自分にとって都合の悪いことを知らしめられて傷を負うなんて、なんて無様で馬鹿げたことだろうか。
冷静さを保った頭でそう考えられるだけ、私も少しは前を向けているのだと気付く。胸を痛めることに慣れれば、癒すことにも慣れるものだ。

悪意を感じる運命の悪戯から一日が明けて、今日。
投げ掛けられた言葉に悩み、迷い、一頻り沈んでいた私は重い身体を引き摺りながらも、人間生活を蔑ろにすることだけはなかった。
食事はきっかり、それなりにバランスを考えた三食。小腹が空いたらおやつを摘まむのもご愛嬌。気分が乗らない時こそ欲求は満たさなければ、余計にずるずると堕ちていくことは知っている。

食べて、寝て、心より少し離れたところで思考を働かせるようになるまで時間を置いて。
それから漸く、傷を塞いだカサブタをゆっくり、丁寧に剥がすのだ。



(…疲れた)



ぼふり、と顔からベッドに突っ込んで寝転がる。かちこちと秒を刻む時計の針は、ついさっき見た時は短針が八の字を通り過ぎていた。

大体、一日ちょっとか。
意地悪をしてくれた及川くんと別れたのが昨日の夕方だから、完全とは言えないものの立ち直りにかかった時間は早い方かもしれない。
あの人は本当に、昔から何かと突っ掛かってくるなぁ…と、溜まった二酸化炭素をシーツに染み込ませながらぼんやりと思った。
付き合っていた頃も、そうだった。今の痛みを癒すついでに思い出した記憶の中で、彼が優しかった出来事が殆ど浮かばないことにも、また溜め息が出た。

いやまぁ、それは過ぎた話だし、いいんだけども…。



「手に入れるのに本気じゃない…か」



胸に刺さって残っていたものを、吐き出してみる。
私の内側を見透かして急所を抉る、彼の棘は相変わらずだった。

焦がれるだけの汚くない恋をすることが、悪だとでも言われたような気分だった。汚くなければ大した想いでもないのだと、踏み躙られたような。そんな痛みが身体の芯に響いた。
けれど、一人になって少し落ち着いてみれば脳は正常に働いてくれる。
十人十色という言葉があるじゃない。なんて、彼に面と向かって反論する勇気はないけれど。

本気の使いどころは、誰もが同じでなければいけないわけじゃない。
彼と私では使用時が違うだけ。ただ、それだけの話なのだ。
恋は下心と言うけれど、戀という字の由来は異なるように。私にとっての本気の片想いが報われない、救いがないものだと言われても、仕方がないし彼には一切関係もないことだ。
字の通り、私の心はただ一人を追い掛けて、愛しい愛しいと声を上げているのだから。
手に入れるとか入れないとか、それは次元の違う問題だった。

だって、そんなものが欲しいわけじゃない。
勝手に恋して、勝手に振り回されて、勝手に傷つくこと。それを周りに、及川くんに馬鹿らしいと思われようと、一向に構わないのだ。
私が、幸せであれば。私がそれでいいと思うんだから、好きでいたっていいじゃない。

道化だとしても、悪事を働くわけでもない。誰かに大きな迷惑を掛けるわけでもない。
たまに東峰くん辺りの友人には掛けているかもしれないけれど、逆に誰にも迷惑を掛けずに生きられる人間なんていないのだからそこは多目に見てほしいというか、何というか…とにかく。
及川くんが何を言いたかったのか、明確には解りきれなかったけれど、鵜呑みにして考え込む必要は全くない。
私にとって一番大事なのは私の意思と欲望だと、突っ伏したままだった顔を勢いよく上げた。

そして、そのままの勢いで転がっていた携帯を掴み上げた。






「というわけで東峰くん、私ってばそろそろ限界なわけですよ」

『う、うん…何が?』

「何が!? 聞くの!? 解ってるんじゃないの!? 長期休暇で西谷成分が足りてないって! 私が干からびてミイラになるのを可哀想と思ってくれるなら、ちょっとでもいいから情報をくださいよ東峰さまぁぁ!!」

『ちょ、ちょっと落ち着け岸本! 情報って言ったっていつもとそんな変わらないし…』



携帯の向こうから焦り気味に返される、親しい友人の声が困惑を滲ませる。
今正に迷惑を掛けてしまっていると自覚しながら、私はそれでも我慢ならずに手元のクッションを叩いて急かした。

いつもと変わらないわけがあるか、と。



「合宿中ならネタはわんさか転がってるでしょっ!? 起床時の様子とかご飯時にテンション上がってた献立とか練習中に一番輝いてた瞬間とか夜中の可愛い寝言とか何か色々さぁ…!!」

『知ってどうするんだ!? ていうか俺が一々気にしてたら気持ち悪いだろ…!』

「ソンナコトナイナイヨー」

『片言!? どうしたの岸本、疲れてるのか!?』



まだ自重した方なのに駄目だというのか。厳しい。人生って世知辛い。
携帯を耳に押し当てたまま、座った体勢のまま倒れ込み、今度はクッションに顔を埋める。

ええ、疲れてますよ。心の痛みを癒すのに余力使いきった気持ちですよ。
そもそも、心が満たされていなかったから傷付きやすく、修復に必死になってしまったに違いないのだ。
電話越しでも顔が想像できそうな焦り声に、私はむずがる子供のようにだって、と溢す。



「西谷くんの顔、学校じゃないと見れないんだもん…」



私には、確固たる繋がりなんかないんだから。

距離を置くと宣言した手前、こんなことを言っても自分が情けなくなるだけだ。
それでも、好きなものに真っ直ぐぶつかっていく彼を、遠くから眺めるくらいはしていたい。
それくらいは許してほしい。今の私の、元気や勇気の源なのだから。

とはいえ、取り繕ってみたところで酷い我儘に変わりはない。何かつっこまれるだろうかと肩を縮めていたところ、東峰くんは特に何か言うでもなく、呆れた様子も見せずに流してくれた。



『暫くは関わってたわけだしなぁ…そりゃ、寂しいよな』

「…うん。寂しい」

『そうだよな。うん…あ、いたいた。西谷、ちょっといい?』

「……ん?」



何で、ここで、呼び掛ける?

近くにいたのか、東峰くんから近付いたのかは判らないが、電話の向こうで近くにいるらしい想い人の存在を知って、突っ伏していたクッションから一瞬でがばりと身を起こす。



「え、あ、東峰くん…っ?」



ちょっと待って東峰くんは何をしようとしているの…?

携帯を握る掌にじわりと汗が滲んだ時、離れた場所から聞こえてきた声に背中がぴんと伸びた。

ま、さ、か。



『はいっ? 何ですか旭さん』

『ちょっと電話に出てほしいんだけど』

『電話ぁ?』



に、西谷くんの声っ…じゃない! 感動してる場合じゃない!!
いやいやいや嘘でしょ東峰くんその放り投げ方はどうかと思うよ…!?

ドックンバックンと一気に跳ね上がる心臓を、咄嗟に捕まえることもできない。
何の冗談なの、これ!!



(確かに、確かに私は西谷くんが足りてないと言ったけど! でも直接コンタクトを取りたいだなんて言った覚えは欠片も…っ)



混乱で目を回している私に、うだうだと考える暇は与えられなかった。
不思議そうな声が些細なやり取りを交わして、僅かな空白の時間はすぐに終わる。



『もしもし?』

「っ! もっ、にっ…西谷くっ…!」



出ちゃった! 本当に出ちゃった…!!

ひぃぃ、と泣きそうになるのは、もう、あれだ。今は誰も見ていないから、どんな顔をしていても問題はないと油断していたからだ。
勉強会の時は直接対面していたのに、未だに慣れきれない。日にちを置いたから余計に、だろうか。
電話越しの声は僅かに籠もっていたけれど、ハキハキとよく通る声は健在だった。



『ん? その声……実星さんですか!』

「はっはいい!」



電話越しじゃ見えもしないのに、つい馬鹿みたいに手を挙げてしまう。
やばい。恥ずかしい。耳元で西谷くんの声がする。更に言えば自分の脈拍まで大きく響いていて、電話の向こうに届きやしないかと馬鹿な考えが浮かび上がった。

ああ、でも、どうしよう。本当に、どうしよう。
掠れた一声だったのに、私だと言い当てられた所為で、身体中にぶわりと汗が浮き上がる。



「ひ…久し、ぶりです…?」

『ちょっとぶりっすね! って、何で敬語なんですか』

「な、何となくっ…」



からっと晴れた空の似合う笑い声が聞こえると、きゅう、と胸が締め付けられる。駄目だ。こんなの、心臓に悪い。悪すぎるのに…切れない。
震える息とぎこちなく強張る口をなんとか動かして、声を出す。



(何か)



何か、言わないと。
よく分からない展開だけれど、黙っているのは不自然だ。
できるだけ当たり障りのない言葉、内容を探すのは、今に限ってはそう難しいことでもない。
合宿はどう?、ととりあえずの直球を投げれば、コミュ力が低くない彼だから、会話を途切れさせるような受け答えには繋がらなかった。



『厳しいっすね! でもめちゃくちゃ強い奴らと練習でも試合できんのは楽しい!』

「そ、そっか。みんな頑張ってるんだろうね…凄いね」

『実星さんは何かしてるんですか?』

「私は…いつも通り、やることも少ないから課題を片付けてるかなぁ」



月並みな感想に面白味のない答えだなぁ、と自分に溜息を吐きたくなるけれど、事実だから仕方がない。

けれど、私の発した言葉を聞いた、電波の先の空気が一気に静まりかえった。



『……かだい…』

「え、っと…西谷くん達は終わりそう?」



問い掛けに、返事はなかった。

うー、とか、あー、とか、いつかのように唸る声が聞こえて、誰も見ていないのに思わず、弛んだ口元を掌で覆う。
これは、駄目そうなのか。目を逸らしているのかと想像すると、どうしても可愛くてきゅんとしてしまう。いつもしてるけど。

困っているのなら、気持ち的には手助けしたいところではある。が、さすがに課題を手伝ってあげるというのは本人の為にならないので無理だろう。
どうしても解らない部分があったらちょっと見てあげるくらいはできるけれど…そう伝えれば彼の唸り声は止んだものの、普段よりも若干落ち着いたそれが言葉を紡ぐ。



『俺も、多分龍の奴もそれはありがたいんすけど、実星さんも受験生じゃないですか。邪魔にはなんないようにって、先輩達から釘刺されたんすよね』

「え、あ…何か、気を利かせてもらっちゃってる…?」

『気を利かせるっつーか、当たり前のこと忘れてて…今更だけど俺ら迷惑じゃないですか?』

「えっめ、迷惑なんて! 私の復習にもなるわけだし、絶対ないよ…!」



絶対に、西谷くんを…田中くんだって、迷惑に思うことなんてあるはずがない。
見えはしないけれど、ぶんぶんと首を横に振って否定する。そもそも、安い同情や親切心だけで力になろうとしたわけでもないのだ。勘違いで距離を置かれるのは寂しい。
なんて、考えてしまって、喉が引き攣った。



(あれ…?)



私、何を言ってるの…?
西谷くんの発する声の一つ一つに、仕草を想像で補完しては高鳴らせていた胸が、自分を見つめ直してドクンと嫌な音を立てる。
結局、このままでは休み前の決心の意味がなくなってしまうのでは。距離を置こうと思っていたくせに、気付けば自分でその道を塞いでしまっている、ような…。

私の本音をそのまま受け取ってくれた彼が、明るさを取り戻した声でお礼を言っているのが通話口の向こうから聞こえてくる。この時点で、やっぱり無理ですなんて言えやしない空気だし、言う気にもなれなかった。

ああ…やっぱり私は、無理なのかな。
一度詰めた距離が再び開くのは虚しくて、離れがたいと思ってしまっていたらしい。完全に無意識だった。
くらりと目眩に襲われる頭に手をやって、目蓋を下ろす。
汚い気持ちになりたくない。そんな想いを彼に向けたくはないのだけれど…どこからが綺麗じゃない想いなのか、境目が判らないから頭が痛い。



『そういや実星さん、何か用があったんじゃないんですか?』

「え、あー…用、というか…」



このままじゃ、自分から離れるなんて無理なんじゃないの。
芽生えた恐ろしい可能性を、彼からの問い掛けに答えるために横に置き捨てる。今深く考えてしまうと、どつぼに嵌る気がした。

しかし質問に答えるにしても、まさか夏休み中に不足している西谷くんを補給するために東峰くんに協力を要請しました…とか、正直に言えるわけもない。結果的に情報どころでなく本人と電話なんてハードルの高いことをさせられてしまったわけだけれど、時間が経つとちょっぴり東峰くんを恨んでいた気持ちもなくなってくる。
しかも、何と答えるべきかと迷った頭の中は、今までの悩みや急展開で随分と掻き回されてネジが緩んでしまっていた。



「西谷くん達が明るかったからかな…ちょっと、夏休みの間は寂しくて」



どうしてるのか、気になったというか…。

ぼんやりとした意識では、どこまでが気持ちがバレないでいられる境界なのかの判断が難しい。これくらいのことは言っても大丈夫だろうかと、口を滑らせてしまってから軽く慌てた。

友達でも休みの内は気になったりするし、おかしくはない…よね……?
微かな不安で胸がざわつくのを感じる。数秒の沈黙がやけに長くて息を殺していると、唐突に明朗な声が鼓膜を叩いた。



『実星さん!』

「はい…っ!?」

『試合! 春高予選も観に来ますか?』

「へっ? あ、うん。休みの日なら…」



大声で呼ばれた名前にびくりと肩が跳ねさせつつ、訊かれたことには何とか答えてみせる。
狼狽えているのが丸分かりな口調になってしまったけれど、彼にとっては些細なことなのだろう。気にしたり、明るい口調を乱すことはなかった。

響いてきたのは、きらきらと輝く笑顔が目を閉じなくても浮かぶような、跳ねた声音だ。



『んじゃー、見ててくださいよ。実星さんが燃えるくらい、俺らめちゃくちゃカッコよくキメてやりますんで!』

「……っ…は」



携帯を取り落とさなかったのが、奇跡だと思う。

一瞬、息が止まった。身体の全器官どころか、私を取り巻く時間すら一緒に止められた気がした。
衝撃が通り過ぎて時間が動き出しても、正気には戻れない。長距離を走りきった後のようにドッドッと胸の中で存在を主張する心臓、巡る血液を感じるのに、その音は耳を塞がれているかのように、遠く聞こえる。



「っ…は…い……見てます…」

『っし! 約束したんで、俺も張り切って鍛えときますからね!』

「…う、ん」



絞り出した声は、震えてはいなかっただろうか。西谷くんは何も触れずに電話を返すことを伝えて、その声を途切れさせてしまったけれど。
置いてきぼりにされた私は、ぐらりと傾いて倒れ込む。ベッドが一度、軋んだ音を奏でた。

目が、回る。



『あー…岸本? 生きてる?』

「……東峰大明神…」

『なにそれ!?』



今度こそ本当に目が回る。ぐるぐるする。
転がったままぎゅっと身体を縮めて、湧き上がる衝動を必死に受け止める私に余裕なんてものはない。最初からなかったけれど、今は更にない。砂一粒分すらもない。絶望的なほどにない。

ない、けれど。何だ、もう。
死ぬほど嬉しいし、あんなに格好いいこと言われたら堪らない。他の誰でもない私に向けられた言葉だなんて、贅沢すぎて処理できない。転がり回りたいけれど力も入らなくて、逃し場所のない気持ちでパンクしてしまいそうだ。

熱でも上がっているんじゃないかと思う、ふわふわとした心地なのに、息苦しい。携帯を握り締める手だけ、落とさないよう必死に力をこめていた所為で小刻みに震えっぱなしだった。



「私…今日から東峰くんの写真にお供えする…毎日拝む…」

『いやそんな遺影みたいなのはやめて…!』



心配から一転、東峰くんの困り切った訴えを遠い距離に聞きながら、これはどれだけの時間悶えれば収まるものなのかと、未だびりびりと響いている余韻を噛み締めながら唸った。

ああ、もう、溶け落ちてしまいそう。






蹴飛ばす声、寂寥感




(もう何なの…西谷くんの悪戯エンジェルっぷりは何なの…殺す気なの…っ?)

(お、落ち着け岸本! 生きよう!)

(生きるよ…! そりゃ生きるよあんなこと言われたら死んでも生き返って試合観に行くよ!!)

(お、おお…ならいいんだけど…いや、いいのか……?)


20140916.

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