
「もし」
目線が、定まらない。迷うように宙を漂う。
「もし、途中で気が変わるような想いなら、今捨てて。トラウマにしかならないから」
「…変わんないっスよ」
「私、依鈴を傷付けるような人間は、近付けたくないから」
「傷付けない。いや、よく解んないとこもあるけど…でも、変われないでしょ」
目蓋を閉じれば、姿が浮かぶ。耳を塞げば、声が響く。
心酔してる。この状態を、簡単に切り離してしまえたらこんな結論には至らない。
バスケが好きで、それが一番大切なものだと思ってた。だけど違う。大切だけど、それだけだなんて、思えなくなっていって。
やっと分かった。彼女がオレに、与えてくれていたもの。彼女だけじゃない繋がりも全て、教えてくれようとしていたこと。
不器用で、厳しいから、馬鹿なオレはこうなるまでずっと気付けなかったけど。
大切な人だ。
葵依鈴はオレにとって、掛け替えがない、大切な人。
「たとえ何年経ったとしても、葵っち以上に綺麗な人なんか見つかんねーっスよ」
だから大事にしたくて、優しさも与え返したくて、そうできるくらい傍にいたい。
初めて口に出したオレの結論を初めて耳にした柏倉さんは、もう数えていられない数の溜息をまた一つ、溢した。
黄瀬涼太と好敵手分かったことが、いくつもある。
その中には、オレ以外の望みも含まれていた。
「私がいたい場所に、黄瀬くんは行くかもしれない」
「うん」
「だから裏切ったら、許さない」
一番の信頼を。彼女の愛情を。
得たい人間は一人じゃなくて、だけど一番になれるのは一人しかいない。
羨ましくて、悔しくて、やっかんだこともある。
彼女の隣を陣取る女子を、今はどこか近いものに感じるのは、そういうことなんだろう。
「裏切らねーっスよ。約束する」
「破ったら針千本その顔に突き刺す」
「こわっ!」
びしりと箸の先で顔を示されても、今は笑うことが出来た。
今のオレには。
(柏倉って長いから柏っちでいっかなー)
(気持ち悪い)
(ひっど…いいじゃないっスか。友達兼ライバルってことでしょ?)
(気持ち悪い)
(がち凹みさせたいんスか…?)
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