その日私は、運命的な出逢いを果たしたのだ。



毎週月曜は、委員活動に合わせて少しだけ早めに家を出るのが二年に進級してからの私の習慣だった。
それなのに、その日は前日の夜に目覚ましの時間を変えておくのを忘れてしまって、朝起きて時計を確かめた瞬間に思わず悲鳴を上げた。
元々起きるはずだった時間より、三十分ものタイムロス。
身支度を整えて、朝ごはんに後ろ髪を引かれつつも泣く泣く諦めて家を飛び出せば、玄関を出る前から聞こえていた雨音が外に出た瞬間に大合奏となって襲いかかる。

何てタイミングだと歯噛みしても、瞬時に天気が変わるようなことがあるはずもなく。昨晩気を抜いていた自分が悪いんだと割り切って、愛用の傘を開いて走り出した。
しかし、いくら傘を差していたところで、急ぎ足になれば正面から雨にぶつかっていくようなものだ。激しい雨足も手伝って、最寄りの駅に着く頃には雨に体当たりした身体はほぼずぶ濡れの状態に近かった。

もうその時点で、気分は最悪だ。
厄日かと滅入っていたそんな時、しかし私の運命は一転したのだ。



「危ない…!」



連日の雨の影響もあって、人の足に踏み荒らされたホームに続く階段は当然、乾く暇もなく濡れたまま。自分の靴だってぐしょぐしょに濡れそぼっていたのに、焦って駆け上がったのが悪かった。
上りきるまであと六、七段といったところで、不意にローファーの底に違和感を感じた瞬間。ぐりん、と、何かを踏んづけたことで片足を滑らせてしまったのだ。

あ、と思った時には、視界がふわりと上に持ち上がっていた。
次に感じたのは浮遊感で、自分が階段の高い位置から落ちていくのが解った。咄嗟に前に伸ばした手は、残念ながら何の意味もなく空を掻くだけで。
そこからは、時間の感じ方がやけにゆっくりだったように思う。近くを歩いていた人の驚いた顔が見えて、ついでに誰かの小さな悲鳴も聞こえた気がする。
早朝で人が少なく、支えはない。そのまま落ちれば、打ち所が悪ければ死んでしまう。そうでなくても受ける衝撃は相当のものになるはずだった。

けれど、身を固くして全身を襲う痛みを覚悟したその瞬間に、その声は鋭く私の耳に飛び込んできたのだ。
すぐ後に、どさりと大きな衝撃が全身に走った。でもそれは、想像していたような大きな痛みを伴わないもので。
ぐっ、と誰かの息の詰まる音を、とても近くで聞いた。



「っ、大丈夫ですか!?」

「……え…っ」

「怪我は!」



何が起こったのか分からず呆けてしまった私の視界に飛び込んできたのは、切羽詰まった表情をした同年代らしき男子の顔だった。
気付けば、階段の半ば。お尻から落ちていきそうな体勢にあるらしい私の背中が、手摺を掴んで軽くしゃがんでいるらしいその人に、覆われるようにして支えられている。それを理解するのにまず五秒くらいはかかった。
支えてくれる相手が、今正に自分を覗き込んでいる顔の持ち主だと理解するのも、更に少し遅れた。



「な、えっ? あ、大丈夫…ですっ!」



ばくん、と跳ね上がった心臓が口から飛び出すかと思った。
必死と分かる形相の男子に答える声もひっくり返る。
もう一度、周囲と自分の状況を確認してみれば、全身からどっと力が抜けていくのを感じた。



「た…助かった……」



本気で、死ぬかと思ったのに。
バクバクと激しく暴れ始めた心臓を胸の上から押さえて、緊張で乱れた息を整える。深く吸ってから吐き出した時に、私の頭のすぐ上で同じように大きく息が吐き出された。



「よかった。突然落ちてきたからびっくりして…」

「あ…わっ! ごめんなさい! すみませんいつまでもっ…ありがとうございました!!」

「いや…怪我がないなら、よかった」



数秒前までの少しだけ怖かった表情は、見上げたそこにはもうなかった。代わりに、ふらつく私が立ち上がるときまで手を貸してくれたその人は、黙っていると少しだけ冷たく感じて近寄りがたく見える容貌を、ほっと弛めてくれた。
柔い笑みに、違う意味で心臓が震えた気がする。その時には、単純だけれど既に恋に落ちていたのかもしれない。

なんだか、寸前の恐怖よりも気恥ずかしさが勝って、逃げるように視線を下げた。
すると数段下に、一本のペンが転がっているのを見付けた。もしかしたら私はあれを踏みつけてしまって転んだのだろうか、と転げ落ちる前に靴底に感じた違和感を思い出す。
落ちた瞬間の恐怖が蘇って、また背筋がぶるりと震えた。



「本当にありがとうございます…! それとすみません、重かったですよね…」



この人が支えてくれなければ、どうなっていたことか。
怯えがぶり返し、震えそうになりながらも深く深く頭を下げると、慰めるようにとんとん、と二度ほど肩を叩かれた。
接触は長くはなかったけれど、そこからじわりと熱が広がった気がした。



「俺は全然大丈夫だけど…雨の日に走るのは危ないから気を付けて」

「は、はい…ありがとうございます…」

「あと、同学年だから敬語じゃなくても…いや、それは図々しいか」

「え…」



下手したら、助けてくれた彼の方が怪我をしていたかもしれないのに、申し訳ない…と悄気そうになっていた心が、急に浮上する。
言われて気付いたが、しっかりと顔を上げて見てみれば、彼もまた私と同じ梟谷の制服に身を包んでいた。



「あ…えっと、同校…」

「たまに駅で見掛けるから覚えてて…ごめん。一方的に知られてるってのも何か気持ち悪いな」

「えっいや! そんなことはっ…」



ほんの少し、苦い笑みを浮かべたその男子に嫌みな部分は見当たらない。
本当に、彼の言うような感情は少しもなかったから、慌てて首を横に振って否定した。



「わ、私、みょうじなまえっていいます!」

「え…ああ。俺は、赤葦京治っていいます」

「あかあしけいじ…赤葦くん!」

「はい」

「本当にありがとう!」



赤葦くんは命の恩人だよ…!

一瞬、虚を衝かれたような顔で固まった彼は、私の顔があまりに必死なものだったからか、すぐにまた小さく吹き出すように笑ってくれた。
それが私が赤葦くんという人を認識した初めての日。所謂運命の出逢いというやつを経験してしまった時の話だ。









「私ってばドジだから、それからもまた何回も赤葦くんに助けてもらったんだよね。ちょっとした困りごとを抱えてると気にしてくれるし、一緒に帰ってた日に自転車にぶつかられそうになった時も助けてくれたし、赤葦くん本当に優しい人でね…」



ついこの間なんか、一番車両に立ってたら人に流されて、ホームから線路に落っこちそうになったところを間一髪引き寄せてくれたりして。
何だか感謝と恋心がいっぱいいっぱいになって、堪らなくなってそのまま吐き出してしまったら、なんと赤葦くんからも同じ気持ちだと言ってもらえたのです。
というわけで、今の私は幸せ絶頂だ。



「とりあえずあんたの運の悪さが怖いくらいだけど…」



晴れてお付き合いに踏み出すことになったこと、それまでの経緯を掻い摘まんでクラスで一番仲のいい友人であるまいちゃんに語って聞かせれば、途中まではハイハイリア充乙、とつれない態度をとっていた彼女が訝るように首を捻りだす。

どうかしたの?、と訊ねると、まいちゃんはううん、と軽く唸った。



「いや…ちょっと不思議だなって思ってさ」

「え? 何が?」

「最初の出逢いでなまえがそそっかしいのは分かっただろうに、何でまた第一車両で、しかも端のドアに並んだかなーって…出口に向かう階段近いなら、人が殺到するのも当然だよね」



押し流されやすいし、線路に落ちる可能性もあるって、最初からそこら辺気を付けない?

眉を寄せながら腕組みする彼女に、私もつられて首を傾げた。



「なまえの語った通りに紳士的な奴なら、気付いて安全な方に連れてきそうなもんだと思って」

「うーん…でも赤葦くんはいつもその車両だったみたいだし…男の子だから押し流されることないし、気が付かなかったんじゃないかなぁ」

「ああ、わりとガタイ悪くないんだっけ? そんなもんかー」



納得した様子のまいちゃんが組んでいた腕を解いた時、タイミングを読んだかのように昼休み終了のチャイムが鳴ったから、話はそこで途切れてしまった。
そして初めての恋愛らしい恋愛に浮かれている私の脳からは、そんな些細な疑問はすぐに消えていった。






 *






毎週月曜だけだった早起きの習慣は、今や毎日のものに変わりつつある。
部活の朝練があるという彼と、朝から顔を合わせる機会を逃すのは勿体ない。会えるだけは会いたいし、話せる時間も欲しいもの。
たまに気が抜けて寝坊することもあるけれど、少しずつ日課として体内に染み付いていっている感覚が確かにあった。

夜が明けきれない時間帯から家を出ると、駅に着く頃には鮮やかに色を変えていく朝焼けが見られるのも好きだ。
濃紺からピンク、それからオレンジへ。じわじわと染まっていく空は人の手で作り出せない綺麗さがあるし、それを分かち合える人がいるというのも、素敵なことだと思う。

だから、厄日と感じた雨の日の朝のことを思い出すと、階段から落ちて、それを助けてくれたのが彼だったことは、逆に私にとってついていたんじゃないかとさえ考えてしまうのだ。



「おはよう赤葦くん!」



階段は、慎重に上るようになったけれど。
私が落ちかけてから、二番車両が停まる位置に立つようになった赤葦くんに走り寄ると、それまで手にしていた本を閉じて振り向いた彼もおはよう、と小さく笑ってくれる。



「何読んでたの?」

「みょうじは読まなさそうな本だよ」



そう言いながらも本を傾けて見せてくれる。昔の本なのか、少し古びたカバーの下方に江戸川乱歩、と並んだ字におお、と腰が引けてしまった。
私、こんなの読んだことない。



「ふへー…作家からして難しそう……赤葦くんこういうの読むんだね」

「結構面白いけど。まぁみょうじには合わないだろうな」

「…頭良くなくてごめんね」

「いや」



自分でも抜けている自覚はあるし、正直頭にも自信がない。というか馬鹿です。すみません。
ちゃんとした本も読まないから話も続かないし、改めて救いようがないかもしれない…と情けなさに視線を下げれば、少しだけ笑った赤葦くんの手が、その作りのよくない頭を撫でてくれた。



「みょうじは抜けてるくらいがいいから」



それでいいんだ、と口にする声は穏やかで、朝焼けの綺麗な空と合わせて私の胸に染み付いた。






プロバビリティーの犯罪と吊り橋効果の併発、その有用性について




「すみません木葉さん、ペン持ってたら貸してもらえますか」

「え? 赤葦いつも差してなかった?」



あれ、とブレザーの胸ポケットを指差すチームメイトに、練習着に着替えながら赤葦は一つ頷く。



「ああ…ちょっと前までは差してたんですけど」



脱ぎ捨てられたブレザーのポケットには、今や学生証一つ分の厚みしか残っていなかった。



「どこかで、落としてしまったみたいで」




#和の文字パレット 2番【東雲・朝未き・染みこむ】

20141028.
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