顔を合わせる機会が減れば、悩むことも迷うこともなく心穏やかにいられるはず。
揺らいだ気持ちを何とか元に戻したくて、そう自分に言い聞かせたのは記憶に新しい。
思惑は叶って、夏の長い休みに入ってからは比較的心がざわつくことはない。代わりに大好きな人の姿を見掛けることもできなくて、ある意味干からびてしまいそうではあるのだけれど。

学校がないと、接点なんてないからなぁ。
溌剌とした声を、姿を思い浮かべるだけでは足りなくて、自然と気持ちは投げやりになる。一週間ちょっと前に試験結果の報告を受けて、それから夏休みに入ったから、毎日の恒例だった東峰くんによる西谷報告も当然途切れてしまっていた。

確か、東京の学校と合同合宿があると言っていたっけ。
今頃彼らは茹だるような暑さに立ち向かい、部活に精を出しているのだろうか。
それを思うと、毎年予定らしい予定も殆どなくだらだらと過ごしている自分が少し悲しくなる。だからといって、私には熱中できるものなんて西谷くん以外にはないのだけれど。

両親は共働きで、家にいる時間は少ない。兄弟もペットもいないから、テレビでもつけていない限り静まっている家の中は寂しい。
毎日クーラーの効いた部屋に閉じ籠っているのも何だし、出掛けようかな、と気紛れを起こすことは別段珍しいことでもなかった。
軽く身支度を整えて、久々に少し遠出をしてみようかと思ったの、だけれど。



(失敗した…)



今日ばかりは引き込もっているべきだったと、その場ばに崩れ落ちたい気分で嘆いても後の祭だ。

心を揺さぶる要因は、一つだけとは限らない。寧ろ、普通に生きていれば小さな悩みなんていくらでも生まれてくるもので。
いつものように適当に課題を片付けながら悠々と過ごしていればよかった。無駄な対抗心を芽生えさせて街中になんか出て来なければよかった。
どうして私は今日に限って、熱気の立ち込める外界に飛び出してしまったのか。
いや、飛び出したにしてももう少し時間をずらしていれば…書店になんか向かわなければ…たらればを語れば切りがないと解っていても、ついつい自分の行動を振り返って責めてしまう。

いつだって、後悔は先に立ってくれない。



「やぁやぁ実星ちゃん、ひっさしぶりー」



何か面白いものでも見つからないかと、足を運んだ街中では一番大きな書店に足を踏み入れた瞬間だった。レジを済ませたらしい一人の男子がこちらに足を向ける姿に、身体が凍り付きそうになったのは。
顔を上げて私に気付いた彼の瞳は丸く瞠られて、すぐににっこりと細められる。
ひらひらと手を振り寄ってくる彼が、気付かなければ黙って立ち去ることができたのに。しっかり認識されてしまっては、逃げ出せるわけもなかった。

近くで待っていたらしい、見ず知らずの女子がそんな彼に小走りに駆け寄り腕に手を絡める様子を目にして、余計に激しい後悔に襲われる。

今からでも逃げたい。いや、さすがに無理だろうけど…。



「…久し振り……及川くん」



デート中ですか。お盛んですね。
内心の感想は口に出さず、引き攣りそうになる頬をなんとか動かして笑顔を作る。が、取り繕えている自信は皆無だ。



(ていうかそもそも無視してよ頼むから…っ)



他人のふりをしてくれてよかった。寧ろその方がずっと嬉しかった。
本当に久々に顔を合わせてしまった中学時代の同輩が恨めしい。そして私に意識を移した彼女らしい女子の視線が恐ろしい。

これは、あれか。最近まで西谷くんと関わる機会がありすぎて何年分かの幸運を使い果たしてしまったとか、そういうことだろうか。
いくらなんでもこんな竹篦返しは御免被りたい。そんな文句を今言ったところで、何にもならないけれど。



「徹ぅー誰その子ー」



あからさまな修羅場の気配に、涙が滲みそうになるのはすぐだった。

徹、とか。これはもう完全に私お邪魔虫確定じゃないか。
甘ったるい声を出しながら、ちらちらと威嚇の目を向けてくる女子に、ただでさえ暑いのに嫌な汗が吹き出てつらい。
そんなきつい目で睨まなくても、別に奪う気なんて更々ありませんってば。

なのに、性悪の爆弾魔はこちらの気持ちに気付かず…いや、気付いているのかもしれない。どちらにせよ胡散臭いほど爽やかな笑みを浮かべて、彼女の疑問に口を開いてしまう。



「ああ、この子? 俺の元カノちゃん」

「!…ばっ」

「は?」



一瞬にして凍り付いた空気の中、口を塞げたとしても吐き出された台詞は消えてくれない。
ぷるりと潤んだ可愛らしい唇から、底冷えしそうなほど冷たく低い声を発した女子の顔を、私は暫く忘れられそうになかった。









その後の展開は、気まずさもここに極まれりといったものだった。
機嫌を悪くした彼女が及川くんを突き飛ばすようにして離れ、置き去りに立ち去ってしまった。追い掛けるのかと思った彼も彼で小さく肩を竦めただけで、何もなかったかのように私に向き直ると時間ある?、なんて訊ねてくる始末。

時間があるも何も、あなたの方が彼女に時間を費やすべきでしょうに…。
そんな気持ちは顔に出ていたはずなのに、気にも留めずに腕を引いてきた彼は、最初から私の意見なんて聞く気もなかったのだと思う。
完璧に逃げるタイミングをなくして、胃の辺りが重くなった。



「これで振られたら実星ちゃんの所為だね」

「それは嫌がらせですかね…」

「まっさかー。わりと本気で、事実を言ったまでだよ?」



書店に行きたかっただけなのにな…。
何故か近くの喫茶店まで引きずられて来てしまって、最早テーブル席で向き合う彼から視線を逃がすことしか私にはできそうにない。
逃げ出しても、実力も相当な現役体育部が相手だ。追い掛けられた場合逃げ切る自信がない。無駄に体力や気力を消耗するだけだと、諦めをつけるのは早かった。

先程よりは砕けた自然な笑みで話し掛けてくる彼は、一体何が楽しいのか。
彼女の機嫌を損ねたと解っていて、原因の一端である私と居続ける神経を疑う。
けれど、よく考えなくてもこの人をちゃんと理解できたこともなかったか、とも思い出す。
昔から、及川くんは偏った道に突っ走る人だった。



「邪魔したつもり、ないんだけど」



過去に思いを馳せた分少しだけ落ち着けてきたから、とりあえず現状、私の扱いに不平を唱えてみる。
邪魔はね、とこれまた意味深な言葉を返す彼に、堪えた様子はなかった。



「ま、実際のところそろそろ駄目っぽかったから。気にしなくてもいーよ」

「…彼女、私に嫉妬してた。及川くんのこと好きみたいだったよ」

「んー…でも色々と不満は溜まってたみたいだし。ほら、俺彼女のコトとか結構忘れちゃうから、サ。つい連絡とか怠っちゃうんだよね」

「はぁ…まぁ、部活で忙しいのは分かるけど」

「そうそう、忙しいの。実星ちゃんはどれだけ構わなくっても許してくれたけどねー」



その許してくれた実星ちゃんとやらを振ったのは、誰でしたっけ。
今更痛む傷もないので、けらけらと笑っている目の前の相手に呆れ調子に軽いツッコミくらいは入れることができる。
俺だね、と笑う彼は相変わらずよく解らない人だ。

一時期、本当に短い期間だったけれど、及川くんとお付き合いしていたことがあったのは事実だ。
わざわざ今の交際相手の前で明かすことでもないが、先程の彼の発言に偽りはない。
とは言え、何だかんだ部活に心血を注いでいた彼と恋人らしい進展をしたかというと、そんなことは全くなく。両思いだったのかも実のところ未だによく判っていないくらいで、友達とは少し違う、ふわふわとした関係にたまに甘さが混じったような、そうでもないような…彼氏彼女と呼んで括るには心許ない、曖昧な関係だった。

そんな付き合いは、わりとすぐに終止符を打たれた覚えがある。
終わりにしちゃわない?、と。中学最後の夏に口にしたのは、今正に正面に位置する席でグラスに刺さるストローをくるくると弄んでいる、彼の方だった。



「取り柄もなくつまらない私は、飽きるんでしょ」

「あれ? 根に持ってる?」

「何で嬉しそうなの…持ってないよ。本当のことだし」



へらっとした笑顔で放たれた言葉には、そこそこショックを受けもしたけれど。昔の話だ。塞がった傷口まで無駄に掘り返したりしない。
そもそも、今私が胸を痛めるとしたら、相手が違う。
いや…胸は痛めなくていいのだけれど。西谷くんのことは、見つめていられるだけで幸せだから、それで充分で、胸を痛める事情なんて一つもないけれど。

私の返答になんだ、とつまらなそうに頬杖をついた及川くんは、何故か数秒まじまじとした視線を向けてきたかと思うとぴっ、と指差してきた。



「それにしても、景気悪そうな顔してるねー」

「…っ」

「女の子がそんなくらーい影背負ってちゃ可愛くないよ? もしや失恋でもした?」

「楽しそうだね及川くん」

「そりゃあ、楽しいでしょ。あの疎かった実星ちゃんが悩む様なんか楽しくないわけがない!」

「生憎、失恋なら最初からしてるから、今更しませんけどね」



面白いものに向ける、探るような目を軽く睨み返す。内容の的確さが気になるけれど、どうせ幼馴染みを突いて聞き出しでもしたのだろう。

まぁ、そこは構わない。ずけずけ物を言われるのは慣れているし。失恋なんて、していないのだし。
勝手に恋して勝手に振り回されて勝手に傷ついているだけで、こういうのを道化というのだと、自覚しているだけだ。

聞いておいて興味がなくなったのか、グラスの中の氷をからころと鳴らしながら軽く首を傾げた彼は、私から何もない宙へ視線を移すとそれにしたって、と溜息を吐いた。



「ホンットつれないよねー。この俺と久々に会えたんだから、もっと嬉しがってくれてもよくない?」

「…無理。気まずさが勝つ」

「実星ちゃんの正直者め!」



ぶう、と頬を膨らませる姿を彼のファンが見たら燥いで喜ぶのだろうか。さっき帰ってしまった彼女なら、胸をときめかせたりして。

ぼんやりとそんなことを思いつつ、何故かテンションの高い及川くんを眺めていると、はた、と唐突に感情の窺えない瞳とまともに目が合う。
ぎくりと身体の芯が強張った。この、ころころと真剣味を出してくる表情に、私は強くない。



「で? 実際のところ実星ちゃんは何に悩んでるの?」

「…な、にも?」

「それで誤魔化せると思ってないよね」



どうせ実星ちゃんの悩みなんて自分のこと以外にないくせに。
ズバリと言い当ててくるのはさすがというか、痛いところを抉るのがやっぱり上手いというか。この時折向けられる辛口には押し負ける。

詰まる息を誤魔化しても、彼の追及からは逃げ切れる気がしない。
乾いていく喉にアイスティーを流し込んでみたけれど、あまり効果はなかった。



「自分の実力や感情に振り回されるのは、昔からお得意だからねー」

「…意地悪言うね」

「意地悪? 実星ちゃんが振り回されるだけなら助けてあげようとしてる俺が意地悪ですか?」

「うん…意地が悪いよ、及川くんは。どうせやめちゃえば、とか言うんでしょ」

「…へぇ。俺の言うことまで解るようになったんだ」

「解らないけど、言いそうなことくらいは」



彼とも、短い付き合いでもない。
驚いたように軽く目を瞠った及川くんを、きちんと撥ね除ける瞬間は見極められるようになった。
それだけ成長したのか、それとも歪んでしまったのかまでは、判断が付かないけれど。
潤してもすぐに乾いていく喉を、鳴らす。少しばかりの緊張は、さすがに逃がしきれなかった。



「でも、何言われてもやめないよ。今好きな人に、恋していられる内は…しておきたいから」

「……フーン」



造形のいい人が不機嫌な顔付きになると、どうしても迫力が増すからこっちまで身体を硬くしてしまう。
気に食わない言葉を口にしてしまったのか、単純に彼がいじめっ子気質だからなのかは判らないが、一気に冷たくなる瞳が手元のグラスに落とされた。

ところで、私はいつまでここにいなければいけないのだろうか。
これといった用がないのなら、帰してほしい。及川くんの方だって、ずっと彼女を放置するわけにはいかないはずだ。
何とかそっちに話を切り出せないだろうかと考えていると、少しの間口を噤んでいた彼がぽつりと、呟いた。



「片思いが楽しいなんてさぁ、手に入れるのに本気じゃないからなんだよね」



どすり、と。
彼の方に殆ど注意を払っていなかったから、言葉が胸のど真ん中に突き刺さるのを避けようがなかった。



「本気の片思いなんて救えないよ。特に手に入らない相手なんて想うだけムダ。欲しがっちゃったらその時点で自分が傷付くのなんて目に見えてる」

「そんな…全員が全員同じ好き方なんて、しないよ」

「あはは、相変わらず実星ちゃんは実星ちゃんだねー。欲がないフリして綺麗ぶってんのが、汚くってどうしようもない」



楽しげな笑い声を発する彼の目は細められず、本気で笑っていないのが一目で分かる。

本気の恋愛事に違いなんかあるはずないじゃん。
軽く言ってのける口調は私の反論よりも力が抜けているからこそ、真実味があって否定の言葉が浮かんでこない。
だって、知っている。彼の言いたいことを、私は身をもって味わったばかりだ。
欲しがったつもりはなかった。けれど、どうしようもなく汚い感情が胸を締め付けた時を、忘れられない。



「純粋すぎていっそ汚い、ダメダメな実星ちゃんでも、頭は良かったと思うんだけど」



じい、と見つめてくる及川くんに、どうしたら首を横に振れるだろう。
汚い。そうだ、あの時、私だって思ったのに。



「適当な片想いは楽だよね。勝手に盛り上がって勝手に終わりにできるもんね」

「そんな言い方…」

「ん? 何か間違ってる? でも、求めだしたら崩れそうじゃない、実星ちゃんのことだし。手に入らないのに苦しんで自滅するのが目に浮かぶけどなー」



私が何も言い返せなくなり、黙り込むのが面白いのか、彼の追撃はテンポを上げる。

自然と唇を噛んでいた私の目蓋の裏には、鮮やかにきらめく姿が焼き付いている。この想いが適当でなんか、あるわけがないのに。きっと私の気持ちも読んでいて、及川くんは敢えて酷い言葉ばかり選んでいるのだ。
でも、それでも、嘘というわけでもない。人を傷付けるためには真実を突き付けるのが一番効果的だ。そんなことは私でも知っている。本気の片思いということにだって、悲しいくらい自信があった。

好きでいるだけで、見つめられるだけで、幸せ。
そう思う気持ちに、嘘はない?



「でもご安心。耐えきれなくなったらいつでも、俺なら話を聞いてあげる」



にこりと、いかにも人が良さげな笑顔で掌を差し出してくる及川くんに、辛うじてできたことといえば、素直に従わなかったことだけだ。
その手を握り返すことだけはしなかった私に、一瞬だけまた冷たい目をした彼は大袈裟に肩を竦めると、面白くないと言わんばかりに口に運んだストローを囓った。






夏期休暇に鬼と出会す



実星ちゃんって、ほんとおバカちゃん。

言いたいだけ言ってくれる彼を、完全に撥ね除けられたら。それだけの強い心が手に入るのなら、他に望むことはなかったのに。

20140825.

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