傍に寄って言葉を交わすことなんて、最初で最後の一度きり。
このトキメキを糧に私は明日からも生きていく。
そんな風に思っていた時間が、私にも確かにありました…。
水曜日の昼休みは、体育館近くの自販機でミルクティーを買う。
自販機は校内に複数あれど、教室から大して近くもない体育館の傍まで私がやって来るのには、分かりやすすぎる理由があった。
そう、寸前の四限の授業で二年の特定のクラスが体育館を使用するからという、私にとっては大きな理由が。
(我ながら本当にストーカーくさい…)
僅かな背徳感は感じるものの、止められないものは仕方がない。
好きな人を眺められる機会はいくらでも欲しいのが乙女心というものだ。言い訳だけれど許されたい。
その為の口実がミルクティー一つなんて、安いものよ。
乾いた笑みを浮かべながら押し慣れたボタンに指を置こうとした時、あっ、と鋭い聞き覚えのある声が私の鼓膜を揺らした。
「実星さんチワッス!」
「っふぉ!?」
あまりの驚きに、仰け反った身体がガンッ、と音を立てて自販機にぶつかる。
強かにぶつけてしまった肩を擦りながら恐る恐る振り向いた先、いつもは横顔しか確認できないはずの彼がこちらにやって来るのが見えて、思考が固まりかけた。
(え、えっ!?)
ちょっと待て。ちょっと待ってこれどういうことなの!?
今日も今日とて一方的に見つめるだけで終わるはずが、速足で近付いてくるのは見間違うはずもない私の想い人で。西谷くんでありまして。
しかも聞き間違いでなければ、やけにハッキリと名前を呼ばれた気がする。昨日の放課後、勉強に付き合った時には先輩呼びだったと思うのだけれど。
いや、やっぱり私の聞き間違いだろうか。もしくは現状が白昼夢を見てる状態とか…?
自分の頭が心配になってきた頃、すぐ目の前まで辿り着いてしまった彼にどんな顔をすればいいのか判らない。もしどこかのネジが飛んでしまっているのだとしたら、恐らく原因は昨日の数時間での西谷くんの摂取過多だと思う。
滲んだ汗が頬を滑り落ちていく様を、初めて近くで見てドキドキしてしまう。
そして同時に自分の目聡さが恥ずかしい。それもこれも全部、西谷くんが格好よすぎるのがいけないのだ。
「今ぶつかってましたよね。大丈夫っスか?」
「え、あ、だ、大丈夫…」
「ならいいんすけど。あ、昨日は放課後あざっした! 実星さんのおかげでちょっと試験までの自信付いたっス」
「っ…!?」
「? どうしたんすか」
なんかさっきから挙動不審じゃないっスか、と不思議そうに首を傾げる西谷くんに声を大にして主張したい。
君のせいだよ君の…!
(幻聴でも白昼夢でもなかった…!!)
名前を呼ぶ行為のハードルは、決して低くない。
普段から大して交流もない、昨日数時間関わっただけの相手を躊躇いなく名前呼びできる彼の性質にはさすがに戦慄した。
恐ろしい。何が恐ろしいって、それ一つで私の心臓を止めてしまえそうなところが。
予想の遥か上を勢いよく飛び越されて、何も声を発せなくなった私が次に拾ったのは、これもまた助け船になるのかよく判らない声だった。
「おっ、ノヤっさん! と、実星さんじゃないすかー」
「!?」
ブルータス、お前もか。
こちらも聞き覚えのある声に振り返れば、大きく手を振りながらやって来る見慣れた影に、一瞬でツッコミを入れたくなった。
君らの中で私の名前呼びはいつから固定になったのですか。
当たり前のように呼ばれたけれど、昨日別れる時はまだ先輩だった気がするんですけど。
「チワッス! 昨日はあざーした!」
「ち、ちわっす…どういたしまして…」
さすがに本当にツッコミを入れるなんて野暮なこともできず、とりあえず西谷くんと二人という心臓に悪い状況は抜け出せたのでほっとする。
襤褸が出ない内に田中くんが来てくれたのはよかった。胸を撫で下ろす私の横で、いつものテンションで二人の後輩はじゃれ合い始める。
「龍! お前も飲みもん買いにきたのか?」
「購買の方やっぱ混んでてなー。ノヤっさんは体育か」
「おう! で、ちょうど実星さん見つけたんだよ」
完璧に偶然だと思っている彼の言い様に、少し後ろめたい気持ちが芽生える。
ごめんなさい西谷くん、毎週決まって自販機の影からあなたのことを見つめてました。そんなことは口に出せるわけがないので、心の中で静かに土下座する。
そして一々名前呼びにときめいて潰れそうな胸から、私は必死に意識を逸らしながら自販機に向き直った。
とりあえず、何もせずに固まっているのは不自然だ。飲み物を、買わないと。
「あ」
「ん?」
「どーかしたんすか?」
「いや…さっきぶつかった拍子に押しちゃってたみたい」
ボタンのライトは消えていて、取り出し口には一つの缶が転がっている。
ぶつけた肩で押してしまったのかもしれない。出てきたのは買うはずのミルクティーではなく、レモンスカッシュだった。
「あー…炭酸」
失敗してしまった。
お茶かコーヒーだったらまだよかったのだけれど、炭酸はあまり得意じゃない。
これはどうしようかなぁ、と考えようとしたところで、ひょい、と隣から顔を出した西谷くんにまたしても思考をストップさせられた。
「動いた後はうまいっスよね」
「っ、え…ああ、西谷くん、これ好き?」
「ふつーに好きっス」
近い。距離が、近い。
心臓が胸を突き破る勢いで内側から連続パンチを食らわせられて、ふらつきそうになる足を踏ん張った。
きょとんと丸い目でこちらを見てくる西谷くんには、当たり前に他意はない。
これだから無邪気は罪深いのだ。そんなところも好きだけれど、少しくらい容赦がほしい。
もう、今日だけで何度意識が遠退かされたことか。
下手をすれば高鳴る鼓動が彼の耳に聞こえてしまうんじゃないかと、そんなわけもないのに心配になる。
「えっと、じゃあ…よかったら、飲んでくれるかな」
平常に、装わなくては。彼に変な女だと思われたりしたら立ち直れない。
少し手遅れな気がするなんて気のせいだ。きっとまだ取り繕える。ファイト私、猫を被れ。
普段通り普段通り、と自分に言い聞かせて笑顔を貼り付ける。自分の顔までは見えないから、不自然じゃないことを祈るばかりだ。
そっと缶を差し出せば彼の目線はそちらに落ちてくれたので、少し肩から力が抜けた。
「いいんすか?」
「うん。間違えて押しちゃったけど私飲めないし…西谷くんが好きなら、どうぞ。…あ、田中くんはどれにする?」
「えっ? いやそんな! 俺にまで気ぃ使わないでください!」
「や、いいの。ほら、部活の為に苦手な勉強頑張ってるから、差し入れってことで」
差し入れにしてはちゃちいけどね、と付け足せば、一度は遠慮した田中くんも寄ってくる。
ここまで親しげに声を掛けてもらうようになるのは想定外だったけれど、少しでも慕ってもらえるのは純粋に嬉しかった。
これくらいの距離感なら、近付いても大丈夫だろうか。
何度も動揺させられて心は休まらないのに、欲は深まるから質が悪いと思う。
(見つめられるだけで充分だったのになぁ…)
自分に向けられる声も、笑顔も、気持ちも。慣れないのについ、大事に拾い集めてしまうから困る。
苦しいのに嬉し過ぎて、困る。
「あっ、実星さん!」
二人にジュースを渡した後、漸く目的というか口実だったミルクティーを手に入れて彼らと別れる。
教室に戻る階段を上ろうとしたところで、背後から呼ばれた名前にまた心臓が跳ねた。ついでに身体も跳ねた。
「また分かんないとこあったら訊きに行ってもいいすか!」
「あっ俺も! よければオナシャス!」
少し離れた廊下から、ハキハキと通る声が響いてくる。
期待に満ちた瞳に真っ直ぐに射られて、その場に崩れ落ちてしまいたくなった。
ああ、もう、勘弁してよ。
「…っ…私で、よければ!」
そんなの、断れるわけないじゃない…!
ときめきすぎて涙腺まで刺激されて、赤くなった顔なんか隠せるわけもない。
勢いで言葉を返した後、駆け出した自分が教室までどうやって帰り着いたのかも、よく判らなかった。
四限直後、自販機前
(た、たらい…ま…っ)
(あ、実星おかえ…っどうしたその顔! 何があった!?)
(ああ東峰くんはっ…東峰くんはどこっ…?)
(え、はっ、東峰!? バレー部の面子に呼ばれてっていないけど…)
(そんなっ…東峰くん以外の誰に私のこの衝動をぶつければいいのよぉぉ…っ!)
(と、とりあえず泣くな実星落ち着け!)
20140523.
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