▽ 黄瀬涼太の動揺
その道を選んだのは、偶然だった。
部活の帰り道、ちょっとした買い物を思い出していつもよりも回り道をしたのは、本当に偶然としか言い様がなく。
知り合いに会うなんて夢にも思わなかったし、打算なんてものもあるわけがない。
そんな、何も考えずに普通に通り掛かった公園の入口を通り過ぎる間際に、あっ、という半分叫ぶような声を聞き取ることも、まさか予想できたはずもなくて。
「黄瀬! 待った!」
「っ! えっ…葵っち!?」
聞き覚えのあり過ぎるその声に驚いて、勢いよく首を捻った。
日が沈む前の薄暗い公園を覗いてその声の出所を探してみれば、敷地内には子供の影一つ見つからない。
思わずぞくりと背中に嫌な感覚が走ったのは…オレの所為じゃないと思う。
まさか幻聴?…と引き攣った笑みを浮かべそうになった時、再び聞こえた声はやっぱり彼女のものだった。
「上、上。ちょっと、助けて」
今度こそはっきりと聞こえたそれに従って視線を上げれば、ぶらりと下がる細い足。
入口から遠くない木の枝の上に腰掛け、幹に片手を回しながら下に立つオレを見下ろす葵っちの姿があった。
「…って、葵っちぃいい!?」
「うるさ…」
「な、何してんスかそんなとこで!? 危ないっスよ!?」
「だから助けてって言ってんでしょ」
いや、確かに聞いたけど!!
どういうことだ…と訊ねる前に、彼女のもう片方の腕が丸く何かを包む形になっていることに気付いて、その疑問は立ち所に消えてなくなった。
白い手から僅かに覗くのは、ぴんと尖った獣の耳だ。
オレの声に反応してかそろりとその顔は上がって、すぐに二つの丸い目が出てくる。
「…子猫…っスか…」
「降りれなくなってたんだよ」
「ああ…うん。何か解ったっス。でも葵っちよく登れたね」
確か、運動神経が滅茶苦茶悪いって聞いてたような。
近寄って確認した足や腕に目立った掠り傷が見つからないことに安心して、それでもどうやって登ったのかと首を傾げれば、小さな溜息が返ってきた。
その間も彼女の腕はがっちりと幹にしがみついている。
「近くの家から梯子を借りた。この子を落ち着かせるのと…私がバランスをとるのに必死で、倒しちゃったけどね」
「あー…それで降りれないんスね…」
確かに、木の裏手に倒れたオーソドックスな木製の梯子を見つけて、思わず苦笑する。
ミイラ取りがミイラになるって、こういうことか。
もちろんこの場合は悪い意味ではないけれど、渋い表情で目蓋を伏せている彼女がなんだか可愛い。
自分が降りられなくなる可能性を考えないタイプでもないのに、弱いものにはつくづく優しいんだから…。
そんな、馬鹿みたいな真っ直ぐさに、ついまた目を細めてしまう。
本当、いいなぁ。
「じゃあもっかい梯子立て掛けるから、ちょっと待って…」
「あ、いや。先にこの子お願い」
ずっとそわそわしてるから、と顎で示された子猫にもう一度視線を戻して、頷いた。
確かに、梯子があった方が救出には邪魔になるかもしれない。
「了解っス。じゃあこっち、おいでー」
「…引っ掻かれたらごめん」
「まぁ子猫だし、そのくらい大丈夫っスよ」
そっと、お腹を支える形で慎重に差し出された子猫は意外とおとなしく、びくびくと辺りを見回しながらも暴れたりはしなかった。
爪は立てられても、精々身体を支えるための力くらいしか加えられない。
地面に下ろしてやる前に軽くその頭を撫でてやった瞬間、またも上からあっ、という声が降ってきて、顔を上げたオレは息を飲みながら反射的に猫を逃がしていた。
「っ!!」
そしてそのまま、派手に傾いた身体に腕を伸ばして受け身をとった。
さすがにぶつかられれば衝撃は殺しきれず尻餅をついてしまったけれど、うまい具合に影を重ねるようにして落ちてきた彼女に深く息を吐き出す。
心臓が、ばくばくと煩い。
自分のものなのか彼女から伝わるものなのか、それすら判断は下せなかったけれど。
オレの胸に突っ伏すように落ちたまま固まっている姿を見下ろせば、彼女の方もかなり驚いているだろうことは見てとれた。
「はー…危なかった……葵っち、怪我してない?」
「………びっくりした…」
「いや、今のはオレの方がビビったと思うっス」
半分寝転がるような形で見上げた枝は、結構な高さがある。
あそこから落ちたら普通は怪我なしではいられないよな…と、今更うすら寒い気分で見下ろした胸元から、のろのろと起き上がった彼女の顔色も悪かった。
「大丈夫…ていうか、アンタの方がスポーツマンなんだし、困るでしょ。怪我は?」
「なし。うまく受け止められたみたいっスね」
「そっか……はぁ…」
答えを聞いて、彼女は強張っていた身体から一気に力を抜いた。
再びぐったりとのし掛かってくる行動に、違う意味で心臓が止まりそうになった自分は、やっぱり悪くないと思う。
「えっ…と……葵っち…?」
ヤバい。何だこれ。喜んでいいのか。
男女の差を差し引いても軽すぎる身体を支えながらきっちり身を起こすと、くったりと預けられていた頭は持ち上げられる。
ちょっと惜しいことをしたと思った、自分の思考に目を瞠りそうになって。
「ごめん…本当に助かったわ。ありがとう」
そして珍しいというよりも初めて見る弱々しさで、苦いもの混じりでも緩やかに弧を描く口角と下がる眦。
それらを十数センチという近すぎる距離で目にしてしまった瞬間、いつかのように世界の色が変わった気がした。
黄瀬涼太の動揺(あ、れ…っ?)
これは一体、どんな現象だろう。
凍り付く思考を嗤うように、にゃあ、と高く子猫が鳴いた。
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