審神者同士の交流手段が増えつつある今日。久々に本丸全体の休暇をとってはみたが、やりたいことも見付からず暇を持て余していた私は、ついつい政府から与えられている端末を引き寄せてしまった。因みに、誰かに暇潰しに付き合ってもらうという考えは一瞬だって浮かばなかった。折角の休みにはできれば女らしく過ごしたいのだ。



「寝間着のまま寝転がって端末を弄っても燭台切に怒られないお休みってマーベラス!」



仕事休みにはパジャマで昼まで惰眠を貪り、気の向くままに間食し、勿論メイク道具に向き合う必要もないのでひたすら趣味に没頭する。
嗚呼なんて女らしい休日の予定だろう! 男と関わらなくていい日は楽だなぁ!
と、内心高笑いしながら、たまにしか開かない審神者番号で取得できるアカウント(通称:さにったー)を表示させる。
暫く呟いてなかったなぁと流れている他人の呟きを鼻唄でも歌いながら目で追っていた私は、しかし、とある審神者の引っ張ってきたリンクを見付けて指を止めた。

そのリンクの文字並びには、見覚えがあった。
審神者としての役割に就いて粗方の仕事の熟し方を覚える頃、審神者同士の情報交換にも使用できるとのことで紹介された掲示板。実際、仕事中にもかなりお世話になっている場所のリンクと、共に並ぶ不穏な見出しに自然と眉が寄る。

政府の稼動するイントラネット下にあるアカウントや掲示板なので、これらの検閲は避けられないものと言っていい。審神者と刀剣に関する良からぬ噂が流されることもあれば、それが本丸の正常運行に繋がることも知っている。
勿論、それだけを狙った設備でもないことも分かりきっている。立てられるスレッドは不穏なものばかりというわけでもないし、刀剣達の上に立つ立場である審神者の悩みや愚痴の溢し処として、ストレス発散やに一役買っている場でもあるのだ。

有力情報を得やすい審神者専用の情報掲示板は、私も仕事中でも開くことがある。資源調達や敵の情報、刀装における資源の配分や刀剣達とのコミュニケーションにおける相談事エトセトラ……とにかく真面目にお世話になりっぱなしの掲示板、なのだが。



『神隠しってガチで起こり得るの?』



そのリンクに連なる不穏な呟きは、何なんだ。

ヤバイね、怖いね、という共通フォロワーの返信まで確認して、私は真顔になった。いや、ヤバいとか怖いとかそんな言葉で片付けていい情報でないんでないかな、それ。
スレッドによっては刀剣達と過ごす日々の微笑ましい報告、笑い話も数多く存在するその掲示板。本当にたまに、審神者をヒヤッとさせる情報が飛び出したりするから恐ろしい。
政府側は問題の早期発見に繋がるので対処しやすいだろうが、現場の私達は渦中に近いところに腰を据えているわけで、笑えないことも多くある。
今回リンクされていたそのスレッドは、知らぬ間に近侍の付喪神より神気を注がれていたらしい少女審神者から次第に本丸に移り住む前の記憶が欠けてきた……という、本人によるリアルタイム実況スレッドだった。

好奇心は、猫どころか人も殺せる。
最後の最後、『だめだ、もう名前が思い出せない』という切実さと諦めの滲み出る書き込みをして以降上がってこなかった彼女は、その後は一体どうなってしまったのだろうか。政府からの救援が間に合ったのか、それとも……想像するだに怖すぎる。
冷や汗の滲む背中に、張り付いたインナーが気持ち悪い。頭を振って、大きな溜息を一つ。平常心を取り戻そうと胸を撫で、気を取り直して顔を上げた。



「こっっっっわ!!」



釣りかもしれないけど怖いわ!!

自室に他に誰もいないのをいいことに、思いきり叫んでしまった。が、今日は近侍も置いていないから誰かが駆けつけてくる心配もない。それだけは安心だ。
呼吸を整えながらそっとブラウザを閉じ、静かに頭を抱える。さにったーで軽く笑い飛ばしていた彼や彼女らには、どうにも私はついていけそうもなかった。同じテンションで楽観視する気には到底なれない。
知らない内に人間からかけ離れていたとか、家族や友人だけならともかく自分のことまで忘れるとか…怖すぎわろ…えないわ。いや、だから、わろえないよね……!? そんなことあるんだーきゃははヤバーい的な反応ができる面々が信じられない。完全なる他人事でもないだろうに…!!

見るんじゃなかった。いや、逆に、見付けられてよかったのだろうか。保身は大事だ。万が一がある。
元から刀剣男士は、顕現させた審神者に好意的な者が多い。そうでなくとも時間を重ねて此方から気を配って接していけば、心を開いて信頼を深めてくれる。人に使われたこともある付喪神だからか、神の末席、あやかしに属する者達であっても、心から仕えれば応えてくれる性分を彼らは持っていた。
つまり、仲良くなろうとすれば基本的には仲良くなれるものなのだ。あっちの意味でもそっちの意味でも、あはんうふんな感じにも仲良くすることは可能らしい。
合意の上なら採り上げられることもないとも聞いた。色々と危険も出てくると言うし、私は一線は越えたくない派だから実際どうなのかまではよく知らないけれど。ただ、うちにも全く問題がないとも言えないことは分かっていた。
誤解のないように言っておくが、彼らの中の誰かと所謂オトナな関係に至ったりといったことは一切ない。ただ、同じ屋敷で暮らすのに、神と人間という垣根はあっても気まずい関係にはなりたくない……という気持ちだけは、初期から変わらず持ち続けていて。
その主張を突き通した結果、どの刀剣も分け隔てなく構って構って構い倒した私の本丸は、私だけでなく彼らの間にも比較的明るい空気が漂っていたりするのである。

多分、恐らくだが、それらの行動も本丸の現状も、どちらかと言えば良いことだと思っている。少なくとも居心地は悪くない居住地になっているはずだ。快適に過ごせる空間、大事。リラクゼーション、超大事。
一人は皆のために、皆は一人のために。お互いの言い分にきちんと耳を傾けることを忘れず、先走りは禁物で。そんなモットーを掲げて作り上げたのが我が本丸だ。そこに住まう彼らの間の仲が悪くなるはずがなければ、主たる私が好かれていないはずもなく。
たとえ私が主たる審神者として頼りにされていなくても。
おはようから始まり、三色おやつ付きだよと世話を焼かれ、おやすみまで見守られっぱなしでも。
仕掛けられた悪戯に嵌まって笑い者にされることがあっても。
……こう、ぶっちゃけると、確実に尊敬してもらえてはいないだろうが、家族らしい感情でなら大事にされている自信があった。これは自惚れでも何でもないと思う。

さて、ここで確かめてみよう。ここまでの自分の働きを振り返り、スレッド内容の神隠しを行う所以に目を向ける。
よくよく思い出せば笑ってもいられないということが、自然と理解できよう。目眩を感じて目元を覆った。
愛着の形は様々だ。人も神も、その点は大差ない。
つまり…だ。恋情でなければワンチャンあるよ!、なんてことは誰にも保証できないのだ。
事実、一言たりとそのような書き込みは見付からなかった。これは本気で、わりとまずい。

恐怖の淵から顔を上げ、悟ってしまった私は、まずは寝間着から外を歩ける格好へと着替えることにした。
顔を洗い、見苦しくない程度のメイクを施し、深呼吸を三度。緊張を振り払ってから、部屋を出る。正直、半分以上衝動に駆られての行動だった。が、風邪でも人間関係でも早めの対処が大事だとも思う。そもそもあんな情報を見てしまったのだ。休んでいられるような心境じゃない。

それらしいフラグは、既に幾つか建築されている気がした。考えたくはないけれど、ここで考えずに放置してしまうと隠された少女の二の舞にもなり兼ねないので、考えないわけにもいかない。
仲間を疑いたくはないが、相手は人外で人間の常識で縛れない位置に腰を据える者達だ。怖いものは怖い。彼らを信頼しても信用しすぎるなとは、事あるごとに政府側が口を酸っぱくして注意を促していることでもあった。
しかし、記憶に残っているフラグならともかく、忘れているものまで片っ端から折っていくというのは当然無理があるわけで…。
何とか冷静さを保ちながら下した結論に眉間にシワを寄せる。難しい。が、諦観するにはまだ早いと頭を切り替えた。

今更、全てのフラグを折ることは不可能だ。それを前提にして次に閃いたのは、寧ろ視点を変えてフラグを先取りしてしまえばいいのでは…という案だった。
今まで建設してきた好意を抱かれるフラグを折ることはできない。それならば、その好意が行き過ぎた執心に向かわないようなフラグを立て直せばいい。
押すな押すなの法則の逆バージョンだ。押すなと言われれば押してしまうスイッチも、押せと唆されると途端に躊躇ってしまうものがあるだろう。その手の天の邪鬼的な感情からは、人間の身を持ってしては逃れられないもの…性というものだ。恐らく、人の身を得た彼らにとっても変わらないはず。



「わっ!」

「…というわけで、執行No.01は君に決めた、鶴丸国永!」



いざ!、と向き合うのは、タイミングよく縁側の屋根から逆さにぶら下がってきた全身白装束の刀剣男士だ。
どうやって半身を固定していたのかは謎だが、私が話し掛けるや否や体勢を整えて軽やかに着地してみせた鶴丸国永は、ぱちくりと瞳を瞬かせた。いつもならば反応が薄いと不満を溢すこの刀は、此方から話題を振ると興味津々で食い付いてくるから、こんな時だけは助かる。



「おお? どうした主、また俺の驚く何かしらを思い付いたのかい?」

「私が何かやらかす前提の言い方やめい。…ってのは今はどうでもよくて」



お前は曲芸師でも目指してるのか、という突っ込みも横に置いておく。
こほん、と咳払いをして仕切り直しだ。少しばかり緊張で動悸を速めている胸を押さえながら、不思議そうに此方を見つめてくる鶴丸と向き合った。



「その、あの…ね? えっと……」

「…何だ、急にしおらしい顔になって。粗相でもしたのか? 謝罪相手が相手でなければ付き合ってやらんこともないぜ」

「だから何もやらかしてないっていうか話は最後まで聞けよ」

「ははっ、すまんすまん!」



けらけらと笑う男に、ついつい拳を堅めそうになるのをぐっと堪える。
これがイケメンでなければ一発くらい殴…るとまではいかないけど、肩くらいは叩いてるぞ。自分の容姿の良さに感謝しろ。いや寧ろ顔面が吹っ飛べば叩くこともできるんだから、吹っ飛んだ方が都合はいいのだろうか。
ううん、それでもこの美貌が損なわれるのは素直に惜しいな……なんて思考を飛ばしている内に充分に笑い終えたらしい男が姿勢を正した。黙っていれば雪のように儚げなイケメンだが、急に大人しくなられてもそれはそれで不気味だから、鶴丸国永は今のままでいいのだろう。



「で? 執行が何とか聞こえたが、結局のところ何用なんだ?」

「ああ、そうだった…えっとね、一つ確かめたいことがあるんだけど」

「ほう。的を絞ったところを見ると、個人的な調査か何かか」

「そう、個人的なことなんだけど。鶴丸って、私のこと……好きだよね?」

「ん?」



ひゅるり。不自然に通り過ぎる風を感じた。
数拍の沈黙が、微妙に滑ったことを知らせてくれる。いや、滑るべきところだから本当はもっと盛大に滑っておきたかったのだけれど。この男相手では細かい配慮が無に帰す可能性も高いから、まぁこれでいいだろう。
好きだよね、と大きな括りで断定的に訊ねられれば、人は答えを細かに分類し、その内のどこかしらを否定したくなることが多い。その対象が人間であれば尚更だ。神の眷属がちっぽけな小娘一人に全幅の親愛を向けるとは思えない。
何処かしら、少しでも綻べばいいのだ。彼ら側の崖に向かわない道にフラグを立てられれば、そこから言質を取って転がる道を自分で定められる。

これで勝つる…!、という確信と共に内心ガッツポーズをとった時、まん丸に見開かれていた黄玉が一度ぱちりと目蓋で隠されて、また姿を現す。



「いやいや……こりゃ驚いた。ばれていたか」

「まぁそうだよね弱点も欠点もある大して可愛げもない私なんて好きなわけ……待って今何つった?」

「君のことを好いているとばれていたか、と」

「はぁん?」



思わず声が濁ってしまったのも仕方がないことだと思う。
君が言ったんだろう?、と肩を竦めながらも笑みを型どる美貌に、私の頬は一瞬にして引き攣った。快哉を上げようとしていた心が一気に冷え込む。
この男、分かってて言っているのか無意識なのか、どっちだ。いや、どっちであっても結果が同じでは大して意味がないけれど!



「……な、に、を、初っ端から肯定してくれてんのあんたは!? 逆フラグだよ! そんなわけないだろ自惚れるなって言ってバッキリ折れよ!!」

「おいおい…その反応は予想外だぜ。因みに、先の物問いは誰にやっても返事は変わらないからやめといた方がいい」

「くっそおおおお!!」



押せって言われたら爆弾のスイッチでも喜んで押すのが刀剣男士ですかそうですか!
素直だったり忠誠心に厚い面々は確かに、私の言うこと一つ一つに頷きそうな気はしなくもないけど……全員だと!?

衝動に任せて揺さぶってみても、何が楽しいのか鶴丸は声を上げて笑い出す。がくがくと前後に揺さぶられながらも発言を撤回する気のない相手の様子に、失敗したショックと単純に腕力の足りなさで段々と疲れてきた私は思いっきり項垂れた。それでも鶴丸は笑っている。とても悔しく憎たらしい。
羽織の襟元を握り締めたままの手に、重ねるように置かれた見た目よりごつごつとした男のそれ。動作だけは優しげなものだが、騙されない。恨みがましく睨み上げる私を見下ろす鶴丸の顔は、それは愉快げに弛んだままなのだ。



「はははっ、いや、悪いな。それで? こりゃあ何の遊びだったんだ?」

「遊びじゃねぇよぉ…私の行く末をかけた闘いだよぉ…」

「ほお、大層な言い方だなぁ。よくは解らんが、どうしたんだ。君らしくもなく落ち込んだ顔じゃないか。そんなに俺の想いは迷惑かい」

「落ち込んでるっていうか……いや、想いってのも何か…あああああ……」



好かれるのは素直に嬉しい。私だって彼らが好きだから、ある意味両思いで幸せなことだろう。
ただ、問題はその好意の深さにある。人であれば、人一人を囲って隠し込んでしまうことは不可能に近い。理性や常識、環境を捨てれば別かもしれないが、それだけのものを失わないと成し遂げられないようなことも、神様なら悩む間もなく容易く出来てしまうのだ。

困った。そう出来た人間でもない、特別功績を立ててきたわけでもない私なのに、“好き”の後に“だけど”と否定の句が続かないとは。うちの神様方は微妙な趣味をしているというか…寛大なのか。深く深く溜息を吐き出していると、楽しげな笑顔から一転優しげなものに表情を変えていく男が視界に入って、舌打ちしたくなった。
黙って微笑むと本当に絵になるな、このギャップ萌えの宝庫め。年頃の乙女なら胸をときめかせる場面なのかもしれないが、どうにもイラッとしてしまうのは美しいだけで終わらない中身をよくよく知っているためだろう。今は、全く悪気はなさそうだけれども。



「何か悩んでるようだが、俺もそれなりに歳は食ってるからな。話して聞かせてくれれば、少しは役立つ助言もできるかもしれないぜ」

「…………いや、まぁ……でもなぁ」

「俺はいつでも君の役に立ちたいんだがなぁ」

「それは疑ってないけど」



心を砕いてくれているのは分かる。私が本気で困っているのに、笑い物にするほど意地の悪い男ではない。日常的に驚き厨でも戦場で狂戦士化しても、ある程度の良識は弁えているのが私の知る鶴丸国永だ。
しかし、だ。「神隠しに遭いたくないんだけどどうしたらいい?」なんて、そうする可能性のある神様相手に明かす馬鹿がいるだろうか。いないだろう普通。いたとしたらとんでもない間抜けであるに違いない。最初から神隠し待ったなしだわ、諦めろ。
至近距離にある顔はイケメンだらけの本丸内でも上位に食い込む麗しいものなわけで、優しい声で促されてしまうと私でもちょっとはぐらついてしまわなくもないが。それでも、言えないものは言えない。きゅっと結んだ唇を見た、鶴丸の目が眇められる。



「おいおい、本当にどうしたんだ」

「…いえ特に何も」

「なくはないだろう。君が本気で悩んでるのに揶揄するほど、俺も悪趣味じゃないぜ」

「いや、うん。知ってるよ。大事にされてるのも分かってる。有り難いし、私もみんなのことは好きなんだけど…」

「どうも行き違ってるな。今君を心配しているのはこの鶴丸国永一口きりなんだが…俺は君を慕っていると言った。恋い焦がれるという意味だと理解しているか?」

「…うぇっ?」

「君に、愛慕の情があるという意味だ」



大事なことなので強調しました、ってか。いや、これは巫山戯ている場合じゃない。じい、と見つめてくる眼差しは熱が籠もるというよりは、探るようなものだ。
そう、探っている。私が理解していないと、疑っているのだろう。実際、私は目の前の鶴丸が何を言っているのか咄嗟には解らなかった。
こいこがれ? あいぼ? すぐには漢字変換出来なかった音の並びをゆっくりと噛み締めてみると、心臓がぎゅっと引き絞られる。ガンガンと、迫る危機を知らせるように身体の内側から石でも打ち付けているような音が響いてくる。



「そ…それ、は……」



あれ、これ、本当にまずいんじゃないか。
数秒をかけて言わんとすることを理解した瞬間に、神隠しの三文字がどすん、と頭の上から落ちてくる。足の先から徐々に石化していく感覚に、冷や汗が流れる。
そうして身動きが取れなくなった私を覗き込む、二つの黄玉が何かを悟ったように弛んだ。



「おっと…今のは核心にも迫ったか?」

「っ…!」

「君は顔に出るからいいな。喜ぶでも戸惑うでもなく怯えてるところを見ると…恋慕を受け付けたくなかった、というところか」

「くっ……」



食えない爺過ぎる何こいつ怖い。
息を詰めて震えてしまった自分を叱りつけたいが、そんな余裕もない。無言は肯定と同じだ。けれど、ここまで悟られて誤魔化しきるのも難しい。ついでに口も回りそうにない。
既に力の抜けてしまった手は真っ白な襟元から離れているのに、それを掴む男の力は段々と増してくるようでくらりと目眩に襲われた。

誰か嘘だと言ってほしい。審神者になるまで、平凡にして目立たず地味な生活を心掛けてきたおかげでモテ期なんて来たことがなかった。つまり、残念なことにその類の事情とは生まれて此の方無縁だったわけだが、これを機に一生来なくても構わないから発言を取り消してもらえないだろうかと頭を抱える。
もらえないよな…神の言霊ほど絶対的なものもないもんな……。



「君が俺を怖がる理由はないから、気に掛かるのは先行きか……掴めてきたぜ」



そんな楽しげに笑われても。こっちは寒気しか襲ってこないんですけど。
にやりと唇を歪める男の顔はどれだけ歪んでも美しいものだ。腹立たしいことこの上ないが、今はそんな思考も軽く二本程度の指で摘み取られてしまう。



「君は、必要以上に愛されたくなかったんだな?」

「…………あー……もう」

「おっ、降参か?」



もう、嫌だ。疲れた。平安時代から生き存えて人を見てきたような刀に、齢二十余年の小娘が太刀打ちできるはずがなかったのだ。太刀だけに。いや、全然笑えないけれど。
これ以上堪えても尋問が続くだけだと予測できた流れに、一気にぐったりと力が抜けていくのが分かった。



「もうやだ…こいつ追い込むような真似する…もうやだ……」

「君を好いているからな。仕方ない」

「好きなら普通優しくしない…?」

「優しく、ねぇ…させてくれる相手だったら俺もいくらでもそうするが」



確実に、苛められている気がする。現状を切り抜ける術が浮かばなくなった頭を左右に振って嘆けば、掴まれたままの手に押し当てるように、徐に形のいい唇が寄せられる。



「優しくする前に逃げるような相手じゃあ、まずは捕まえなければ話にならないな」



ぎっ、と引き攣った喉から悲鳴が出なかったのが救いだった。
ガチガチに固まってしまっている私を流し目で見てくる男は、確実に此方の動揺を悟りながら楽しんでいる。
羞恥心なんだかときめきなんだかひたすら恐怖でしかないんだか。視線さえ逸らすことを許さないような目付きに、鳥肌さえ立ちそうだ。何だこれ。本当、わけが解らなくなってきた。



「鶴丸、は…もっと…執着が薄いと思ってた」

「ああ。そりゃああらゆる人の手に渡り、長らく転々としてきたからな。奇禍に奇縁に恵まれ彼岸まで垣間見ておいて、生き残った刀なんざそうそういない」



今、目の前で私の手に唇を寄せているのは、本当に鶴丸国永なのか。
渇いて掠れそうになる喉から必死に押し出した言葉に、くっくっと肩を揺らして笑う男が、小娘一人にそこまで執心するとは夢にも思っていなかった。だって、そうだろう。何時だって飄々としていて主を敬うこともない、流れるままその時を楽しもうとするような刀の性質を私はよく知っている。
新手のドッキリだと言われた方がまだ納得できる。驚いたか?、と、いつものように声を上げて笑い出してくれれば今なら素直に驚いたと返せるし、怒りよりも安堵が湧くはずだ。



「“だから平気だ”と、君は思ったんだな?」



なのに、私を捕まえている男は幾ら待っても種明かしに入ってくれない。
それどころか、震える手先を慈しむように目線を落とし、触れたままの唇を滑らせる。甲に、指に、間接に。先までいって戻ってきたそれが、今度は手首に。じわじわと自分の領域を広げていくような行為に、気道を塞がれていくような感覚に襲われた。

逃げ道が、塞がれていく。



「だがなぁ、甘いぜ。考えてもみろ。姿も声も届かずに退屈で腐りそうだったところを、人の形にして温もりまで教え込んだ。只の物であった俺を、君は物以上に想って心を傾けた。間違いなく心を砕いてくれただろう」

「そ、それはだって…審神者だから。鶴丸だけに、そうだったわけじゃ」

「ああ、勿論だ。君がこの屋敷の全員に等しく情をかけていることは分かっている。分かっているから誰も彼も堪らなくなるというわけだ」



誰もって誰だ。何時の間にそんな意味で複数名に好かれていたんだ。そんな態度、誰一人として見せたことなかったじゃないか。
自然の摂理を子に説く親のような言い様なのに、指摘して茶化すこともできない。突っ込みたいのにうまいこと動いてくれない口に、ぐうう、と唸ることしか私にはできなかった。



「俺は刀だからな。一々個人に執着してたら肩は凝るし、切れ味も鈍るってもんだ。“物”であれば心は然程痛まない。だから君の言い分も大凡は間違っていない。現に、過去を懐かしんでも戻りたいと願わない程度には平気なものさ」



そう、万物流転という言葉を、誰よりその身で体感してきたであろうはずの一口。鶴丸国永とは、そういう刀であったはずだ。
そもそも刀は使われてこそ刀たり得るというもの。大昔から存在しておいて己を振るう手の主に一々拘っていたら埒が明かないだろう。それを体現するように、主人の善し悪しや好みはあっても、何時だってこの刀が最も求めているのは驚き一択だった。自分を腐らせないための刺激さえあれば、それこそ鳥の名を冠しているように、何処へなりと飛んでいけるものだと……

思って、いたのだけれど。



「だが、今までの主は君とは別人だ。既に喪ったものを懐かしむことはあっても、惜しむ意味はない……が、今の主である君は、今俺の目の前にいるわけだ」



見据えてくる黄玉に、囁かれる声に言葉に、何を言い返せばいいのか判らなくなる。
白い着物を飾る金の鎖の先が、此方の心臓に伸びてくるような錯覚に襲われた。生き物じゃないんだから、と自分を励ましてみても、石になった足は自分のものでなくなったかのように言うことを聞いてくれない。

今、絶対、情けない顔をしている気がする。藪をつついて蛇を出したことは、とっくに理解していた。
時間が戻せるなら部屋を出る前に戻って引き籠もってしまいたい。歴史修正したい、なんて審神者にあるまじき弱音が溢れ出る。こんな時、どんな対処に走ればいいのか分からないんだ……。
それに対して、弱腰になる私を追い詰める白尽くめの男の上機嫌な様子と言ったら、ない。とんだ無慈悲な神もいたものだ。私なんて、既に涙が滲みかけているというのに。こいつ絶対私を苛めて楽しんでやがる、と改めて確信した。許せない。けれど、勝てないし逃げられもしないから、ひたすら這い上がってくる恐怖に耐えるしかない。
途轍もない美形に迫られて胸キュン、とかいうのは物語のだけの話だとよく解った。色事に詳しい年頃の女子なら話は別なのかもしれないけれど、少なくとも私の心臓が早鐘を打っているのは全く可愛くない動揺が理由だ。
いや、掴まれた手に恭しく口付けられ続けている、そのこと自体に気恥ずかしさはあるのだ。あるのだけれど…日頃から女らしい扱いなんて受け慣れていない所為で、気持ちが追い付いていかない。どうしてこんな展開になってしまったのかと、目を回して混乱するしかない。恥ずかしいとか嬉しいとかいう感情より、ただただわけが解らなかった。そしてそんな自分が女としても終わっている気がした。

多分恐らく、今尚私はフラグをへし折り続けているはずだ。目の前の男が全くと言っていいほど意に介していない所為で、誤魔化されているが。
意識の全部が鶴丸に集中させられている時点で、相手の思惑に嵌っているのかもしれない。それだけで、この男にとっては充分だということか。



「なあ、解るか? 今の俺には姿が、声が、身体があるんだ。そして主とは言え非力な君は、生きて目の前にいる」



どうすると思う? どうしたいと思っていると、思う?

弦が弛むように、宝石の粒のような瞳が細まる。最初から、私の答えは期待していなかったのだろう。そう時間を置かずに、つまりはな、と男は得意げに続けた。



「この鶴丸国永に言を語る口や伸ばせる手を作ってしまった、君の敗けだということさ」



にたり。悪戯の成功した子供のような無邪気さを装い、勝利宣言を下す付喪神の無慈悲さに打ち拉がれる。ここまで言われてしまえば、フラグも何もない。どう見積もっても詰みだ。
諦めが芽生えると同時に緊張が解けて、脱力した。足腰から力が抜けて崩れ落ちそうになったところ、今の今まで離さなかった手を解放した男が代わりのように腰を引き寄せてくる。倒れ込まずに済んだことはありがたいが、余計に近付いた距離にうああ、と意味を成さない声が漏れた。つらい。一気に積み重なって襲い掛かってきた負担に押し潰されそう。この上なくつらい。



「おっと。どうした、驚きすぎたか?」

「……驚き…? 絶望の間違いじゃないですかね……」



どうしてこうなったんだろうなぁ…と遠い目をしてみるも、視界に入り込むのは眩しいほどの白、白、白オンリー。最早姿勢を正す気も起きず、引き寄せられたままぐったりと着物の肩にもたれ掛かる。
平均体型の女一人、きっちりと支える男は僅かもぐらつかない。畜生見た目は細いくせに、と心の中で悪態を吐いた。



「絶望とは、また言ってくれるなぁ。君だってそこまで俺を嫌ってはいないだろ」

「…正直に言えば拒否感はないよ。好かれるのは素直に嬉しい、けど、さぁ……」



イケメンの神様方に愛されて夜はぐっすり眠れているわけなら、今のところは特に問題はない。今のところは。そう、今だけならば。今後どうなるのかが問題なのだ。



「敗け、って言ったし。つまりそういうことでしょ…察するに、私もう帰れなくなるんでしょ」

「何だ、そんなことで悩んでたのか? それこそ今更と思うがなぁ」

「んんえ?」



そんなことって。今更って。当然の事実を確認されて驚いたかのような反応に、突っ伏していた顔を持ち上げてほんの少しだけずらしてみる。今まで過ごしてきて一番近くで、ぱちりと視線が合った。
どんなイケメンも近付きすぎれば全貌が見えないと油断していたが、そうだ、この黄玉も綺麗なんだった。どきりと、今になって鳴いた胸を誤魔化したくて睨み付ければ、訝しまれていると分かったらしい鶴丸は珍しく丁寧に解説してくれた。



「付喪神と言えど俺達も神には違いないからな。審神者は俺達を随えるための主にして、差し出された供物でもある。一度貰い受けたものを返す奴なんてそうそういないぜ」

「……マジかよ」

「上から何も知らされてなかったのかい。こいつは驚きだな」



聞いてねぇよ。生きて帰れる保証がないとか何とかは、半ば強制的だった契約時に頷かされてはいたけれども。一度関われば元の世界には帰れませんよ、とまでは誰も言ってなかったよ。
というかそれ、本当なら結構大事な条件項目じゃありませんか。あれか。生きて帰れるかも分からないんだから命あるだけ万々歳だろってことか。何それ政府ブラック過ぎわろえない。

薄々気付いてはいたけれど、最初から捨て駒扱いか…と涙がちょちょぎれる。審神者にも代わりは幾らでもいる。分かっちゃいたけどやるせない。
絶望に染まる私を見下ろしながら、よしよし可哀想になぁ、と頭を撫でてくる男につい泣きついてしまいたくなったが、忘れてはいけない。こいつも元凶の一端であることを。寧ろ、こいつらが引き留めず私が任期を終えられれば元の世界に戻れるはずなのだ。そうしたくて足掻いた結果がこれだけれども!



「そう悲観するな。ここの暮らしだって悪くはないだろ? 君を害するような奴もいないぜ」

「そうじゃない…そこじゃなくて……ここが嫌とかあんた達が嫌とか帰れないのが嫌とか何とかより、怖いんだよ」

「怖い?」



きょとん、と目を瞠る鶴丸は私の言葉の意味が解らないらしい。まぁ、きちんと話して聞かせてないのだから仕方ないことだ。
心も体も、色々と疲れ切って諦めの境地に至りつつある私は、まず初めにどうして今になって自分から嗾けたのか、その理由をゆるゆると吐露する。

目覚めた後、暇を持て余して審神者の交流所を覗いてみたこと。そこに不穏な情報が並べられていたこと。一人の審神者の少女が何時の間にやら近侍に神気を注ぎ込まれ、名まで奪われていたこと。最終的には人として過ごした記憶まで消され、神隠しに遭ってしまったかもしれないこと。
掻い摘んで説明する間にも、何度か震え上がりそうになった。その度にあやすように背中を撫でる手に慰められた。が、私は忘れてはいない。こいつも恐怖の元凶の一端だということを。
優しく接していても、内心何を考え企んでいるのかは分からないものだ。それは、人間も神も同じことだけれど。頼ることと疑わないことは同義ではない。



「私は…何より、何も忘れたくない」

「ふぅむ」

「自分の名前もこれまでの思い出も、なくしたくない。過去の思い出も経験もなくしたら、それは多分私じゃないものになる。私じゃないものが私の顔してあんたらに寄生して生きていくなんて…考えただけで怖い。気持ち悪すぎる」

「成る程な」



解っているんだか、いないんだか。頷いて相槌を打ってくれる鶴丸に危険な雰囲気は漂わないが、食えない爺だとはつい先程思ったことだから油断はできない。既に殆ど捕まっている状態であっても、話ができる内は異を唱えさせてほしい。



「たとえば…私を形成する思い出もなくした、私じゃない私が万一鶴丸を好きになったとしても、鶴丸はどうなの。別人みたいになった私を好きでいるの?」



だとしたら、それは何だか…すごく嫌というか、気に食わない。私じゃない人間が、私に向けられる、私の大事な存在達からの気持ちを独占するのは気色が悪い。想像するだに虫唾が走る。

ぶっちゃけると…現世と、呼ぶべきなのか。元いた時代に帰れなくなるのは、まぁ仕方ないかと納得できないことではないのだ。審神者としての素質を見出されて政府の要請を受けてしまった時点で、危険性も承知の上。命を捨てるような覚悟はできそうになかったから、とにかく生き延びることを最優先に考えようと決めたのは、もう幾年も前のことになる。

けれど、自分を捨てる覚悟まではできそうにない。
供物、とは生け贄みたいなものだろう。餌でしかない存在が望むには我儘が過ぎるかもしれないが、嫌なものは嫌だ。言える内に言っておきたい。今のところはまだ、私は彼らの主でもある。



「君じゃない君ねぇ…どうにも想像がつかないが」



一体どんな反応が返されるのか…顔を伏せながら待っていると、ふう、と一つ溜息を吐き出した鶴丸が首を傾けたようだった。



「その、君が君じゃなくなる日が来なければいいんだな? だったら、自分の意思で頷けばいいじゃないか。手間も掛からず話も早い」

「……どういう、意味?」

「我が主は賢く思い切りもいいものだ。ごねるなら強硬手段も有りかとは思うが、俺だって君を不幸にしたいわけではないからな」

「は…はい?…ちょっと待って。何言ってるか解らない。もうちょっと分かりやすく噛み砕いて」

「帰らなくても構わないと言うなら、そのまま何時までも此処にいればいいだろ。君は君のまま何も失う必要はない。留まってくれさえすれば、一先ずは俺達もそれでいいということさ」

「……え?」



できるのか。そんなことが。
神隠しという不穏な単語を突き詰めていたはずが、随分と都合のいい条件を並べられて、唖然としてしまう。あっさりと、何も心配は要らないかのように語る鶴丸に頷いてしまいかけて、いや信じるには未だ早い、と慌てて首を横に振った。
危なかった。迂闊だった。美味しい話には罠があるのが条理というものだ。



「そ、そう言って無理矢理私を本丸に縛り付けるつもりで」

「帰れなくても諦めは付くと言わなかったか?」

「え、あ、はい。帰れないってだけなら…あと、今後も普通に生活できれば」

「そら、大して気になる点は出ないだろ。これでどうして強制する必要があるんだ?」

「……ない…かな?」

「決まりだな」

「んんん?」



待って。ちょっと待ってほしい。こんなぽんぽん進めるような話じゃないはずだ。
とてもいい笑顔で言質を取ってくる男に、またも目が回りそうになる。言いくるめられて引き摺られそうな頭を動かして、何かしらの問題がないかと必死に考えた。



「ううううん……あっ! あれだ。それなら一応一度両親とかに報告くらいはしに行きたいわけだけど、それは」

「いいんじゃないか?」

「いいのかよ」

「できれば同席くらいはさせてもらいたいところだが、君は約束は破らない女だからきちんとこっちに帰ってくるだろ」

「…ソウデスネ」



えっでも神隠しってそんなに簡単でいいの? もっとがっちがちに身動き取れなくしてくるものじゃないの?
思わずこっちが真顔で確認してしまえば、やはり何も気掛かりはないとでも言いたげに許可が下りた。神隠しとは、一体全体、どういう仕組みなんだ。

掲示板で見掛けた出来事はもっと薄暗く、病んでいるような印象を受けたのに。戸惑う私の頭を未だに撫でている鶴丸の瞳には、翳りは見つからない。口先で丸め込んでくる感じはあっても、一応は私の意見にも耳を傾けて尊重してくれてもいる。
しかも、この本丸から離れられなくなるにしても、そのことを家族に報告することはオーケーらしい。私が望まないのに記憶を消したり、歪めるといったこともなさそうだ。
ただ、男は、傍にいてほしいのだという。私が死ぬまでなのか、死んでもなのか、若しくは死ななくなってしまうのかも今の時点では分からないけれど…何れにせよ、どの道もそこまで悪い待遇だとは思えなかった。
離れがたいと思うくらいに、私が彼らを家族のように大切にしているのも事実なわけで。



「君が怯える理由が分かれば、怯えない方法を取ればいい。君が本気で怖がるようなことを、俺も誰もする気はないさ」



ああ、私は、思う以上に信用を置かれ、大事にされていたのか。

唐突に、すとん、と落ちてきた結論に胸を満たされて息苦しくなる。驚いたか?、とからかい混じりに頬を突いてくる指から逃れて、もう一度、真っ白な着物に頭から突っ込んだ。



「驚いたわ」



本当に、驚いた。押し寄せる感情の波が恐怖も混乱も飲み込んでいく。悔しいけれど、その波に身を任せてもいいかと、踏ん張っていた足から力を抜いてしまう。

思い遣って、折り合いをつけて、納得させて。なんて人間のようなやり口を、私の神様達は選んでくれるのだろう。ここまで大切に想われて優しくされてしまっては、離れる方が馬鹿らしい。
びっくり爺のくせに。食えない男なのに。こんな時ばかり優しいなんて反則じゃないか。そんな罵り文句を声に出さずに呟く。聞かせてしまって、調子に乗せたくはなかった。



「名前も記憶も要らないって言ったけど、代償はないの?」

「ないわけじゃあないな。言質を取ったり神気を分けたり、強硬手段はいくつかあるが」

「怖いのは嫌だよ」

「ははっ、了解だ。中々難儀な手だが、君には一番有効そうな手段が」



ぐ、と少しばかり強い力が頬骨を捉えて、着物に埋まっていた顔を持ち上げられる。目元が熱く、鼻の奥が痛い。自分が相当情けない顔をしていることは分かっていて、その手から逃れようとしたけれど無駄だった。優しいと思って絆されたらこれだ。泣きそうになっている私を覗き込む、瞳が撓む。逆に、唇はゆるやかに弧を描いていった。



「名前以上に心を奪ってしまえばいいんだ。両側から結ぶ縁は、より牢固にして後腐れもない」





慈悲深きや渡り鳥




つまり、それは、同等の想いを交わせばいいと。そういうことだろう。
理解してしまえば、羞恥心が込み上げる。じわじわと熱の集まる顔を掌で覆い隠すと、柔らかな感触が甲に落ちてくる。記憶に新しい感触に肩を跳ねさせると、小さな笑い声が降ってくる。



「ちょっと、やめろ、惚れるから」

「これでも引き込む責任は取るつもりだから、安心して惚れてくれていいぜ」

「この野郎」



居たたまれない。居心地が悪い。今はもう、ひたすらに恥ずかしい。
悪態を吐いても可愛いものだと宥め賺してくる男を、出来ることなら突き飛ばして逃げたいのだけれど、まだそこまで全身に力が入らない。戻ったら一発平手で叩くくらいは許されるだろうか。距離感が気になりだしたところで容赦なく背中に回された手に、息を詰まらせ現実から逃げるように目を閉じた。

計画は、思い切り狂ってしまった。けれど不本意なことに、少しも嫌な気持ちにはならないのだ。
ああこれが落ちるってことか、と納得して動けなくなる。身動きを取れなくする力はそれほど強くはなく、きっと拒めば抜け出せるほどのものだからこそ、かえって惜しくて抜け出せなくなる。
卑怯者、と呟いた声を拾った男からは、口先だけの謝罪が返ってきた。その声に滲む楽しげな雰囲気に、足くらい踏んでやろうかと思った。が、他人の温もりは落ち着くもので、もう少しくらいはこのままでいいかと思い直してしまう。ああ、言われた通り、完全に敗けている。

意志の弱さを情けなくも思うけれど、これが決着、終着地点だろう。好いてしまうだろう男に身を預けたまま、ぼんやりと部屋を出る前に覗いていた情報掲示板を、思い浮かべて考える。
後で、私も書き込みに行ってみようか、と。滑らかに進められ終わりを迎えた、優しい神隠しの体験談を。

20150323. 
第3回BLove小説・漫画コンテスト結果発表!
テーマ「人外ファンタジー」
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