▽ 不機嫌少女の拘り
基本的に、普段の勉強は最低限のことしかしていない。
授業中の板書も丸写しするだけだし、そうなれば自然と覚えておくべきポイントなんかも逃してしまいがちになる。
そこは教科書と照らし合わせながら、自分なりに埋めていくとして。
「何でアンタまでここにいるの…」
「葵っちが図書室に行くのが見えたから」
図書室の長机の正面を陣取ってにこやかにこちらを見つめてくる大型犬には、もう何を言ったところで無駄なのだろうか。最近はつっこみを入れるのも面倒になりつつある。
「今日は柏倉さんとは一緒じゃないんスねー」
「蜜果は家の用事」
「じゃあ葵っち独り占めできるんスね! やった!」
「騒ぐんなら勉強すれば?」
「安定のスルー!」
ちょっとくらいときめいたりとかないんスか、と不満たらたらな顔をされても、状況を考えてほしい。私は勉強をするためにこの場にいるのだ。
とは言え、状況がどうあれどときめきとやらを感じる可能性はほぼないが。
放課後の図書室に訪れる人間は少なく、時間を限って真面目に勉強するにはそれなりにいい環境だった。
騒がしくするなら帰ってほしい。
その意を込めて無言で見つめ返せば、それなりに聡い犬は渋々と鞄から筆記用具を取り出した。
元々、勉強を教えてほしいと口にしていたのはそっちのくせに。
「葵っちって真面目っスよねー…ちょっとくらいお喋りしたっていいのに」
「その慢心が成績を下げる。経験はない?」
「うっ…まぁ、無きにしもあらず…けど、オレ葵っちとクラス違うし。毎日会いに行ってるけど話し足りないこともたくさんあるんスよ」
唇を尖らせて、自分は拗ねているのだと判りやすく示す犬は、未だに自分の所属するクラスには溶け込めずにいるらしい。
どうしようもない奴だな、とは思うものの口には出さずに、私は無言で自分の問題集に赤ペンを走らせた。
私だって自分のことに精一杯だ。今更な事情を気にする時間が惜しい。
「現代文?…うわ、ほぼマルだし…やっぱ頭いいんじゃ」
「国語と芸術に特化してるって言ったでしょ」
「そういえば。あ、じゃあ国語も好きなんスね」
「…いいからアンタはシャーペンくらい握りなよ」
「はーい」
叱ってみても特に気にする様子はなく、へらっとした笑顔でペンを握った駄犬は数学の問題集を開く。
その範囲は私のクラスとあまり変わりないようで、既に開かれたページの範囲は終わらせてある。そうなれば質問が飛んできても答えられはするか…と考えたところで、自分の甘さを自覚した。
(何だかんだこいつの世話を見るのが決定してるし…)
それはそれで悟られたら面倒だと眉が寄る顔を俯かせて問題集に集中していると、今のところは苦手な分野ではないのか、すらすらとペンを走らせながら端麗な口元が再び同じような言葉を呟いた。
「葵っちは言葉が好きなんスかねぇ」
「…まぁね」
「それは何で?」
こいつ、私に勉強させる気がないのか。
自分は問題を解きながら関係のないことを問いかけてくるとは、いい身分だ。
細波立つ心を表面に出してやろうかと考えたけれど、やはり気力を無駄遣いする方が勿体ない。
仕方なしに私は、解答の説明に回していた頭を会話側に傾けることにした。
さっさと納得させて、集中させたが早いだろう。
「盾にも矛にも毒にも薬にもなるから」
マルとバツだけを書き込みながら口にすれば、視界の隅に顔を上げる金髪が写る。
聞きながら問題を解くという器用な真似はさすがにできないらしい。本当に、何をしにここに来たのかと自分にも相手にも呆れる。
それでも聞く姿勢に入られてしまうと話さないわけにはいかなくなる、自分の性質に嘆息した。
「私と同じ言葉を喋る人間がいても、アンタの耳に響く重さは違うよね」
「まぁ、そうっスね…多分?」
「例を出すなら…そうだね、信頼する部活仲間から『部活に来るな』って言われたらどう思う?」
「弄られてると思う」
「じゃあ、同じ言葉をあんまり接したことのない人間から言われたら?」
「悪意があるのかなーとか、思う」
「そういうところ」
言葉は受け取る側の気持ち次第で形を変えるから厄介で、面白い。
心に響く言葉があったって、紡ぐ人間が変われば重さも意味も変わる。
誰にとっても優しい言葉なんてものは、この世には殆ど存在しなくて。
意味を履き違えてしまったが故に起こる諍いや切れる縁がある。
「何かの要には絶対的に言葉が存在するし、物事を大きく左右する…扱い難い道具だよ」
それでも、その力は目を瞠るものがある。
誰かを、何かを動かすのはいつだって、強い意志のこもった言葉だ。
特に日本語の持つしなやかさや美しさは、独特の歴史を踏まえて見れば身に染みて感じられて。
私はよく、その剣になる部分ばかりを振り翳してしまうけれど。
意味も意思もはっきりと伝えなければいけない時には、割り切って扱う。
誰にでも優しい言葉がないなら、自分の思う正しさにだけは沿う言葉を選ぶ。言葉の持つ重さや鋭さを身をもって思い知った日から、私のその考えは変わらない。
自然と敵も増やすけれど、自分が選んで吐き出した言葉に沿って生きれば、少なくとも自分を嫌いになったりはしないから。
「葵っちの真っ直ぐで正直なとこ、好きっス」
視線を合わせてみれば、ゆるりと細まった瞳に貫かれる。
あまりに嬉しそうな顔をする犬に、完全に止まってしまったペンを握り締め、私は逸らすように瞼を伏せた。
「…ふぅん」
「でも流されるのは寂しいっス!」
「軽いし」
「えーっ! オレこれでも葵っちには素直なのに!」
「あっそう」
「どうでもよさそう!!」
まぁ、素直というのは認めてやらないではないけれど。
ちらりと、もう一度目をやった先で不満げに机に伏せる駄犬には、それ以上語って聞かせる言葉はないと判断した。
不機嫌少女の拘り重さが違うと、言ったでしょう。
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