今日も今日とて、情けなさを伴った張りのある声がざわめく教室に組み込まれる。
おはようなまえちゃん!、と整った顔をぎゅっと中央に寄せながら視界に飛び込んできた男に、なまえはそれまで動かしていた編み棒を切りのいい場所で止めた。



「おはようございます、及川くんー」

「聞いてよ! 岩ちゃんったら今日も酷いんだよー!」

「あらあら…朝っぱらから泣いてちゃダメですよー。お蜜柑ありますよ。食べますかー?」

「うん食べる」



朝一番、なまえの机の前に駆け寄ると直ぐ様捲し立て始めた及川は、出された蜜柑を見るとこくりと頷く。ふわふわぽやぽやとしたなまえの喋り口調は、いつだって相手の勢いを削ぐものだった。
せっかちな人間なら苛立つこともあるだろうが、特に動作がとろくさいわけでもないなまえは、どんなコミュニティでも概ね受け入れられている。その上特定のタイプになつかれやすくもあるらしく、毎日のように前の席の椅子を拝借してくる及川もまた、その特定のタイプの中の一人だった。



「なまえちゃん、剥いて」

「はいはいー」



自分の机に顎をつけ、餌を待つ雛のように見上げてくるイケメンに、なまえは動じることなく軽く頷いて手に取った蜜柑に親指を沈める。
曲がりなりにも高校生同士。男女がここまで親しい距離感にあれば色恋方面に勘繰りを入れられそうなものだが、みょうじなまえと及川徹の二人に至っては、クラス内では完全に友人…というより、お婆ちゃんと孫のような関係という位置付けに収まっていた。

はいどうぞ、と差し出された果肉がそのまま口に送り込まれても、全く空気が甘くならない。異常なくらい自然な動作に、最早誰もツッコミすら入れなくなっていた。
本人達はそれ以上に何も考えていないのだから、慣れていない人間が端から見れば軽く狼狽えたくもなる光景なのだが。



「今日は顔面すれすれ狙われたし、ホンット容赦ないんだよ!」

「それも親しさあってのことですよー。お二人は仲良しですからー」

「まぁね! 岩ちゃんと俺は超絶信頼しあってるからね!」

「素敵な関係ですねー」



ぱかりと開く口に一房ずつ果肉を運びながら、なまえはうんうんと頷いてみせる。
誇らしげに語る及川は完全に可愛がられる子供の顔で、そしてまたすぐに不満を表すように唇を尖らせた。



「でもさ、俺がモテるのなんて今に始まったことじゃないのに、岩ちゃんたらいつまでも慣れないんだよ」

「今日は女の子関連でしたかー。及川くん格好いいですもんねー」

「そう、モテるのもイケメンに生まれた宿命っていうかね! 女の子は可愛いんだけど、これでも色々大変なんだよー? そこら辺岩ちゃんの認識は甘い!」

「同じ人間じゃーありませんからー。でも、女の子のことで何か困ったことでもあったんですー?」

「わりと結構ね。女の子の嫉妬とか怖いでしょ。たまに無意識でストーカー紛いなことする子もいるし」

「怖いですねー。大事には至らなければいいんですがー」

「今のところは大丈夫だけど、集団でいるのもちょっと怖いよね」



可愛くもあるのは嘘じゃないんだけど…と溜息を吐く及川に、なまえは静かに笑い返す。
二人のこのやり取りは実はそう長い期間行われているものではなく、漸く半年ほど経ったかといった頃だ。三年に進級してからの関わり合いになるのだが、すっかり安心しきっているお互いの様子からは長年の間そうしてきたような安定感が漂っていた。



「女の子って、雲みたいですよねー。ほら、巻積雲なんてそんな感じじゃないですかー?」

「巻積雲ってどんな雲だったっけ?」

「うろこ雲といった方が分かり易いですねー」

「ああ、でもうろこ雲? 何で?」



人差し指を立てて窓を指すなまえに、及川の瞳がきょとん、と瞠られる。



「とっても小さな雲の欠片が群れになって、鱗や波のような形になるんですよー。一つだけなら小さな雲の欠片なのにー、集まるとうろこ雲なんて大きな扱いをされるんですー」

「うーん、なんとなく解るような解らないような」

「あれれ…説明下手でしたかー。すみませんー」

「いーよ! なまえちゃんの話って面白いし」



男として、主将として、そんな何かしらの眼鏡を掛けて自分を見てこないなまえとの会話に、気を張る部分はない。駆け引きの一つも生じない空気を、及川は気に入っている。
そしてなまえも、純粋に好かれる分にはそれだけの好意を返す人間だった。



「ところでそろそろ形になってきてるけど。やっぱりそれ、マフラー?」



両腕を乗せた机の隅に、声を掛けた時点で除けられた毛糸の塊。それに視線を向ける及川に、なまえはゆったりと頷いて返す。



「これから寒くなりますし、そろそろ今までのも買い換え時だったんですよねー。せっかくだから編んじゃおうかなーと思いましてー」

「なんだ。それプレゼントじゃないんだ? てっきり誰かにあげるためなのかと思ってた」

「贈り物にできるほど上手ではないですよー」

「そう? 俺は絶対そんなの作れないし、充分すごいと思うよー」

「ふふ…とても凄い選手らしい及川くんにそう言われると、お世辞でも嬉しいですねー」



ふにゃりと相好を崩すなまえに言葉以上の裏はない。そもそも、付き合いの長さが長さなので、内事情まで目を向けられるはずがない。現実的な優劣を常に気にしている及川でも、他意のない褒め言葉には素直に笑顔を返せた。

二人互いにいい関係を結んでいる自覚があり、友人として大事にしている。ただそれだけのことだ。居心地が良い場所に居たがるのは、誰だって同じだろう。
それでも。それだけのことが、どうしても噛み合わない時もある。
彼の発言通り、若しくは彼女の発言通り。女という生き物は時折恐ろしく、多勢でやってくるものなのだ。









「気に入らない」



糸を引き千切る勢いで編み目を解かれた、マフラーになるはずのものは、ぐちゃぐちゃに丸められるとゴミ箱に投げ捨てられた。暖かな色の毛糸を床に転がしたまま、酷く歪んだ笑みを浮かべる複数名の女子はなまえを壁際まで追い詰める。
彼女らが現れたのは、放課後の教室になまえだけが残されてすぐのことだった。
完成まで行き着きそうだったマフラーを仕上げてしまおうとしていたなまえから、突然それを取り上げた女子は、グループのリーダー格というやつだろうか。一番気の強そうな女子の言うことには、どうやら彼女らの中に及川へ思いを寄せる人間が存在するらしい。友人のためと銘打って辛辣な態度を向けてくる集団は、なまえを目の敵にしているようだった。



「あんたみたいなのがいるから、近付けない子がいんの。解る? 邪魔。だから及川くんから離れて」



恋する女子は可愛らしいが、嫉妬にくれた女は恐ろしい。
聞き入れて当然といった風に取り囲んで命令を下してきた見知らぬ彼女に、なまえはゆるりと首を振った。



「それは嫌ですー」

「は!? 何、逆らう気!?」

「逆らうも何もー無理ですよー。彼も私の大事な友達ですしー」



微笑ましい恋ならば応援するのも吝かではないが、他者を排除してでもその立場に立とうとする人間には好感を覚えられない。
呆れた調子でふう、と大きな溜息を吐き出したなまえに、向けられる睨みが激しくなるが。気にも留めない様子で、両側に二度ずつ首を傾げた。



「というかー、そんな理由で、人のもの勝手に壊さないでほしいですねー」

「ああ!? 物だけで我慢してやってんだろ!」

「口調まで荒くなってますよー。まったく……躾がなっていないったらーありゃしない。人の持ち物を泥棒して破損させて挙げ句の果てには恐喝ですかー? やれやれですー」

「こんのっ…」

「逃げんな!!」



追い込まれていた黒板近くから教室後方の出口付近まで、唐突になまえが走り抜ける。反射的に追ってくる彼女らを振り向き、逃げませんよーと笑ったなまえは立ち止まって掃除用具箱の扉に手を掛けた。



「先程、気に入らない、と言いましたねー。気に入らなければ何をしても…いいんですよねー?」

「何よ…何かって、あんたみたいなとろいのが何できるって」

「ふんっ!」



気合いの入った一声が響いた、一瞬のことだった。
ベキッ、と。今正になまえが手を掛けていた用具入れの扉が、丸ごとあるべき場所から外れたのは。



「っ…は……?」



目の前の出来事に硬直した彼女らの中で、誰が声を漏らしたのかは分からない。
綺麗に引き剥がされた扉を両手に持ち替え、なまえはそれを軽く振りかぶった。



「私も気に入らないので例えばー、この引き剥がした掃除用具入れの扉をー、振り回してあなた方にぶち当ててみたりしちゃっても?」



反動で吹いた風が、複数の女子の髪やスカートを揺らさせる。と、同時に。
メゴッ、と。一部、床が陥没した。
振り下ろされたのは、薄く引き伸ばされてはいるが、鉄の扉だった。ぎこちない視線がふらふらとさ迷いながら、いくつもなまえを捉えていく。



「顔なんかに当たっちゃったらーどうなりますかねー?」



ふわふわと、人畜無害を絵にしたような笑顔のまま、扉を再び振り上げる動作に入ったなまえの姿に、現状を理解して一気に青ざめた女子達は、悲鳴を響かせながら一目散に逃げ出した。
出口付近に用具入れがあったのは、彼女らにとっては幸福だった。戻ってこないだろう女子達の後ろ姿を確かめようかと、扉を一旦立て掛けて出口から顔を出したなまえは、しかしすぐ近くに見慣れた影を見つけたことで目を瞬かせた。



「なまえ、ちゃん…?」

「…あららー及川くん、部活に行ったのではー?」



呆然とした顔で廊下に棒立ちになっていた友人は、ひくりと頬を引き攣らせる。
とっくに部活に向かったものと思っていたなまえが訊ねると、錆び付いたロボットか何かのような動きで及川徹は頷いた。



「あ、う、ウン。ちょっと忘れ物して……ってなまえちゃん? ほんとになまえちゃん!?」

「見たまんまなまえですよー」

「な、何で、それ、本物?」

「掃除用具入れの扉なら本物ですねー」

「何で外せたの!?」

「見られてたんですねー。ふふ、私まで器物破損させちゃいましたー困りましたねー」

「壊したの!?」



どうやって、と戦く及川に、なまえは軽く宙を見上げてから、語り出した。



「火事場のバカ力というのはー。筋稼働率とかー、発声とかー、ピンチによってアドレナリン分泌が活発になってストッパーがなくなるー、といった感じで引き起こせるんですよー」

「は…はいっ?」

「筋肉の百パーセントを使うと骨が折れるとも言われてますからー、正確には百パーセントの力は出せないようにできているのでしょうねー?」



目を白黒させている及川がそれでも逃げ出さないのを見て、なまえは珍しく困り顔に近い笑みを浮かべた。



「私は多分、人よりすこーし普段のパーセンテージが高めなんですよ」



だから気持ちも高ぶらないように、できる限りは隠してきたんですけどー。
そう言いながら頬を掻くなまえの声は、普段よりも少しばかり低い。
そんな簡単な理屈であんなことができるものなのかと、混乱中の及川には突っ込むこともできない。



「制御はできるんですよー。今までもそうしてきましたし、不用意に人を傷付けたりしたくないですしー」

「そっか…いや、でも…大丈夫なの、ソレ。ほら、反動とかでなまえちゃんも身体に負担とか」

「心配してくれて、ありがとうございますー。でも気にしないで、及川くんはー、忘れてください」

「忘れるってそんな…」



無茶な話だと、現場を見れば誰しもがそう思うだろう。それだけ衝撃的なシーンを見せ付けられもしたし、及川もこればかりは首を横に振ろうとした。
が、先手を打つように満面の笑顔を浮かべたなまえがじい、とその顔を覗き込む。



「忘れてくださいー。ね?」



ちょうど翌日からは週末と重なった三連休で、時間ならば充分にあるのだから、と。
壊れた用具入れの扉も、一部凹んでしまった床もそのままに、なまえは言ったのだ。



「これで及川くんと話せなくなるのはー…寂しいですからねー」






絶対に触れてはいけない




「おはようなまえちゃん!」



翌週月曜朝一番。珍しく顔に見合う爽やかな笑顔を浮かべて、なまえの前の席を分捕ったのは及川だ。
おはよーございますー、と緩やかに挨拶を返すなまえも、普段と変わらない調子を保っていた。



「今日はなまえちゃんにお願いしたいことがあるんだよね」

「お願い? 何でしょー?」

「コレ! コレ使って俺の分のマフラーも編んでほしいなって思ってさ!」



どさりと机の上に置かれたのは、幾色かの毛糸の入った紙袋だ。突き付けられたものに、きょとりと、なまえの瞳が瞠られる。が、少しの間を置いて、吐き出される息と共に細められた。
どこか安堵したような吐息と、次の瞬間に綻ぶ表情に及川の口角も自然と上がる。



「私でよければー。及川くんへ贈るとなっては、気合い入れなきゃいけませんねー」

「そうそう、俺に似合うとっておきの作ってよ!」

「ふふ、それは悩まれますー」



困ったと口にするなまえの表情は、心底嬉しそうなものだった。

見てはいけない機織りの様子を覗いてしまう話、言いつけを破って寄り道をする話、開けてはいけない部屋の鍵を使ってしまう話…設けられる禁則は、守りさえすれば痛い目に遭うことはないのに。そう、人間一度は思ったことがあるのではないだろうか。
心地良い場所を手放さずに済むのなら、その方が喜ばしいのは当然だ。だから及川は、なまえの願い通りに三日前に見たことを忘れることにした。
これまで通りの関係でいたいと思うのは、何もなまえ一人だけではない。大切な友人が本気で望んでいることを、叶えない理由もない。

ただ、いつか。今以上の時間が経ち今ある距離感が変化することがあるのなら、きっと自分も先人達の教えを破ることもあるのだろう。離れていかない確信さえあれば、忘れたものを思い出してしまうこともあるかもしれない。
先日拾い上げてバッグに仕舞ったままでいる、形にもならずに見離された小さなオレンジ色の一玉を捨てることも彼女に返すこともできなかった、及川は思った。



#和の文字パレット 7番【蜜柑・うろこ雲・忘れ去る】

20140831.
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