▽ 不機嫌少女が疎むもの
中学二年の夏に、画材を壊されたことがある。
いつものように部活に勤しもうと、部室に置いていた画材用具の入っていたバッグのファスナーを開けた瞬間に、一度だけ心臓が縮んだ気がした。
折れた絵筆、鉛筆が見えて、それを囲うように入ったぐしゃぐしゃに丸められた紙は、恐らくそれまでに描いてきた絵だ。
バッグの中をべっとりと汚す絵の具にも目が行って、深い溜息が溢れ出た。
動揺は、一瞬。理解は早い。
夏に行われる中高生の美術コンクールで、その年に私は次席を獲得していた。
嫉妬心からの犯行だと、すぐに解った。中学生という子供と大人の中間に位置するデリケートな時期に、自分が一定の輪の中に入りきれていないことも、奇異の眼で見られていることも、私はちゃんと、理解していたから。
(馬鹿みたい)
筆も紙も、買いなおせる。
絵だって、今までよりこれから、もっといいものが描ける。
意味のない攻撃だと内心罵りながら、それでもただ、悔しく思ったのは…
きっと、誰でもない母が一番に私に謝るだろうという、そのことだった。
固まりかけていた身体を解しながら美術室に戻れば、にやにやと笑いながら群がる男が視界に入った。その瞬間に吐き気すら及ぼす嫌悪感が芽生える。
ああ、これだから、と。
(これだから、男は)
別に全てを否定したいわけじゃない。いい人間だって知っている。
それでもそんな言葉が浮かぶのは、最早刷り込みのようなもので。
胃の辺りで揺らめく怒りを感じながら、私は直ぐ様最大の反抗を、表した。
*
「顔色よくねぇな」
「…ちょっと夢見が悪かっただけ」
「そうか」
何にしろ気を付けろよ、と頭に落ちてきた手は素直に受け止めて頷いておく。
夏休みに入って少し経つが、今日は久し振りに朝早くから目が覚めて部活に行く気が起きた。美術部は自主的活動が多いため、決まった時間の括りは特にない。
画材やら昼食やらの準備を済ませて家を出たところで偶然、こちらもまた部活に向かう途中の幼馴染みと鉢合わせた。
その流れで一緒に登校しながら、掛けられた言葉は若干こちらを気にするようなものだったから、少しだけ気が緩む。
昔から、幸男兄といるのはわりと楽だ。
「ていうか、どんな夢見たらお前がダメージ受けるんだ?」
女子が苦手と言うわりに随分と平然と私の隣を歩く幸男兄に、相変わらず遠慮がないな、と息を吐く。
別に隠し立てする理由もないので構わないけれど。寧ろ、気を使われるよりはずっといいし。
どう言おうと内容は変わらないし、悩みもしない。
正直に中学時代の画材事件だよ、と答えれば、並んで歩くその表情が苦味を帯びて歪んだ。
「何で今更そんなネガティブな夢見るんだ?」
「私に訊かれても。夢は選べないし」
「やな夢見るな、お前」
「…一応、竹篦返してやったとこまで見てスッキリ起きたんだけどね」
「お前らしいけどな…しかし、スッキリ、ねぇ」
だったらその顔色は何だ、と言いたげな視線に、私の方も眉を顰める。
別に、気分が悪くなりたくてなっているわけじゃない。
勝手に顔色が悪くなっているだけだ。
(ってのも、意味分かんないけど…)
あの事件については、犯人の目星もついていたから当日の内に鎌を掛けて、部員全員の前で晒しあげてやったし。
今までの絵は仕方ないにしろ、その男子の親に直接交渉して画材用具の弁償もさせたので、今更怒りもない。
自分が最低なことをしたとは思っていない。人を呪わば穴二つ、というやつだ。
よく回る舌があってよかったと、寧ろ安堵したくらいで。
でも、何故今更そんな昔のことを夢に見てしまったのかというと、自分でもよく解らなかったりする。
言うほど悪い夢というわけでもなかったのに、どうして気分が優れないのかも。
(何か、あったっけ…)
最近、変化でも起きたか。
思考の海に沈みかける頃、すぐ前方に高校の校門が現れる。
特にこれといった会話もなく慣れた敷地に足を踏み込めば、どこからか聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「あ、センパイ。おはよーございまーす」
「あ? ああ、珍しく早いな」
「珍しくって! オレそんなに遅刻とかしない…え、えっ!? 葵っち!?」
「…喧しい」
どうやら幸男兄の影に隠れて見えていなかったらしい。
どこからか寄ってきた練習着姿の駄犬は大袈裟に仰け反り、微妙に距離を取った。
「な、何で葵っちがいるんスかっ?」
「部活に来たに決まってんでしょ」
「そ…そう…っスよね、うん、そうだよね…」
「何だお前気持ちわりぃ」
「ヒドッ! 気持ち悪いはあんまりっスよ!!」
あたふたとしながら視線をさ迷わせる、その態度は終業式までの間にも見ている。
わざとらしく開けられた距離、重ならない視線、わけの解らない起伏。それらを見ていると今日はどうしてか、額の裏側にもぞもぞとした感覚が広がり始めて。
ああ、これか。原因は。
察して、違和感は苛立ちに変わった。
どうでもいい、なんて、嘘だったのか。
自己嫌悪に吐き気がする。
「私、もう行くから」
「あ? ああ、じゃあな」
「え、ちょ、葵っち…!?」
狼狽える犬の横を通り過ぎる瞬間、咄嗟に伸ばされた手が私を捕まえる寸前で引いた。
それを横目に確認して、顔を逸らして生徒玄関を目指す。
馬鹿みたい。
馬鹿みたいだ。
(これだから)
これだから、嫌なんだ。
吐き出してしまいそうになる毒を飲み込みながら、ゆらりと身体を巡る感情に唇を噛んだ。
内に入れる人間は、選別しなければいけなかったのに。
不機嫌少女が疎むものあの夢の意味が、今ならはっきりと解る。
抱き続けた不信感、嫌悪感を、思い出させるためのそれだったのだと。
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