悪意の器は、狂気という生き物だ。芽生える黒々とした感情を餌に、器となる体は日に日に肥えてゆく。
人が食物で腹を満たすように悪意を蓄えた狂気は、その分大きく育ち、終いには鋭さを増したその牙を、宿主の理性に突き立てて食い破る。
そうして宿主の魂にまで食い込んでは、浅ましい欲望を満たさんと、悪事に手を染めろと唆すのだ。

人は誰しも、身体の奥底に腹を空かせた狂気を飼っている。
そんな内容の書かれた本を、いつかどこかで読んだ気がする。









登校時間の廊下は、前にも後ろにも人が多くて進みが悪い。
急いでいるわけではないけれど、とろとろと歩いているとどうも眠気が襲ってきて、つい欠伸が込み上げてくる。
ふああ、と開く口を押さえようと手を口許に添えた時、しかしそれを吹き飛ばすような声がハッキリと鼓膜を刺激した。



「実星さん!」

「ふぁいっ!?」



びくうっ、と跳ねた肩を戻すより先に振り向けば、背後には朝から眩しいくらいの笑顔を浮かべた二人組がそこにいた。
呼び掛けられた声で察してはいたけれど…まだ完全に覚醒していなかった頭が、寄ってくる後輩達を目に写した所為で一気に覚めていく。覚めすぎて、過度に心臓が跳ね上がった。



「おはよーございます!」

「実星さん早いっすね!」

「お、はよ…う……二人も、早いね…っ?」



びっくりした上にドッキリだ。
にかっ、と元気な笑顔を浮かべる西谷くんと田中くんのコンビは、朝日よりも輝いて直視するのが難しい。

全くどこまで眩しいのかな君達は…!
登校一発目の衝撃で既に召されそうだ。密かに滲みかける涙を堪える。

しかし、この笑顔なら勉強の成果は期待できるといったところか。
昨日から本格的に、彼らの夏の運命を決める試験期間が始まった。
朝練の癖が抜けず、つい普段の習慣通りに登校してしまったのだと語る二人の表情に、今のところ苦いものは感じられない。



「試験の方は二人とも、どう?」

「あ! それですけど、俺今回はいつもより六問くらいは自信あるんすよ」

「一応、俺も実星さんに言われたこと思い出して空欄埋めときました!」

「そっか…点数配分にもよるけど、期待できそうな感じかな」



安心するには早いけれど、ほっと息を吐く。あんなに頑張っていたんだし、何だかんだ彼らなら大丈夫だろう。決めるところは決められる二人だと知っている。

通行の邪魔にならないように隅に避けながら、少しだけ穏やかさを取り戻した気持ちで向き直った。



「記入ズレがないように落ち着いて見直ししてね。頑張った分の点は取れるはずだから」

「あざッス!」

「あ、そーだ実星さん! これ終わってもまた色々訊きに行ってもいいですか!」

「えっ?」



ぱっちり見開かれた瞳の力に、ドクンと心臓が飛び上がる。
これ、というのに、試験以外に当て嵌まるものはない。純粋な期待しか含まない眼差しを他でもない西谷くんに向けられて、カッと身体が熱を持った。

それは、つまり。



(終わっても、近寄ってきてくれる…?)



何の関わりもなかった他学年の他人が、ここまで距離を縮められるだなんて思っていなかった。
思っていなかったから、衝撃は大きい。まだ、全然慣れられない。

けれど、嬉しい。どうしても。
焦がれ続けている人に、その眼で真っ直ぐに見つめられると、怖くて逃げ出したくなるくらい、舞い上がってしまう。



「この先も成績が部活に響くことあるだろうし、実星さんに教えてもらえたら嬉しいんスけど」

「う、うんっ。勿論、私でよければできる限り協力するよ…っ」

「よーっしゃー! これで鬼の扱きから逃げられるなノヤっさん!」

「ありがとーございます! やったな龍!」



男らしいハイタッチで喜びあう二人が、私の顔色を気にしないでくれたのは助かった。
きっと傍目から分かるくらい、今の私は真っ赤になっているはずだ。



(ヤバい…)



早く、普通に戻さないと。
意図してできることでもないけれど、せめてドキドキと高鳴る胸を落ち着かせたい。妙なことを口走ってしまわないか、恐ろしくて堪らないから。

彼らにバレないよう深呼吸しつつ、火照る顔に手を当てる。
鬼というのが誰なのかは分からなかったし、私の気持ちが漏れないかという問題はあったけれど、喜んでもらえるのは素直に嬉しい。役に立てるならもっと嬉しい。だから、二人の願いを断りきれないのは仕方のないことだった。



「えっと、じゃあ私は教室行くね…」



とりあえず話すことは話したし、早めに退散した方が身のためだ。
熱の引かない頬を軽く手で隠しながら口にした言葉に、二人は揃って気のいい笑みで応えてくれる。どうやら私の動揺は悟られていないらしい。

けれど、また今度、という約束を取り付けて軽く手を振り、離れる間際のことだった。
はっ、と顔を逸らした西谷くんの瞳に、一瞬にして喜色が浮かんだのは。



「あの周囲の空気まで澄みわたる美しい立ち姿! あそこを行くは潔子さんじゃねーか!!」



ぱあっと、今まで以上の輝きを増した顔を見れたのは本当に一瞬だ。一瞬にして、胸を射られた。
次には素早く翻る学ランがダッシュで離れていく。その背中は、呆気ないほど簡単に小さくなった。



「あっ…待てノヤっさん! 抜け駆けだ!」



遅れて田中くんが走り出した先には、一人の女子生徒の前で急ブレーキをかける西谷くんの姿がある。
廊下の数十メートル先で繰り広げられる光景は、それなりに見慣れた当たり前のもので。

それなのに、当たり前の状況を目にして、今更ショックを覚えた。覚えてしまった。
ズクン、と身体の奥で響いた音は、先程よりも重苦しい。咄嗟に制服の上から胸元を掴む。

無意識に、息を止めていた。



(……私…)



人は誰しも、身体の奥に腹を空かせた狂気を飼っている。
いつか何かの本でそんな文を読んだ時、不意に頭の中を過った疑問があった。

悪意の器が狂気なら、恋心の器は、何だろうか。似たようなものではないだろうか、と。
差違があるにしても、小さなもので。綺麗なものを蓄えるからといって、器まで綺麗なものになるとは限らない。
そんな私の思考は、間違っていなかったらしい。
こんな形で思い知らされるとは、思っていなかったけれど。

ズクン、ズクンと心地悪い痛みが胸の辺りで疼いている。苦しさは腹まで下って、とても綺麗とは思えない黒々とした何かが渦を巻くのを感じた。



「うわ……やだ…」



私、こんなの、嫌だ。
熱も引ききった強張った頬が、引き攣る感覚がする。
笑えない。

二人の駆け寄っていった女子、同学年の清水潔子さんは、西谷くんを見つめている上で欠けるわけのない情報だった。

清水さんは、綺麗な人だ。名前通り、澄んだ水のような清廉さとそれを損なわない不思議な艶やかさを漂わせる、きっと烏野高校で三本の指には入るだろう美女。
性格はあまりよく知らないけれど、見た限りではクールで真面目。だからと言ってお高く留まっているとか冷たいとか、融通が利かないとかいうわけでもなく、自然体でいることがそのまま魅力に繋がるような、そんな人だった。
綺麗な人だ。同性に対して向ける気軽な笑顔も見たことがある。きっと優しい人なのだと思っている。思っていたのは嘘じゃない。
そんな人に、大して関わっていない私が恨みなんて抱きようもない。そんな感情を芽生えさせる理由がない。その筈、なのに。

瞳を輝かせて駆け寄る二人に、振り向いた彼女の態度はとても冷静だった。
離れていても表情くらいは読み取れる。少しの動揺はあっても真剣に取り合う気はないようで、燥ぐ二人をスイ、と避けて彼女は離れていく。
その慣れきったような光景が、目蓋に染み付いて。

何それ。何でそんなに想われているのに、無関心なの。

そう、私の内側で真っ黒な影が毒づいた声を拾って、目眩がした。



(嫌だ…)



私、そんなつもりじゃなかったのに。
少しでも長く見つめていられれば充分で、彼女を追い掛ける姿すら微笑ましく愛おしく、今までは間違いなく見守れていたというのに。

欲が増している。
全身から、一気に血の気が引いていく感覚がした。



「汚い…」



恋心の器は、独占欲か、嫉妬か。きっとそんなもので、やっぱりとても綺麗なものとは思えない。
西谷くんだって、あんなに綺麗な人なのに。綺麗な人を好きになっても、恋心を蓄える器が私では、汚くしかなれないのか。

徐々に息苦しくなって、彼らから逃げるように教室へと歩き出した。眠気も飛んで、人並みを縫うようにして。

当然の摂理を目にして、ショックを覚えた自分が、ショックだった。






朝一番、廊下の痛感




私こんなに、貪欲じゃなかったはずなのに。



「私は…海の藻屑になりたいよ東峰くん…」

「ど、どうした岸本?」

「自分の浅ましさに嫌気が差してる」



ああ…最悪だ。罪悪感と嫌悪感が巡っていて、気持ちが悪い。
まさか、嫉妬なんて、分不相応な感情を抱くことがあるなんて。
だって、彼女を好きな彼のことだって、好きなのに。清水さんが気に入らないなんて思う理由もなかった。今まで思ったことはなかった。
きらきらと瞳を輝かせて、好きなものに正直に向かって行ける西谷くんが好き。それは絶対に、嘘じゃないのに。

机に突っ伏した私が垂れ流す失態を、遅れて教室に現れた東峰くんは眉を下げながら聞いてくれた。



「それは仕方ないんじゃ…岸本は西谷が好きなんだからさ」

「好きな人の好きな人を私も好きでいたかった……汚い気持ちで見たくない…」

「う、うーん…そこまで気にしなくても…俺は汚いなんて思わないけどなぁ」



それより、そんな状態でこれからも二人の手伝い引き受けて大丈夫?

じわりと滲んでくる涙を袖に押し付けていると、気遣わしげな目をした東峰くんに訊ねられる。
大丈夫、なわけがない。全然微塵も大丈夫じゃない。けれど、今更約束をなかったことにはできない。



「燦々と輝く笑顔を向けてくれる他でもない西谷くんの頼み事を断る岸本実星がこの世に存在するだろうか…」

「歪みないなぁ岸本…」

「ええそうよ…脱け殻になるまで搾り取られても西谷くんの願いを拒める気がしないもの…」



行き着く先がミイラでもゾンビでも、歩みを止められない。
どうしようもないのに、どうしようもないくらい、彼が好きな気持ちは本物で。
今更、消しようもない。



「…東峰くんてば、何て顔してんの」



東峰くんの痛ましげな顔つきは、見ようによって迫力がある。
ほんの少し、腕から顔をずらして見上げた先で何か言いたげに迷った様子を見せる友人に、私は小さく笑った。



「大丈夫…本当、大丈夫だから。すぐに夏休みに入るし」



整理し直すつもりでいるから。
今は力が出ないから、中途半端な笑顔しか浮かべられないけれど。時間が経てば、きっと大丈夫。
不用意に、警戒も忘れて近付き過ぎた。だから自惚れかけていたのだ。いくら必要とされたって、一番には絶対に敵わないのに。

ああ、本当、情けない。恥ずかしいな。
これ以上の関係なんて、手に入りようもないのに。舞い上がり過ぎて考える時間が足りなかった。



「定期的な勉強会も、終わるしね」



戻そう。
成長しかけていた欲を、元の大きさまで戻すには時間が掛かるかもしれない。
それでも長い休みに入れば、少なくとも彼と顔を合わせる機会は減る。その後だって、私の役目が増すことはないだろうから、距離が縮まるようなことも絶対にない。

もう一度、目の前に硝子一枚、隔てる感覚を思い出そう。
遠くから眺めているだけでも、間違いなく私は幸せだったのだから。充分だと思えるように、距離を計り直す。



「いいの?」



納得がいかないといった表情を浮かべる東峰くんには、気遣ってもらってばかりで申し訳ない。
それでも私は、頷き返すことしかできないのだけれど。

だって、まだ、私は彼を好きでいたいから。

20140819.

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