優れ過ぎた人間が傍にいることは、凡人にとっては苦痛でしかない。
長い時間付き合っていてもその事実を理解できない、しようとしないのが天才という存在であり、私はその天才というものが幼い頃より酷く苦手で仕方がなかった。

勉強もスポーツも芸術ですら、何一つ勝ち目のない人間と比べられながら育つ、その苦しみが解るだろうか。
親同士の会話の中から聞こえてくる、「それに比べて家の子は」という一言にどれだけ重圧を感じているか。

誰も、解りはしないのだ。
私にしかその痛みは。
そんなことはとっくの昔から、解りきったことだった。






「何をしているのだよ、こんなところで」



とっぷりと暮れた空を無心に眺めながら膝の間に立てた楽器ケースに凭れていたところ、聞きたくない特徴的な口調が掛かってうげ、と眉を顰める。

寄りによってこいつに見つかるなんて、私は何か悪いことでもしたのだろうか。
…したけど。

怠い身体を起こして視線を投げれば、今日もまた不可思議なアイテムを片手に佇んでいる幼馴染みの姿がそこにある。
公園の入り口付近には何故かリヤカーのくっついた自転車と、サドルに腰掛けてこちらを窺う幼馴染みの部活仲間らしき人間が見えた。

また変なことしてる…と引き攣りそうになる頬を保ちながら何か用、と返せば、眼鏡の奥の瞳がぴくりと細まる。
その反応に、ああこれはまた面倒な流れになるなと察して、胸の辺りがじくりと疼くのを感じた。



「個人レッスンはどうした」

「…私の予定知ってるとか、ないわ」

「はぐらかすな。…確か今月末だったろう、コンクールは」



ああ本当に、最悪だ。
外の空気を吸って、せっかく少しだけ落ち着けていたのに。

今の私にとってこれ以上ないくらいタブーな単語を簡単に口にしてしまうそいつに、頭の奥がずん、と重くなる。
この態度では私がレッスンをサボったこともお見通しなのだろう。だからこいつには見つかりたくなかったのだ。

無意識に握ったケースの持ち手に、こもる力が増す。
同年代の天才、それも幼馴染みという近すぎる人間に指示される状況ほど、自尊心を傷付けられるものはない。
そんなこと、こいつには解るわけがない。知っている。けれど。



「この間も課題が多く出されたと聞いた」

「…井戸端会議にでも顔出してんの?」

「お前の母親に頼まれたのだよ」



なるほど。いつまでもやる気のない娘に発破をかけてくれと、頼まれたのか。

少ない言葉でもその裏側が読めてしまうのは、便利でも不便でもある。
顰められた顔を見上げたままでいることも今は苦しくて、どうしようもない。



「何故お前はそうなのだよ。オケの方は喜んで行くくせに個人だと手を抜く。もっと人事を尽くせば…」

「人事人事って、いい加減うっさいわ」

「っ、何だと?」

「あんたに関係ないでしょ。何でもかんでも自分と同じように見ないでよ…」

「言っている意味が解らないのだよ。オレはお前が‥」

「うるさいっつってんでしょ!」



ぶちりと、頭の中で何かが切れた気がした。
そうしたら涙腺までいかれたのか、ぼたぼたと熱い液体が流れ始めていて。
勢いよく顔を上げた私が泣いていることに気づいたそいつは、さすがに驚いたのか言葉をなくしたようだった。
けれど、燃え尽きた導火線しか残っていない私の、爆発した怒りがそこで収まるはずもない。



「どれだけやっても結果がついてこない人間の気持ちなんか解らないくせに、上から説教してくんじゃないわよ! 一回楽譜見たら弾けるとかね、チートじゃないのよこちとら! キャパシティーだって広くないし何でもそつなく熟せるほど器用でもないんだよっ!!」

「、な…」

「努力しても一向に実らない気持ちなんかっ…あんたがいるから余計なプレッシャーばっかかけられてることも…あんたに、解るわけないでしょうっ!?」



目を見開いたまま固まる幼馴染みに、積もり積もった不満をぶつけるのは初めてのことだった。
いつだって私は我慢して、堪えて、負けたくなくて必死だった。

一度でいいから、勝ちたかった。



(ううん、違う)



勝てないことなんか、解ってる。
解っていたから、キツかった。

比べられて貶められて、なのに諦めてもらえないことが。
頑張っても頑張っても、まだ足りないと言われることが。

目の前の男が尋常でない努力家であることなんて、百も承知だ。天才が努力を重ねているのだから、何一つ敵わないことなんて当たり前なのだ。
尊敬するし、憧れる。その気持ちは確かにあるけれど。
何の取り柄もない凡人には、その努力を熟すキャパシティーすら備わっていないことを、知らないから。

解らない人間から吐き出される言葉は棘のようで。
だから私はずっと、ずっとこいつが。



「真太郎の馬鹿野郎! 大っ嫌い!!」



目障りで、仕方がなかった。



「おわっ!? え、ちょっ…」



呆然と立ち竦むそいつを置き去りに、楽器だけは携えて公園から逃げ出せば、入り口にいた男子がぎょっと目を剥くのが見えたけれど、どうでもいい。構っていられない。
涙と怒りでぐしゃぐしゃになっているであろう顔は袖で拭って、叱られることを覚悟で家まで駆けて帰った。





 *



ここまで喧嘩らしい喧嘩を誰かとしたのは、物心がつく頃から数えて初めてかもしれない。

案の定家に帰り着くとレッスンをサボったことはバレていて、鬼のような顔をした母が出てきたけれど、ぐしゃぐしゃになった私の顔を見るとすぐに何かあったのかと訊ねてきた。
その顔は酷く私を心配するような母親らしいものだったから、申し訳なくなって。それでも一から説明するのはどうしてもプライドが許さなくて、何も言わずに私は自室へと駆け込んだ。

酷く呼吸がし辛くて、頭が重い。
未だに止まらない涙と鼻水をどうにかしようとティッシュを何枚も消費したけれど、無駄だった。

ああもうしんどいなぁ…と冷静に呟く自分と、何で上手くいかないの…と嘆く自分に挟まれて、立ち上がることすら辛くて。
それでも手離せない楽器を手繰り寄せて、ケースを開いて弦を弾いた。

GからEへと、あまり音に狂いのない4弦を弾いて響かせれば、悲しいことにやはり、その音は綺麗で。
こいつも、もっと上手く弾きこなせる人間に巡り会えればよかったのにと、どうしようもなくネガティブな気持ちに押し潰される。

それでも、どうしても。



「なまえ、開けろ。話がしたい」

「っ…」



ぼろぼろと溢れる涙は諦めてそのままに、弦を撫でて柔らかな音に耳を傾けていれば、不意に置いてきたはずの男の声が響いてびくりと肩が跳ねた。
言いたいだけ言い逃げてきた自覚はある。まさか家まで追いかけてくるだなんて思っていなかったから、動揺して指が空を掻いた。



「…開けないなら、ここで話す」

「か、帰って…もう、ほんとやだ。何も聞きたくない…」

「……嫌なのだよ」

「も…ほっといてよ…っ」



泣いているところを見たからだろうか。幾分か険の抜けた声に、それでも拒む思いしか生まれない。
見えもしないのに、嫌だ嫌だと首を振った。痛い言葉なんか、もう聞きたくなかった。



「なまえ…説教をしたいわけではないのだよ」

「知らない…っ」

「…オレはお前が、諦める姿を見たくないだけで」



だからそれが苦しいのだと、どうして解らない。

耳を塞いでも防げない声に、ぎりぎりと心臓が痛む。
応えられない期待をかけられるのは、限界だった。



「お前は、努力できる人間だろう」



扉越しに聞こえてくる言葉は、私の琴線を刺激する。
言っていることが解らないわけではない。解っていて、でも辛いのだ。
思ったようにいかないことが、辛くて堪らない。



「だって、動かないんだもん…っ」



理想通りに、指が、手首が、腕が。
トリルはもっと素早く的確な音を押さえたいし、ビブラートは手首から動かして長引かせたい。右手も、アクセントはもっと無駄に力まず迫力を出したい。
重音ももっと艶やかに奏でたいし、楽譜通りではなくもっと感情を、その曲の意味を乗せて、弾けたらどれだけ気持ちが良いだろうかと思う。

けれど。



「結果が出ないから、嫌になる…っ上手くなれないから…練習も嫌いになるんじゃんっ…」



好きだから。音楽が、楽器が、好きだからできないことが、悔しくて。
努力した分ついてこない自分が、腑甲斐無くて。

私だって、もっと上手くなりたい。自分が満足するだけでなく、誰かに聞かせられる音楽を奏でたい。
でも、どうしても、厚く高い壁は幾層も連なって、私を押し潰してくるのだ。

嫌になる。いい加減やめてしまいたい。こんな苦しい繰り返しは。頑張っているのに、頑張れと、掛けられる言葉は重すぎて。
そんな弱音に気づいているかのように、ならやめるか、と囁きかける声に嗚咽が漏れた。

真太郎は、意地悪だ。



「い、やだぁ…やめたくない…っ」



そんな端的な言葉にも心は敏感に震えてしまうくらい、私が一番諦めが悪い。
そんなことだって、解りきっていたことで。

勉強も、スポーツも、何一つ取り柄なんてないけれど。
これだけは。楽器だけは、取り上げられたくなくて。



「…解っている。お前がちゃんと、音楽が好きなことは知っているのだよ。努力していたことも…知っている。何年の付き合いだと思っている」

「ふ、うー…っ」



狡い。
何でここで、解っているようなことを言うのだろうか。

似合わないし、どうせ芯からは解り合えないくせに、合おうともしないくせに、逃げることだけは許してくれない。
だから私は、こいつが苦手なのだ。



「諦めてしまうのは惜しい」

「馬鹿、やろ…っ」

「オレはお前より出来は良いのだよ」

「知ってるわ馬鹿ぁっ…」



ぐしゃりと、前髪を握って天井を仰げば、許可も出していないのに扉が開く。
それに文句を言う隙もなく、侵入者は私の楽器ケースを閉めると座り込んでいた私の腕を強く引き上げた。



「な、なにっ」

「ピアノ譜は…バッグに入っているな。行くぞ」

「う、え…? どこに」

「やはり馬鹿はお前なのだよ」



ぐずぐずと未だに目を擦っている私を呆れた目で見下ろしてくる幼馴染みは、まさかサボったままでいる気はないだろう、と嘆息した。

つまり、私の個人練習に付き合ってくれるとでも言うのか。
あの真太郎が。



「一日やらないだけで三日分は遅れるだろう」

「…真太郎、どうしたの。親切すぎて気持ち悪いよ」

「っ…お前は…人の好意を踏みにじるな!」



悔しい。悲しい。憎らしい。
けれど、私の腕を引いてくれるその手を振り払う気には、どうしてもなれなかった。






不協和音の関係性




嘘だよ。ありがとう。

その一言が届けば、少しはこの悔しさが晴れるような反応が返ってくるのだろうかと、考えたけれど実行には移さなかった。



(真ちゃんが女の子拐ってきた!?)
(!?)
(っ…何故お前が家の前にいるのだよ!?)
(お前がいきなり走り出すから追っ掛けてきたんだろー?、って、さっきの子じゃん。可哀想に泣かされちゃってさー。大丈夫?)
(…まぁ、真太郎のデリカシーの無さには慣れてますし)
(名前呼び!? まさか…彼女いたの真ちゃん!?)
(ただの幼馴染みなのだよ!…はぁ、仕方ない。お前も付き合うのだよ)
(っは?)
(付き合うって何に?)
(こいつの練習にだ。第三者がいた方がいい緊張も芽生えるだろう)
(ちょ、いきなり他人に迷惑かけらんないでしょ。今は夜よ!?)
(構わん。相手は高尾だ。気にする必要はないのだよ)
(私は初対面だ馬鹿野郎!)
(練習って…それバイオリン? うわ、だったらちょっと気になるわ。生で聴いたことねーし!)
(ええっ!?)
(決まりだな。行くぞ)
(へーい)
(いや、ちょっ嘘でしょ…)
20121106. 
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