木兎といると、耳鳴りがする。
そのことに気付いたのは、私から告白して付き合うに至った日より、随分と前のことだった。
正確に言えばそれは、違和感や不快感のある耳鳴りとは少し違う。さあさあと、地を打つ雫の音が耳の奥、脳の近くで響いてくる気がするのだ。
恋心を自覚した頃から染み付いたもので、気持ちが高まるごとに耳にする頻度も増していった気がする。疎むほど嫌な感覚でもなかったため、ずっと私は雨音を放置し続けてきて。
だから今も、私の耳の奥では、雨が降り続けている。
「やべー…眠い」
子供がぐずる時のように脚に擦り付けられる髪が、くすぐったい。
所々メッシュの入った髪はいつもきっちりと整えられているのに、こんなことをして変な癖が付きはしないのだろうか。未だ恋人らしい触れ合いには慣れきれず、思考を逸らすことで平静を保つ。
落ち着かない気持ちでいる私の心など露知らず、悠々と膝枕を満喫してくれている男は、ちょうどいい寝心地を探っているのだろう。もぞもぞと頭をずらしては感触を確かめるものだから…もう、何というか。
「ちょっ…と」
「んー。やっぱなまえの脚気持ちいよなー」
「そういうこと平気で言うのやめて」
恥ずかしい。そう、わりと喚き出したいくらいには恥ずかしいのだ。こういう、いかにもいちゃついてますという風な状況は。
自室に漂う甘ったるい空気に顔を覆いたくなった私に、普段よりも大人しい返事を返す木兎には悪いけれど。慣れないものは慣れない。
だって、こんな風になるだなんて思っていなかったのだ。
(本当…イメージと違う……)
いい位置が決められたのか、満足げに伏せられてしまっている目蓋。リラックスしきった顔に、たまに見られる精悍さは影も形もない。
見るからに体育会系で実際に身体を動かすことも大好きな木兎。たとえ恋人として過ごしていても、何処かへ連れ回されたり振り回される時間の方が多いのだと、周囲からは思われがちだ。
あまり男女同士の交際を想像できていなかった私も、付き合うまでは似たような思い込みをしていたのだけれど。
意外なところで羽目を外さない木兎光太郎という人間は、自分の都合に合わせて彼女を引っ張り回すようなことはしない男だった。
二人で出掛けたい所があれば私にまず伺いを立ててくるし、興味の有無をしっかりと見極めて、その気があると分かれば活き活きと手を引いてくれる。
私の反応が著しくない場合は残念だと態度に表しはするけれど、長く引き摺ることもない。それなら他に一緒にできることを探そうとしてくれるような男だ。
正直、惚れた贔屓目をなくしてもいい彼氏だと思う。
いつも木兎は全力で優しい。私には、勿体ないと思うくらい。
勿論、勿体なくても手放す気はないのだけれど。
「風邪引いても知らないよ」
ベッドの上に畳んであった黄褐色のブランケットを引きずり下ろし、そう広くない私の部屋の床を占領している身体にふわりと掛けてやる。
これだけでは心許ないが、何もないよりは幾分かマシだろう。寝惚けたような声で返ってきたお礼に、照れも忘れてつい笑ってしまった。
元々遊びに来た時は、たまの休みだからデートでもするか、と言っていたくせに。
やっぱり、疲れてるんじゃない。
性別の違いで片付けられないほど、がっしりとした腕をぽんぽんとあやすように叩いてみる。
筋肉の付け方なんて私は知らないけれど、ここまで身体を作るのにも相当の努力があったであろうことは想像するに難くはない。
時間なんていくらあっても足りないくらいだろうに、それでも当然のように私に割いてくれようとする木兎に、一体私は何度惚れ直させられるのだろうか。
果てがない恋は、中々途切れそうにないと実感する。
そうすると、どこからか地面を叩く雨粒の音が響いてくるのだ。
「木兎といると…雨の音が聴こえてくるの」
「…雨ぇ?」
このまま眠ってしまうのかと思っていたのに、不意に開いた目が眩しそうに見上げてくる。
疲れているなら休んでくれていいのに…とは思うものの、話ができるのはそれはそれで嬉しい、私も貪欲な人間だった。
「よく解んないけど、雨ってなんか寂しいな」
「木兎は晴れが似合うし、好きそうだもんね。灰色の空は気が滅入る…?」
一応、光を遮るようにその目の近くに手を翳してみたのだけれど、邪魔だと言わんばかりにブランケットからはみ出した手に捕まえられて、退かされてしまった。
眠気を残した木兎の顔が、身体ごと仰向けになって私に向き合う。
「うまく言えないが、なんか暗いイメージだろ。俺といるのになまえが暗いのは嫌だ!」
「いや…うん。別に暗い気分なわけじゃないけど」
ぐん、と拳を突き上げての主張に、少し返事をするテンポが遅れてしまう。
そうなのか?、と見上げてくる視線は真っ直ぐで、真剣な表情に弱い私の胸は簡単に跳ねた。
私ばかりどきりとしてしまうのが、恥ずかしい。目を合わせたままでいられなくて、つい逃げるように逸らしてしまう。
これのどこに暗い気分が入り込む余地があるというのか。木兎の思考は時々よく解らない。
暗くなるような余裕が、あるはずないじゃない。
「…木兎といて、暗くなんかなれないわ」
想いが届いて、想像できないくらい返してもらえて、いっぱいいっぱいだ。
頭の中なんて誰にも見せられないくらい、花が咲いている。こんなに近い距離で触れられる度に堪らなくなるのに、この男と来たら解っていない。
解っていないくせに、狡いのだ。
捕らわれていない方の手で熱を持つ顔を隠そうとしたところ、眠気を振り払いパチリと瞬いた瞳が見えた。
「…おお」
「何その反応」
「なまえ可愛いな!」
「あほ」
思わず、叩きやすい額をぺしりと叩いてしまう。
可愛くなんてない。私に可愛げなんて、全然足りていない。木兎の言うそれは、それこそ、欲目というやつだ。
そう誤魔化して流したいのに、すっかり目を開けてしまった木兎は、捕まえたままの私の手をにぎにぎと弄びながら真面目な顔になる。
「いーや、なまえは可愛い。なんたって俺の彼女だからな!」
「…なーにそれ」
そう口にするのが木兎でなければ、馬鹿にしてしまえる。信じたりはしない言葉だ。
本当に、私なんてちっとも可愛くなんてないのに。
それでも、こいつに可愛いと言われるだけは、可愛くいたいと思ってしまうから。雨音は、私の鼓動と重なるように強く響く。
握り締められた手に、じわじわと広がる熱が私の思考まで蕩けたものにしてしまう。
ねぇ、木兎。
「私が木兎と初めてちゃんと話した時、いつだったか覚えてる?」
「初めて? あー…二年でクラス替えした後だったはずだな。えーっと」
唐突な問い掛けに大して疑問も抱かず、うんうんと唸り始める男の顔を見下ろす。
そろそろ脚が痺れてきたなぁ…なんて考えながら待っていると、あっ、と急に短い声を上げた木兎は得意気に、私の手を握ったまま人差し指を立ててみせた。
「アレ! アレだ…傘なくて濡れて帰ってたなまえ見つけた時っ!…あ。もしかして雨ってそれ?」
「そう。多分、それ」
恐らく木兎が思い出したものと、同じ情景を頭に浮かべて頷く。
高校二年の春。まだ少し肌寒い時期の頃だ。天気予報を見逃して傘を忘れた日、仕方なしに雨の中に飛び出してコンビニまで向かう途中だった。
それなりに強い雨だったから、傘を買うより先に頭から制服からびしょ濡れになってしまって。憂鬱な気分で歩いていたところを慌てきった叫び声に呼び止められたのだ。
振り向いた先には、新しいクラスで見た顔があった。それまでに、話をしたことはない男子だった。
顔と名前とを一致させようとしている間に傘の中に招かれたかと思うと、強引にタオルとジャージを押し付けられて。気が付けばジャージを着せられタオルを頭に被せられていた私の手に、よし、と満足げに頷く男の傘は移っていた。
風邪引いたら困るからな!、と。自分のことは振り返らずに言い切ったが最後、走り去っていった背中が、傘を打つ雨の音と一緒になって忘れられなくて。
怒濤の展開に呆然としてしまったし、あの時はわけも解らなかったけれど。
「私ねぇ…多分あれで、木兎を好きになるって決まったんだわ」
気持ちが増すごとに、思い出は色付く。補正されて美しくなるから、今も響く雨の音に胸の中が満たされる。
いっぱいになった熱をほう、と吐き出す私を、それまでじっと見つめていた木兎はそうか、と頷いた。擦れる髪が、やっぱりくすぐったい。
「それは、あれだな。声かけたのが俺でよかったな!」
「木兎は私じゃなくてもほいほい優しさ振り撒きそうだけどね」
「そんなことあるか?」
「聞くなよ」
ないって言ってよ頼むから。
私以外を引っ掛けられたりしたら、とても困る。
惚けた顔から一転、じろりと見下ろした私に返される表情は機嫌のいい笑顔だ。
これは、私の気持ちが解っている時の顔。
やっぱりなまえは可愛いな!、と喋る口を悔し紛れに掌で塞いでやった。
耳鳴りはやまないやまなくていいと思わせる。
それはしめやかな、幸福の音。
#和の文字パレット
3番【香色・耳雨・微睡む】20140905.