▽ 不機嫌少女の好意対象
「…と、いうわけで、応募希望者は参加用紙を取りに来るように」
使用頻度はあまり高くない美術室の黒板に県が主催する美術展の知らせを書き終わった顧問は、適当なテンションでそう締め括り、最後にああ、と思い付いたように私を名指しした。
「葵、お前これ参加するだろ?」
「…はぁ」
何故最初から決めつけてかかるのだろうか。
確かに、期日を目指して作業を進めるやり方は性に合ってはいるし、自分の作品に明確な評価のつくコンクールというものに応募する行為も嫌いではない。
しかし教室内には人数は多くないとはいえ私以外の部員もいるわけで。
悪目立ちしたくない私としては、教師からの名指しにはあまりいい予感は覚えない。
そんな不満が顔に出ていたのか、顧問は悪い悪い、と全く悪く思っていない顔つきで肩を叩いてきた。
この気安さが生徒間ではよく思われているらしいが、この場では厄介以外の何者でもない。
つい苛ついてしまった私に罪はないと思う。
「いや何、お前いつも写実的な絵しか書かないだろ? しかも油以外で」
「はぁ…まぁ、そうですね」
「このコンクールだと油絵以外の絵画の入選は今まで無くてな。しかも絵画は敷居も高いし…年少者はデザイン方面で提出した方が評価が貰えやすいわけだ。ということで、お前これデザインで出してみないか?」
なるほど。いくら自分が納得いける絵を描いても、画材やテクニックの面で弾かれるということか。
確かに油絵となると、長年描いてきてその特性を理解して活かせる人間には、どうしても敵わない部分がある。
海常の美術部が特に名高いというわけではないけれど、取れる賞なら取れるだけ取っておいた方が体裁もいいし、様々な物事に対しての生徒の意欲も上がる。
顧問の言葉の裏を読みながら、しかし私は関係のない部分で眉を顰めたくなった。
それを他にも生徒がいる場で私だけに言うということが、嫌がらせに近いことだということにこの大人は気づいていないのか、と。
彼の言い分は裏を返せば、私は賞を取れるものと確信しているということになる。
(デザイン…あんまり考えたことないんだけど)
プレッシャーをかけられている気がするのは、気のせいではないだろう。
さすが葵さん、だとか、期待されてるねー、だとか、でも葵さんってあんまりデザイン方面イメージないよねー、だとか。
そこかしこからちらほら聞こえてくる部員の声に、棘を感じ取って苦い気分になる。
これでデザインでも入選しなかったら、裏でこそこそと笑い者にされることは確実だ。
でも。
(…まぁ、いいか)
気にするだけ無駄だとも、思う。
やっかみの感情というものは、受ける人間は受けなければならないよう、世界は廻っているもので。
笑われたくはない。だから何にしろ、作品に手を抜くつもりは全くない。
新しいことに挑戦してみるというのも、悪くはないとは思うし。
というか、そう。
言われたままなんて腹が立つというのが、本音なのだけれど。
「考えてみます」
「おう、頑張れ」
差し出された用紙を受け取りながら、苛立ちを沈めるように静かに深く、息を吐き出した。
(冗談じゃない)
馬鹿にするな。
期待されているなら、応えられるよう全力で集中すればいい。
やっかまれるなら、その感情を抱く人間よりも努力すればいい。
できないことじゃない。
好きなことなのに、できないわけがないのだ。
*
「あ、葵っちいたっ!」
「?」
やると決めれば早速、と取り出したクロッキー帳を開いて、まずは締切の期日と規定のパネルの大きさをメモした後にネタになりそうな事柄を箇条書きで並べ立てていく。
そんな中弾んだ声に名前を呼ばれたので、他に意識が向いていなかった私は何も考えずに顔を上げた。
ついでに微かにざわめく女子の声も聞こえたけれどそちらは無視して、比較的すぐ側にある廊下側の窓を見上げれば、今日もまたキラキラと鬱陶しい空気を纏った人型犬が人懐っこい笑顔でこちらに手を振っていた。
その距離3、4メートルという近さで。
またもや周囲の厳しい視線を受け止めなければならなくなった私は、軽く痛む頭を傾けながら思う。
どうして今日関わる男は揃いも揃って、空気が読めないのか…と。
(面倒臭い…)
犬が、というか、大人になれない周囲の人間が。
そうやって対象を絞って考えてしまう辺り、私も相当だけれど。
「…何か用、ポチ」
「黄瀬涼太! もーっ、葵っちいつになったらオレの名前呼んでくれるんスか!?」
「人間になったら考えるよ」
「オレ今でも真人間!!」
ぎゃんぎゃんと喚く犬にあーはいはい、と適当に頷きながら、びしびしと突き刺さる女子の嫉妬と困惑の入り雑じった視線に、溜息を吐き出したくなるのを堪える。
(確かに、これは息が詰まるわ)
少し女と接しただけでこれなら、まともな男女付き合いはできなさそうだ。
イケメンはイケメンで大変だな…と他人事のように思いながらそれで?、と首を傾げれば、それまで不満げだった中身は駄犬なそいつは、ぱっと一気に表情を明るくする。
「部活終わって忘れ物取りに教室行くとこだったんスけど、葵っちいるかなって思って」
回り道しちゃった、と無邪気に笑う顔は、まぁ、素直で悪くないと思うけれど。
これまた面倒なことを口走ってくれたものだと、軽く目蓋を伏せる。声をかけられた時点でもう手遅れだったといえば、そうなのだけれど。
「葵っち今何描いてるんスか?…ってなにそれ可愛い! 猫!?」
「そうだけど…新しい課題ができたから、これは暫く描けな‥」
「葵っち猫好きっ!?」
「…好きじゃ悪いの」
犬より猫派だ。何が悪い。
キャンバスの中でソファーに埋もれるようにして丸くなるシャムの血の強い猫は、紛れもなく私の愛して止まない家族の一員だ。
うわあ、と謎の唸り声を上げながらイーゼルに立てられたキャンバスを見て、それからまた私に向けられた視線にぐっ、と呼吸が詰まる。
一際輝いた瞳が、なんというか…とても面倒臭い、というか。
「葵っち…可愛い!!」
「……ああ、猫がね」
「いや葵っちも可愛いって!」
「うるさい黙れ駄犬」
「褒めてるのにっ!」
犬が嫌いだというわけではないけれど、やっぱり静かに傍に寄り添ってくる猫の愛らしさが恋しくなった。
不機嫌少女の好意対象大体にして私は、面倒事や騒がしさといったものが好きではないのだ。
余計に厳しくなる女子の視線に、今度こそ私は溜息を飲み込むことを諦めた。
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