実はね、とても昔のことになるんだけど、一度だけ声を拾ってもらえたことがあったんだ。うん、こうして顕現される前の話だね。
作り出されてそう長く経っていなかったから、まだ僕はただの刀で…ああ、いや、意識はあったからもう付喪神一歩手前だったのかな。僕自身その辺りはよく判らないんだけど、少なくとも今のように自分で動き回って本性を振るったりはできなかったよ。できていたら化け物だって恐れられて、折られていたかもしれないね。若しくは祟りを恐れて供養とか…はは、そういう意味では動けなくてよかったな。
あの頃の僕といったら、生まれたての赤子みたいなものだったから、刀としての欲求に忠実で後先考えるのも苦手だったし。

そう。人間で言う子供の頃、みたいなものかな。姿形はなかった。最初に意識が芽生えて、目と耳が出来たみたいだった。主人やそれを取り囲む環境を知覚し始めて、少しずつ、自分の置かれている場所や扱う人の事情なんかを理解していったんだ。いかにも赤子らしい成長過程だよね。
燭台切って名前を貰ったから、光忠の中でも特別な格が付いたのかな? 今となってはその辺りも確認しようがないんだけど…ああうん、そうだよ。伊達政宗公の下にいた時に、僕は人のような意思が芽生えたんだ。織田家での記憶はうっすらあるけど、まだ僕に意思はなかった。豊臣を経た時もね。

政宗公は所謂天才っていうか…頭もよければ多趣味で、文武共に優れた人だった。軍議にも勿論長けていたし、立てた武功も多いっていうのは…そう、ちゃんと知ってるんだ、偉いね。
君の言う通り、若くして家督を継承しただけあって、野心も強ければ知恵も回った。立ち回りの巧い武将で、度重なる危機にも機転を効かせて切り抜けられたくらい…ある意味では運もよかったのかな。独眼竜なんて呼ばれて恐れられるだけはあったんだよ。

彼の君の腰元に一番佩かれたのは、僕だったんじゃないかな。刀としては見た目も評価されていたけど、実戦刀だったし。それも会津の…関ヶ原での合戦以降は活躍の場は減ったんだけどね。
東軍の勝利に終わった、天下分け目の戦いだ。実戦たった一日の戦で政治的謀略にも溢れた戦乱の世が収まるんだから、歴史って何が起こるか分からないなぁと思ったよ。その合戦以降大きな戦は目に見えて減っていって、城の中にいては常に佩刀することもなくなるから、公が僕を携える機会も減っていった。飾り物とまではいかないんだけど、部屋に置かれっぱなしの日も増えたんだ。
それが、遊び盛りの子供程度しか思考が成長していなかった僕には退屈で仕方がなくてね。だって、目覚めて此の方公と共に敵を斬り捨ててきたんだ。そんな日々に身を浸していたし、やっぱり刀だから使われないことがつまらなかったんだよ。
平和って言葉が大切なことは知っていても、本性には抗えないというか…武器は壊したり殺したりすることが存在意義だからね。元が刀だから、僕もその頃は欲に忠実で、寧ろそれしか頭になかったように覚えてる。

退屈な日が増えて、僕は不満を溢れ出すままに呟いていた。つまらない、やることがない、面白くない…ってね。
誰にも聞こえないのをいいことに、独り言を繰り返してたんだ。まぁ今思い返すと、あれも中々格好悪かったと思うよ。
他の刀? うん、勿論いたけど…話したことはあまりなかったかな。無口だったのか、沢山喋れるようになるほど化け物に近付いてなかったのか。どっちかは分からないけど。大倶利伽羅なんかは今だって無口だし、性格の問題もありそうだね。

でもね、そんな時期だった。聞かれていないと思っていた僕の呟きに、ある日掃除を仰せ付かっていた女中の一人が応えたんだよ。
「もう戦に出ることはないのかな…」って、気落ちしながら溢した時だった。新しく城仕えとしてやって来たばかりだった幼い娘が、「下の民には太平が一等喜ばしいものなんですよ」って。掃除の手を止めて、刀でしかないはずの僕へ振り向いて答えるんだ。何の疑問も恐怖も抱いていないような顔をしてね。
そりゃあ驚いたよ。だってそれまで、僕の独り言を拾えるような人間は一人もいなかったんだ。
公にだって届かなかったんだよ。というか、それが普通で当たり前だし。驚いたなんて言い方じゃ生温い…彼女はまさか人に化けた人ならざるものなのかと、暫く疑ってしまったよね。
少し常人より霊力が強くて化け物の類いと接し慣れているだけだとは、後から本人の口から聞いたけど。だからって普通に会話するのはおかしいから、やっぱりちょっと変わってはいたんだろうと思うよ…決して悪い子じゃなかったんだけど、危なっかしいところはあったかも。

それからだ。僕の生活がまた一変したのは。
人と意見を交わすのはとにかく新鮮で、僕はすぐに彼女と打ち解けたよ。というか、懐いてたんだよね…。今にして思うと、結構恥ずかしいんだけど。姉ができたような、友人ができたような、そんな気分だったんだ。
僕は彼女の仕事の合間に辺りに人気がないことを確かめて、邪魔にならない程度に話し掛けるようになった。話し相手がいるっていいよね。人を斬る以外の喜びを初めて知ったから、当時の僕は結構浮かれてた覚えがあるよ。
彼女は人が好くて、面倒がりもせずに僕の相手を買って出ては色々なことを教えてくれた。戦場で血が騒ぐ悦びとはか掛け離れた穏やか過ぎる時間だったけど、次第に彼女との束の間のやり取りを、心待ちにする気持ちが増していった。

刀の本質を活かしてくれたのが公なら、人のような気持ちを芽生えさせて育んでくれたのは、間違いなく彼女だったと思うよ。
どうして公は母堂を処分しないのか。政権が揺らいだ時に天下をとりに出なかったのか。理解が及ばないまま燻っていた僕の中の疑問、一つ一つにその手で水をかけていった。


「僕の主は、天下すら取れる器のはずだ。度胸もあれば頭も回る。徳川の将軍にだって引けを取らないと思うんだけどな」


そんなことを、ある時彼女の前で溢したことがある。
天下を分けた会津征伐が、僕は忘れられなかったんだ。あの時に徳川との約束だった報酬が与えられていたなら、主の念願も叶ったかもしれないと…主同様無念に感じていた。

どうせなら、自分を扱う主人に天下をとってほしいじゃないか。僕なりに公のことは慕っていたしね。
だけど、そんなたられば話に付き合ってくれていた彼女はほんの少し眉を下げて笑ったんだ。


「もしかしたら、そのような未来もあったやもしれませんね」


そんな可能性も、あったかもしれない。けれど徳川の下、幕府の盤石が整ってしまった今、謀反を起こすだけの理由は公にはないだろう…と。
悔しさや虚しさを受け止めなければならない時が、人には少なからずあるのだと、彼女は僕に教えたんだ。


「でも…百万石が手に入っていたら、伊達が天下をとる道も開けたはずだ」

「私も伊達家にお仕えする身です。御家の念願より遠ざかった結果は無念でなりませんが…過ぎた話をとやかく言ったところで、何も始まりはしません」


彼女の言い分を薄情だとは責められなかったよ。彼女が心から主人に仕えていることは知っていたし、僕に語り聞かせる表情だって…彼女だって、簡単には割り切れていないと分かるようなものだったから。
きっと、自分にも言い聞かせてきたことだったんだろうね。人間や家の誇りというものを、きちんと理解した人だったし。


「貴方様は刀です。戦場で振るわれないことには不平を抱かれても仕様が無いことでしょうが……これまでに築かれた、太平を…公の人生で得られた宝までもを、捨てて尚戦えと、仰りますか?」


築き上げた日々を、共に駆け抜けた配下を、授かった子を、育まれる生活を、手に入れた立場を。
統一を経て此の方、大きな内戦が減少したことにより人々も休息を得つつある日の本を。
喪ったものだって数多くある。そうして手に入れた“今”だ。数々の犠牲も無駄にして、手中の宝を捨て去ってまで、天下人の座を得ようとするほど、公は無学でも無鉄砲でもない。
そう言い切る彼女は、目も耳も頭もよかった。謀反を起こすには時期が悪すぎると知っていたんだ。

僕も少しは人の成り立ちを知り始めていたから、彼女の言いたいことは解らないでもなかった。
その腰に佩かれた日より、主人と周囲の情勢を眺め続けてきたんだ。欲しいものと守るべきものが両立できないような場面も、数多く見てきた。
様々な場面で取捨選択を迫られてきた主も、人間だ。取り入る人間や戦術の選択に、迷うことも間違うことも確かにあった。
それでも、選んできたもの、得てきた人生を否定したりはしないだろう。そんな惨めな様は晒したくないと考える人だ。

それに、冷静に考えれば勝ち目がないことは僕にも解っていた。戦は人の数があれば勝つというものでもないけど、人の数がなければ勝てるわけがない。
その事実を受け止められるだけの器が、まだ僕には備わってなかった。愚痴を溢すことでしか消化できなかったんだ。


「人は柵が多いね」

「全くですね。だからこそ楽しむべきと…公なら仰りそうなものですが」


彼女はいつだって僕の不平不満を馬鹿にしたりはしなかったし、受けとめてくれたけど。本当に、格好悪いところばかり見られっぱなしだったな…。
だから仲良くもなれたんだけど、後になってくると情けないやら恥ずかしいやら…その点は少し辛かったよ。

それからも、ずっと、彼女とはよく話をしたよ。塵が積もって山になるように、僕の中に少しずつ情緒や道徳といったものが詰まっていった。彼女のお陰でね。
機微を悟っては、まるで自分も人間になったような気持ちになっていた。
だから、勘違いしているんだって、気付くのに遅れたんだ。

僕は刀で、人間よりもずっと、意思なんて尊重されようもない存在だって…久しく忘れていた。


「公は渋ってくれたんだけど…支度を終えたら直ぐにでも進上されるみたい」


水戸の将軍に我が身を欲しがられた時、僕は僕の意思で動くことすらできないことを思い出した。
傍にいる相手を選ぶことなんで出来ようもないと、それなりに長く伊達家に仕えていた所為で余計に頭から抜けていたんだと思う。
いや、うん、頭はなかった。確かになかったよ。ただの刀だったしね。今みたいな姿は持ってなかったから…とりあえずそこら辺は感覚とか想像で補ってほしいな。今、ツッコミとかはいらないから。

とにかく、僕は長年過ごしてきた伊達の城を離れることになった。
僕という刀が欲しいという、人の我儘によってね。


「こうしてお話できるのも最後になりましょうか」

「…恐らくはそうなるかな」

「寂しくなります」

「僕の声は君にしか届かないのにね」


刀の我が身を憂いたことなんて、その瞬間まで一度もなかったんだけどな。
彼女と離れずに済んでいたなら、あんなに静かな絶望を知らないでいられたんじゃないかなって、今でも思う時がある。それ以外の未来なんて、用意されていないものは知ることもできなかったけど。

どうして僕には彼女を捕まえて引き摺っていくための腕も、そのまま連れ去って逃げられるだけの足も、ないんだろう。
手足があったところで、共に生きられるだけの立場も教養も、僕は刀だから何一つ持ち得なかったけど。それでも、寂しげに微笑む大切な友人を抱き締めることもできない自分が、憎たらしくて虚しくて我慢ならなくて……堪らなかったよ。

悲しそうな顔してる? ああ、まあ、悲しかったし、それ以上に悔しかったからね。ないはずの心臓に杭を打たれたような気持ちだったの、今でもはっきり思い出せるんだ。


「君も、連れていけたら」

「詮のないことを口になさらないでください」


とにかく、傍にいたかった。彼女と離されることが、信じられなかった。信じたくないくらい、僕には受け入れ難い顛末だった。
なのに、ね…彼女はやっぱり容赦なく賢い人だったから、駄々を捏ねてくれなかったんだ。縋りたくて堪らなかった僕を、寂しがりながらも笑顔で突き放してくれるんだから、本当に酷い人だよね。


「世に光忠は数あれど、貴方様は二つとない優れた刀です。この先もきっと貴重とされることでしょう」

「解る。解ってるよ。無碍にはできないだろうって…でも、そんなことは何の慰めにもならない。僕は」

「燭台切光忠様。この先も、私より長くを生きられるでしょう貴方様の刃生が、いつの時も迷わず誇れるものでありますよう」


酷い、人だった。たおやかで強くて、綺麗な女性だった。
最後に一度だけと言って、本当に一度きり、僕の拵を撫でて笑った彼女が僕の自我を正しく形成してくれたたった一人の人だったのに。きっと彼女は、その時の僕が知らなかった僕の内に潜む心まで見透かしながら、背中を押したんだ。
僕が自覚するより先に、僕の心に強固な鍵を掛けた。


「願っております。忘れません」


そんなことを言ってね。立ち去る瞬間まで、彼女は涙の一つも流してくれなかった。

それが永遠の別れになると分かっていたから、そうしたのかもしれない。理解して悲しんだり、苦しんだりしないように。あれも彼女なりの優しさだったのかなって、後になって考えるようになったよ。僕だって馬鹿じゃない。彼女は彼女なりに、僕に情を抱いてくれていたことはちゃんと知ってた。寂しくないはずも悲しくないはずもない。僕が駄々を捏ねたから、彼女は凛とした態度を貫いてくれたんだろうね。
ただ、その、しばらくの間は…そうだね、惜しんでもらえなくて悔しかったし、徳川に渡った後はふて腐れていたかな。離れたくないって思っているのは僕だけなのかって最初はどうしても疑っちゃって…ちょっと、笑うところじゃないよ。結構本気で落ち込んだんだから…ああもう、分かってる。やっぱり格好悪いよね。最後まで彼女の前では決まらなかったなぁって、今だって悔しいくらいだから。

うん。彼女とはそこで別れたきり。逢うことなんて叶うはずもないから、十年二十年と徳川で継がれる内も彼女のことを想像して過ごしてたかな。
最初の数年は、彼女も何処ぞの男に輿入れしたのかな…とか。そうしたら子にも恵まれて、僕に教え聞かせていたようなことを母として語ったりもするのかな…とか。
なんだか、そういう想像は嫌な気分が込み上げてきたから、次第に避けるようになった。分かってる。悋気に駆られていたんだって、これも後から気付いたよ。その頃はまだ分かっていなかったから、深く考えず想像を膨らませるよりも思い出を掘り返すことに専念することにしたけど。

そうして、どれだけの日々を過ごしていたかな…ある日、僕の飾られていた座敷の畳を掃いていた女中が、突然はらはらと涙を流し始めたんだ。
誰にも何もされていないのにいきなり泣き出すから、何事かと思って声を上げちゃったよ。ああ、勿論その女中には届かなかったけど。彼女みたいな人間はやっぱり珍しかったみたいでね。彼女の他に会話が成り立つ人間は後にも先にも現れなかったなぁ。
それはそうと、その女中なんだけどね、何かをぽつぽつと呟いていたから耳をすませてみれば…耳もなかったけど、ツッコミはいらないよ。女中は、寂しい恋しいと、誰かの名を繰り返して泣くんだ。もしかしたら城内であまり境遇がよくなかったのかな? そこのところは僕には知りようがなかったけど、とにかく苦しそうに泣いていたんだよ。何かを掻き消すように胸を掻き毟って、悲鳴を堪えるみたいな掠れた声を上げてね。

理由も原因も僕は知らなかったんだけど…何でだろうね。何だか、その女中の気持ちが解るような気がしたんだ。
何でだろうね、なんて言ったけど、分かってるよ。その時だってすぐに解った。同じような苦しみを、僕だって経験してるじゃないか…ってね。
ああ、僕は彼女を恋しく思っているのか。そう、気付いたらとんでもない重みをもって、彼女と別れた日の記憶や虚しさが舞い戻ってきた。哀愁は少しだって払えてなんかいなかった。彼女が掛けてくれた鍵も、長い年月で錆び付いてたってところかな。結局僕は、知らない内に自分の中にあった想いを理解して思い知ったよ。

逢いたい。顔を見て、声が聞きたい。もっと、僕に備わっていないこの世のことを教えてほしい。そして、ずっと語り合わせてほしい。終わることなく、いつまでも傍に居座っていたい、って。
どれだけ年月を経ても引き摺るくらい、離れたくなかった。…本当に、好きだった。そう気付いた。酷く、胸なんてないはずなのに痛くて苦しくて、泣きたいような笑いたいような変な気持ちになったな、あの時は。
だってもう、別れて何百年も経った後の話なんだよ。勿論その時代に彼女が生きているわけもない。徳川に渡って何代も続いて、随分と長く飾り物でいた頃の話だから。
逢えるはずもないのに逢いたくて堪らないんだ。遣ってられないよね。また新しい絶望感を知ったけど、全然有り難くなかったよ。彼女に逢えるなら出会い頭に詰ってやりたいくらいだった。思い出も彼女も愛しいから、その分深い穴に突き落とされたみたいでさ。

話す刀なんて化け物みたいなものに、厭わず…それどころか、笑って接してくれるような人だった。
片寄った知識しかない僕に、人の身の事情をゆっくりと説いてくれた人だった。
武家の娘だったからかな…特別、心が強くて誇りを持っていて。年若くも聡明で、直向きで、自分に出来ることをいつも考えていた。自分を育てた家と、先の安寧のために時勢から目を逸らすことをしない人だった。
抱き締めて、連れて逃げたいと思ったのにね。どうしてその時に気付かなかったんだろう。自分でも呆れたよ。一言、気持ちを伝えることもできなくなってから気付くなんて、なんて馬鹿なんだろうって。

彼女があの後どうなったのかは知らないよ。知れる場所にいられなかったから、知らない。ただ、器量も悪くはなかったし、あの度量を気に入られて側室にって展開もあり得ない話じゃないと思う。
そうだったら、ちょっとだけ公やその世継ぎを恨んじゃいそうだから…知らなくて正解かな。うん、格好悪いけど、たった一人の恋しい人が誰かのものになるっていうのは、さすがに遣り切れない。僕の刃生でたった一度の恋だろうからね。
あれ、笑わないの? 笑えない…か。そっか…君の基準も中々難しいなぁ。まさか、馬鹿にしてなんかいないよ。笑ってくれてもよかったんだ。それだけのことで、他意はないよ。

それからは…そうだね。思いっきり後悔して、自分に呆れきって、最後には開き直るしかなくなったかな。どうしたって彼女への気持ちは消えないし、それでも彼女とは二度と逢えないし。閑散な日々が続いた。たまに後ろを振り返って、仕えてきた数々の人の顔の中に彼女のそれも混じってきて、嬉しいやら苦しいやら、感情を処理しきれなくて困ったりもした。
それでも、時間は常に流れるものでね。まだ夏の暑さを引き摺る季節に、そんな絶えない僕の葛藤にも終わりが来た。
覚えてるよ。地面から響き渡る唸り声にも似た音も、周囲の積荷が飛び出すように宙を舞った光景も、それに混じって自分の本体が地に打ち付けられる衝撃も。戦の世も遠い昔のことだし、何が起きたのかは判らなかったけどね。ただ何となく、死期を悟ったような…これで終わりかな、と思ったことも覚えてる。
何処からか上がった火の粉が保管庫に移ったんだろうね。呆気ないくらい簡単に、地を舐めるように火の手は強く広まった。きっと人の手は此処まで届かないだろうし、助けは望めないって気付いていても動揺はしなかったな。僕は刀で、自分の意思で動くことができないことはとっくの昔に思い知らされたことだったから。

だから、そんな危機的状況にも彼女の顔が浮かんだ。人を斬って戦場で活躍したことも少なくなかったのに、それより強く彼女の顔や与えられた言葉が浮かぶんだ。惚れ込みようには自分でも笑ったよ。
僕は、自分の終わる瞬間まで彼女を憶えていたからね。彼女こそ約束を守ってくれたのかな…って、そんなことばかり気になってしまって。
息を引き取るその瞬間まで、彼女が僕のことを忘れないでいてくれていたならいいな…なんて思った。手の届かない、遠い過去の話になるけど。そうだったら嬉しいな、ってね。

でも、本音はやっぱり彼女に逢いたかったから、逢いたいなぁ…って、熱や煙に巻かれながらずっと呟いてたよ。
現実で彼女と見えることはもうないから、現世に執着していたわけじゃなかったんだけどね。

結果的に、自分でも気付かない内に芽生えていた恋を、散らさずにいられたのはよかったと思ってる。苦しい思いも悲しい思いも寂しい思いもしたけど、彼女が教えて与えてくれたものは一つも無駄なものにはしたくないから。
僕は人じゃないどころかあやかしのようなものだったし、次の生なんて用意されないかもしれないけど。それでも、彼女と逢えた刃生を誇ったまま、追い掛けるように漸く眠りにつけると思えば、安らぐ気持ちすらしたんだ。
刀が彼岸の道を歩けるのかも、彼女にまた逢えるのかも分からなかったけど。あの別れが永遠の別れだったかもしれないし、どちらにしろあの日々は二度と還らないことは理解していたけど。

それでも、愛しかったんだ。肺が焼けるように痛んだけど。息ができなくなる瞬間も、実は何度もあったけど。
彼女との日々に後悔はない。辿り着く先で待っていてくれるとは限らなくても、追い掛ける以外の選択肢なんて僕にはなかった。

うん…とても、とても好きな人だったから。こんな気持ちを知れたのも、彼女のお陰だから。
僕は間違いなく誇りを持てる、幸せな刃生を送ったって言えるんだよ。




付喪神未満より巡り逢いて



成る程。燭台切光忠の知られざる半生とやらはよく分かった。
ついでに、彼の人格形成の一端も垣間見ることができたし、中々興味深くもあり惹き付けられるものもあった。

たった一人の女中に声を拾ってもらえたこと。それが幼い意識でいた彼に強く影響したこと。己を握る主人とはまた別枠で、その人を大切に想っていること。
片側を隠した瞳は、語り聞かせる間中穏やかな色を乗せて弛んでいた。
言葉通り、彼女に育まれた感受性をとても大事にしていることは、彼の表情や物腰を見れば疑いようもない。

いい恋をしたんだね、燭台切光忠は。
つられるように心を緩めながら、しかし…と私は首を傾げた。


「何で、こんな話になったんだっけ…?」


私、過去の経歴が聞きたいだなんて言った覚えはないんだけども。
少しばかりの傷を負って戦場から帰ってきた彼の手入れに時間を割く間、唐突に語り出された話に素直に耳を傾けてはいたけれど。最後までしっかり聞き終えても、私に語るだけの意図が掴めない。

単に話を聞いてほしいというだけなら、時間が許す限りはいくらでも聞いてあげられるけれど。それでも、燭台切自身はそこまで自分語りが好きなタイプでもないと思っていたから、何となく落ち着かない。
何かしらの理由がないとしっくり来ないな…と眉を寄せた私から、タイミングよく手入れの終わった本体を受け取った彼は、小さく笑った。


「君が、自分の手に残る痣を快く思っていないみたいだったから」

「痣…関係ある?」

「無いことはないかな」


すい、と。自然な動作で掬い上げられた私の右手には、確かに彼の言う通り、狭くない範囲で痣がある。
生まれた時から存在するらしい、葉のような形の斑点が、指先から手首に至って巻き付くように散らばっていた。

普段は袖で隠すようにしているそれも、手仕事をする場合は気遣っていられない。
手入れの最中にも、そういえば触れられたっけ。時に不気味さを感じる手の甲を、黒い手袋越しに撫で擦る指は少しも躊躇いがなく、優しかった。
そうだ、前後のやり取りを思い出した。汚いから普段は隠していたいのだと、私がそう言った後に、彼は唐突に過去語りを始めたのだ。


「生まれた時から身体にある傷っていうのは、前世から引き継いだものらしいから。歴史とか半生を表すものなんじゃないかな」

「前世でこんな痕が残るような怪我を負うことがあったっていうなら、私としては余計に怖いんですが」

「あはは、確かにそうだね。でも…怪我じゃないかもしれないよ?」

「怪我じゃないなら何になるの」

「呪いの印、とか」

「もっと怖いわ」


そんなちょっと楽しそうに言われても、当人は全然笑えませんからね?

眦を弛める燭台切にそう突っ込めば、悪気も何も感じていなさそうな態度で肩を竦めて返される。そんな仕種一つをとっても様になるのがイケメンというやつだ。
狡い男め…と軽く睨み上げる私を意に介せず、掴まえたままの痣だらけの手を持ち上げてくる。目元より少し上に持ってきて、その痣を仰いだ彼の口角が上がったのが窺えた。

呪いと言ってもさ、と。囁くような声はどこか喜色が滲む。


「もしかしたら、誰かが君の前世に知らぬ間に恋をしたのかもしれない。離れたくなくて、もう一度逢いたくて、無意識に目印を刻み込んでしまったのかもしれないよ?」

「……は?」

「なのに本気で快く思われていないとなると、それはもう格好悪く悄気返ってしまうだろうね」


だから、可愛い呪いだと思ってあげてほしいな。

一度だけ、痣に頬を当てて伏せられた瞳が熱っぽい色に揺れる。
その様を呆然と見つめて固まった。
まさか、それって。そんな。馬鹿な。


「しょっ…」

「なんて、ね」


何か、言わなければならない気がするのに、いっぱいいっぱいになった頭では相応しい言葉がすぐには出てこない。
混乱の中、息を詰めて身を強張らせていた私の手をぱっと離した燭台切を見上げれば、いつもと変わらない格好よくて優しいお兄さんの顔に戻っていた。

へっ?、と、また間抜けな声を上げてしまった私の頭を撫でながら、手入れ中身を預けていた台から腰を上げる。


「さて、結構時間を割いちゃったね。夕餉の仕度は急がないと間に合わないかもしれないな」

「あ、え…うん。えと…手伝う?」

「いいのかい? そうしてくれると助かるけど」

「私も、お腹空くし」

「そう。なら、一緒に作ろうか」

「…うん」


いや。うん、じゃないわ。え? 何このあっさり加減。
頷いてから自分にツッコミを入れてしまう。もしや私は、からかわれたのだろうか。

狼狽える私を促す手に従って立ち上がると、また右手が浚われる。ごく自然に手を引かれると、何故だか緊張してしまった。別に、手を握られたくらいで今更驚くようなこともないはずなのに。


「人は柵が多いけど、肉の身は便利だよね」

「そう…かな?」

「少なからず縛りはあるけど、自分の意思で動けるっていうのはやっぱりいいよ」


少し前を歩く背中から機嫌のいい声が発せられる。屋敷内で手を繋いで歩く意味があるのか、戸惑ったけれど、燭台切が嬉しそうなのでそのまま預けておくことにした。

確かに、幾ら元が刀でも、意思があれば動けないのは退屈するんだろう。心が死んでいく、とは何処かの真っ白な太刀も口にしていたことだ。


「燭台切、今は楽しい?」


戦乱に身を置きながら言う言葉ではないが、ふと訊ねてみたくなった。彼の過去の話を聞いてしまったからだろうか。
振り向いた、軽く瞠られた瞳とぶつかる。その金色が暗闇の中でも損なわれず輝くことを、知っている。つくづく人の域を超えた存在だと思い知るけれど、畏怖よりも親しみを感じるようになったのは、割合早い時期からだった。
多分、それも彼の人柄のお陰だ。

私の疑問に目を丸くした燭台切は、すぐに瞳の色を蕩けさせて端整な顔を綻ばせた。
そうだね、と。甘ったるい笑みを溢す。


「僕は、幸せだよ」


果たして本当に、私はからかわれただけだったのだろうか。握られる手に込められた力は強く、伝わる熱はじわじわと肌から身体に染み込んでいく。
呪いがあるならこの瞬間にも、その力は増しているような気がしてならない。いつまでも離れない手を見下ろせば、見慣れた痣が色を濃くしたような錯覚を覚えた。

20150421.
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