※大学生時系列。
これのその後。
薄暗い中、暖色系の照明がカウンターに並ぶ酒瓶を照らしきらきらと光を反射させている。
夜の空気に似合いの騒ぎ声をバックミュージックに、柑橘類の爽やかな香りの利くアルコールを飲み干したなまえは、間違っても叩き付けることがないように手持ちのグラスをそっとテーブル端に置いた。
「どうして、こんなにうまくいかないんですかねー」
ふう、と。思い詰めきって溜まったガスを吐き出すような溜息は、今夜だけでもう何度溢されたかも知れない。
空になったグラスを見やり、手にしたメニューをなまえに向けて差し出したのは、二人掛けのテーブルでもう片側の席を陣取り片肘をついた及川だった。
「ホントだよねー。ここまで酷いと笑うしかないや」
渡されたメニューをぱらぱらと捲るなまえに、愉快そうに笑う及川の表情に影はない。
それは次に注文するドリンクに迷っているなまえにも言えたことだが、日没からそれなりに過ぎたこの時刻、二人が揃ってグラスを傾け合っている現状には理由があった。
そう、決して軽々しくはない理由だ。
三ヶ月も満たない短期間、毎度同じ失敗で、連続して交際相手との恋愛が続かなくなるという…全く喜ばしくない共通点。続かない恋を嘆き、愚痴を交わした後、どうにか脱却する方法を頭を寄せ合い考える。
そんな、最早恒例となりつつある事情が二人の間には存在していた。
「まぁ、なまえちゃんの場合は相手の男の心が狭いだけだけどね」
「うーん…気を付けてるんですけどねー…」
高校時代に知り合って以降、友人として付き合いが続いたなまえと及川は、お互いに暇を見つければ気軽に遊びに誘えるような仲だ。
進学した大学は別だが、時間は見つけようとすれば見つかるもので。元からお互いを気遣い当たり障りなく過ごしていた二人の関係は、地雷の位置も把握しきり親友にも親いものへと成長していた。
良縁が長く続くことは、素直に喜ばしいことだ。なまえは及川との関わりの中で他人への信頼を覚え、数年前とは比べ物にならないくらい、周囲の反応に怯えたり傷付くことが減った。
失敗を恐れて気を張り続けるようなこともなく、昔よりずっと自由な気持ちになれた。世界が開けたようだとさえ思っている。けれど。
決して後悔はしているわけではない。それでも、お互いの弱味や悪癖を晒し、それを補うように働き合ってきたのも、現状へ至る悪因だったのだろうことはなまえにも解っていた。
過ぎた時間は巻き戻しようもないし、本当に思うだけで、巻き戻せたとしても今の関係を手放しはしないだろうが。
「及川くんがいると思うとー、つい気を抜いちゃうんですよねー」
「俺散々振り回されたもん」
「その節は本当にありがたくー。及川くんほど、優しい人はいませんねー」
「何故かなまえちゃんしか優しいって言ってくれないけどね!」
濃い味の料理と、それに似合いのワインベースのカクテルをオーダーした後に、なまえは閉じたメニューに顎を乗せるようにして項垂れた。
失恋に慣れつつある女の表情は、悲しみに暮れるよりも困りきったという風なもので。
人並みに異性と交際にこぎ着ける努力はしているのに、どうしても空回りしてしまう。原因は油断によるものだと、解っているのに毎度しくじる。
恨めしい目を原因に向けても、彼はどうしたの?、とでも言うように見目のいい笑顔で首を傾げるだけだった。
そう。及川徹という存在が、大きすぎたのだ。
恋人を想っていないわけではない。が、頭のどこかで丸ごと受け入れられることを最初から必要としていない、諦めている自分がいることには、なまえも気付いていた。
人並外れた怪力を目にすれば、きっと百年の恋も冷める。化け物を見るような目を向けられることにも、悲しいかな幼い時分より慣れきっている。
だから、いつ拒まれても仕方がないのだ、と。
それでも、自分には見放さないでいてくれる人がいるのだ…という、甘え以外の何物でもない考えはなまえの中に大きく居座っていて。
もういい、と言うまで、気付かず知らないふりをして庇い続けてくれた、及川は自分から離れない。だったら、離れていく人はわざわざ繋ぎ止めなくても構わないだろう、という気持ちに、いつもなってしまって。
結果、恋人へ追い縋ることさえしなくなって、破局を迎える。
見事に心に根差している存在は救いであるから、ほいほい捨ててしまえないのが厄介だった。
「でも俺も、女の子の独占欲だけは無理なのかなーって思ってるよ」
二色の層のカクテルを混ぜながら、どこか投げやりな様子で今度は及川が嘆く。
なまえの失恋原因が間接的に及川という存在にあるように、及川の恋の終わりもまた、なまえという存在に原因があった。
「及川くんは優しいですしー。私が構ってもらいすぎるのも、問題なんですよねー」
「でもなまえちゃんだよ?」
構わないとかないよね?、と当たり前の顔をして言ってのけるこの男。及川徹は、付き合っている恋人の目の前で、より大事な人間を優先してしまうような人間だった。
素直と言えば聞こえはいいが、馬鹿正直過ぎるのだ。
予定や約束は先着順。たとえ彼女に誘われても、友人との予定が先に入っていればそちらを優先する。
別段恋人を疎かに扱っているわけでもないのにあまりにも融通が利かない所為で、交際相手に不満を募らせては失敗する、というのが定型化していた。
「そもそも出逢って一年にも満たないのに、長い付き合いの友達と自分を比べるのって、いくら彼女でも烏滸がましいっていうかさー」
「そこは、一番大切にされたいのがー女心ってものですからねー」
「一番とか二番とかないのにね」
特別な立ち位置に、順位付けなんかないのに。唯一だから特別なのに、皆おかしいこと言うよね。
そう言いつつ、ぐい、と傾けられたアルコールの甘さに、眉を顰めた彼は首を振る。
どうやら今飲みたい気分の味とは違ったらしいと察したなまえが手を伸ばすと、近くまで半分ほど中身の残ったグラスが押し出される。
次のドリンクが来るまで、時間がある。受け取ったジュースのように甘ったるいそれを、頼んだ人間の代わりに減らしながら、なまえは薄暗い天井を仰いだ。
確かにこれでは甘過ぎて、料理には合わない。
「もう、観念しちゃう?」
「そうですねー…」
がやがやとした、自分達を取り巻くざわめきが、遠いもののように聞こえる。
酔い始めで熱を持つ頬に指をあてながら、なまえは視線を宙に向けたまま、ゆらりゆらりと揺らしていた。
「私の中ではー、及川くんってとっても大事な人なんですよねー」
「うん、それはね。そうじゃなきゃ俺も困るしね!」
「あれー…困るんです?」
「困るよ。俺だってなまえちゃん相当大事にしてる自覚あるもん。一方通行は虚しいでしょ?」
つい、と再び下ろしたなまえの目線の先で、わざとらしく拗ねた表情の及川が口直しの水を傾けた。
「うーん…やっぱり、悩まれますねー」
「悩むほど俺はナシなの?」
「そうじゃ、なくてー…」
徹ちゃん悲しい、と傷付ききったアクションをとる及川を流して、手に持ったままのグラスを円を描くように回す。
今はもう混ざりきった中身が溢れないよう手加減して、一呼吸の間を置いたなまえは、大きな溜息を吐く時のように肩を落とした。
「だって…今みたいな関係に戻れなくなったらー…なんて、柄にもなく不安になったりー、したりして…」
一度失った関係は、元通りにはならないものだ。それなりに重ねてきた経験から、知っている。
尻窄まりになるなまえの声を拾った及川は、それまでのふざけた表情を取っ払うと頬杖をついた。
完全に聞く体勢に入られて逃げ場をなくす。こんな風なやり取りに慣れたのは、いつの頃からだったろうか。
それこそ最初は、彼は聞き手より話し手の方が板についていたというのに。時間は流れるものだと、こんな雰囲気に晒されると思い知る。
「及川くんと仲良くできなくなったら、私、耐えられませんからー…」
特別といえば、この友人関係だって特別で唯一のものだ。
あなたがいないと生きていけない、なんてチープな台詞さえ口にできるかもしれない。そんないかにもな言葉は間違っても吐かないが、先に吐き出したものも似たようなものかもしれなかった。
顔を見て言葉を発せなくなったなまえが俯いても、及川は無理矢理に上を向かせることはしない。
ふうん、と静かに頷いて、普段と何ら変わりのない軽やかな声を発するだけだ。
「別に、さ、急に関係を変えようとしなくてもいいんじゃない?」
「はぁー」
「今のままで…んーと…厳密にはそのままじゃないけど。お互いの許容範囲を広げていく、みたいな? これだけ仲良くしてきたんだから、今まで色々見てもいるし」
「…そうですねー。及川くんにはたくさん、助けられてきてますしねー」
「俺も大概、素で愚痴ったりしてヤなとこ見せてきたしね。それでも大事って、そんなにないよ」
残りを飲み干してテーブルに戻した右手に、するりと絡みつく指が薬指の根本を捉える。
少し肌の硬い指先が、そこで鈍い光を反射しているリングを、もうこれは要らない邪魔なものなのだと知らしめるように引っ張った。
くい、と、手先だけが引力に従って持ち上がる。
「俺はちょっと心を傾けようと思えば、すぐになまえちゃんを好きになるよ。そーゆー意味で」
「…あー……それ言っちゃ駄目ですよー及川くん。私だって、コロッと落ちちゃうの簡単なんですからー」
「だから観念しちゃわない? って話」
「もうー…酔ってませんかー?」
「なまえちゃんより飲んでない」
確かに、と頷くなまえの頬は少し前から赤く染まっている。
それでも、思考までは鈍りきってはいない。甘く低く落ち着いていく男の声に唇を噛みながら、触れられたままの右手を握り締めた。
「私の怪力は…なおりませんー…」
「うん」
「今までより、もーっと、迷惑かけます」
「その分大事にもしてくれるよね」
「いくら及川くんでもー、愛想尽かしちゃうかも」
「あはは、ないない! ちょっとなまえちゃん俺を舐めすぎだよ」
ていうか慣れたし。なまえちゃんも俺のことすごい好きだし。
調子のいいテンポで繰り出される言葉が突き刺さるごとに、ずるずると沈んでいくなまえの身体は、芯が抜けてしまったようだ。
本格的に取られた右手から、やっぱコレ気に食わないよねー、と笑い混じりに引き抜かれるリングを辛うじて目で追うけれど、そこに未練や躊躇いは浮かばない。
外されたリングがこの場で投げ捨てられようが、持ち帰られて処分されようが、どちらにせよ気にならなかった。
つまり、観念する前に、抗う気にもなれないのだ。
それでも、抵抗にもならない最後の悪足掻きにか細い声が漏れた。
「何より……気恥ずかしいですー…」
「ゴメンねなまえちゃん。俺もう好きになっちゃうね」
前の恋の名残をすっかり盗んだ男はとても機嫌が良さそうで、柵のなくなった右手に唇が落とされる。キザな真似が似合ってしまう人だと、頭では冷静に思考を捌いても、震えそうになる手を持て余した。
もう少し、悩んだ方が及川のためだろうとなまえが思ったところで、一度決めてしまえば彼の気持ちはぶれそうにもない。
決断が早すぎると頬を膨らませても、返されたの朗らかな笑い声だった。
「寧ろ、決断に至るには充分な時間だったよ」
そろりと持ち上がるなまえの視線は、見た目よりもずっと計算高く、先を見据えられる男の瞳とぶつかる。
今、少し手を動かして捻れば、その指の骨だって折ってしまえるだろう。他の男が逃げ出すほどの力を持て余すなまえの手を恐れず握って、慈しむような表情を浮かべる及川。彼のその表情一つにしても、きっとなまえ以上に知り尽くした人間はいなかった。
「どうせ俺よりなまえちゃんに合わせられる男なんかいないし。とりあえずカップル誕生を乾杯しようよ」
「…及川くんにまでふられたらー…世を儚みますからねー」
「肝に銘じとこう!」
遅れた月の出を愛でること誰よりも近く味方でいてくれる人を、愛しく思うことなんて、箸の扱いを覚えるよりも容易なことだ。
二つ重ねたグラス、その紅い水面に照明の光が散らばり揺れる様が美しく見えたのは、夢見心地でいる所為かと、おかしいところもないのに笑ってしまいそうになる。
もしかしたら待ち飽きるほど、気付かないほど長い間、待っていたのかもしれない。重くなる目蓋を伏せてなまえは熱い息を吐く。
きっと、ずっと待っていたのだ。こんな始まりを迎える、いつかを。
#和の文字パレット
20番【錫色・臥待月・触れあう】20140930.