目の前に、火花が散った。



「みょうじっ!?」



次の瞬間には私を呼ぶ焦り声が、そう遠くない場所から降ってくる。
何が起きたのか解らないままガンガンと痛む頭を抱えて踞ると、足元に落ちている二本の箒が目に入った。

今は掃除時間なので、掃除用具を見掛けるのは何ら不思議なことはない。けれど、私が廊下を掃くのに使っていた箒と、残るもう一本はどこから出てきた物なのかがよく解らない。
これは一体…と思考を働かせるより先に、再び耳に馴染む声が、今度は近くから聞こえてきた。



「だ、大丈夫かみょうじ…!」

「菅原くん…?」

「っ! 怪我してる。保健室行こう」

「え? あ、でも…」



怪我、と言われて断続的に痛んでいる額に手をやろうとすれば、その手首を掴まれて制された。

掃除時間であることを気にしていると、いいから、と珍しく強く押し切られる。
いつも優しい菅原くんの厳しく眉を吊り上げた表情を見たのは初めてで、その迫力に逆らえない。

促されるままに立ち上がってみると軽く目眩に襲われたけれど、歩けないほどでもない。そのまま導かれるように歩を進めれば、今度は聞き慣れない声が横から掛かった。



「あの、すいませんっ!」

「え…?」



誰…?

私に向かって飛んできた様子の声の発生源を顔を上げて確かめたところ、今正に通りすぎようとしている清掃範囲で、つい先程までも騒いでいた下級生が青ざめながら頭を下げている。

ああ、そういえば。激痛に星を飛ばす前も、箒を振り回しているのを見たような。
その手を滑らせでもしたのかもしれない。運悪く飛んできた箒に強打されたのか…と納得していると、私が何を言うよりも先に手を引く彼が口を開いた。



「物を持ってる時にふざけるのはやめろよ」



その声もまた、あまりにも厳しいもので。
見上げた横顔も穏やかさはなく、どうにも、菅原くんらしくないよと笑い飛ばせるような空気ではなかった。









菅原孝支くんという人は、普段からよく他人を見ていて気配りが上手い。人に悪印象を抱かせない、風貌からして優しげな男子だ。
二年時にクラスが一緒になった時からよく話すようになって、三年になった今でも何かと鈍くさい私の世話を焼いてくれる。異性と相対するのがあまり得意でない私でも、自然と会話ができる貴重な異性の友人の一人。

そんな彼は今、例がないくらい不機嫌そうな雰囲気を滲ませたまま、軽傷を負った私の額の様子を見ている。



「女子の顔に傷とか…酷いよな」



消毒液の染みたガーゼと、その上から氷嚢を当ててくれる手つきは丁寧なものだ。
少し時間を置くと傷口は見事に腫れ上がってくれて、保健室に着いてすぐに鏡で確認した額には、たん瘤ができていた。この十七年間で瘤を作ったのは初めてだけれど、あまり嬉しくない初体験ではある。

私よりも痛そうに眉を顰める菅原くんの手から氷嚢を受け取って、自分の手で支える。
掃除時間も終了間際で、清掃担当の生徒は帰っていった。養護教員も私が自分で手当てができることを確認した後、教員会議のために保健室を空けていた。

生徒の喧騒が届かない、室内はとても静かだ。



「掠り傷だし、たん瘤はすぐ引くだろうし…大丈夫だよ」

「でも痛いだろ?」



座るのに楽だから、という理由でソファーの隅をお借りしている、私の横に立ったままの菅原くんは、一向に表情が晴れないままだ。

そりゃあ痛いけどね。
嘘は吐けないので、苦笑する。それでもガンガンと響いていた痛みは消えたし、もう動揺もしていない。
掠った部分から少し血は滲んでいたけれど、本当に些細なものだったから傷も残らないだろう。たん瘤だって、ガーゼを外せば前髪で隠せるくらい小さなものだ。

なのにどうしてか、下から覗き込む形になる彼の顔はまだ硬い。
私の返事に、分かりやすい溜息を返してくれた。



「みょうじも、もう少し怒れよ」

「う…ん…悪気はなかった、みたいだし」

「ふざけて他人に怪我させた奴らだぞ?」



大袈裟だな…と思うも、あまりに真剣な顔で諭されて何も言えなくなる。確かに、掃除時間にふざけるのはよくない。人に怪我をさせるなんてもっと悪い。けれど…



(ここまで言うのは珍しいな…)



菅原くんは優しい人だ。基本的に、懐は広いし人の失敗を過度に責めたりもしない。誰かが喧嘩でも始めれば、必ず仲裁に入るタイプであるはず。

それが、今はどうだろうか。
小さな怪我で、痕も残らないだろうと分かっているのに、やけに拘って私の額を睨んでいる。

そんなに許せないのだろうか。
私としては、彼らがきちんと反省して、もう同じことを繰り返さないでくれれば、それでいいと思うのだけれど。

そもそも、気にしてもわざわざ話し掛けたくはない、というか。



「私、あんまり…ああいうタイプ、近付けないから…」

「まぁ…確かにみょうじはああいうの、自分から近寄らないみたいだけど」

「うん…そう、野蛮とまではいかないけど…優しくない人は、ちょっと…」



関わるのも、きつい。
馬鹿にしているわけではなく、騒がしすぎるのは苦手だ。時と場所を弁えずに遊び興じる人間というのは、異性であれば特に馬が合わない。
真面目な人の方が気持ちを重ねやすいし、優しい人には安心して近寄れる。
だから、他者への配慮が欠けている人間には、義務でもなければ近寄るのは避けたいと思っている。
わざわざ突っ掛かっていきたくはない。

できれば、ね。優しい人だけの傍に居続けたいの。
そんな我儘を溢した私から、一度不自然に彼の視線が外れた。
ほんの少しの間、交わされる言葉にも間が空く。



「……じゃあ、俺も優しくなかったら嫌がられるのかな」

「え…?」



突然、何を言うの? 菅原くんは優しいでしょう。
そう、笑って返そうとした声が、喉に引っ掛かって出てこなかった。

いつの間にか額に伸びてきていた指が、するりと前髪を掻き上げて傷の傍をなぞる。唐突に走った人の指の感覚に、硬直した私を覗き込むようにして腰を折った菅原くんは、じぃ、と綺麗に瞳を合わせてきた。
彼はいつ、私の肩のすぐ近くの背凭れに手を掛けたのだろうか。
しっかりと目の合うその距離は、気付けば二十センチも空いていない。

息を止めてしまった私の鼓膜に、やけに静かにその声は響いた。



「今まで傍にいたの、全部、みょうじに親切なふりした下心だったら」



額から、耳に、それから頬に。するすると滑っていく指が、背筋にぞわりとした何かを広がらせる。



(なに、これ)



頭の中が、真っ白になる。

こんな風に、触れられたことはない。
こんな顔も、見たことがない。

逸らされることのない彼の瞳を、ゆっくりと動いた唇を、私はただ呆然と見つめ返すことしかできなかった。
からからに乾いた喉では、うまく息を吸えない。



「す…っ」

「なんてな」



詰まっていた息を吐き出すことすらできなくて、苦しさの限界が近づいた時だった。
なんとか声を絞り出そうとした瞬間にぱっと離れていった手が、顔の近くで振られる。

再度固まりなおす私に、びっくりした?、と訊ねてくる菅原くんは普段と変わらない人のいい表情に戻っていて、一気に身体から力が抜けていく。

からかわれた…の……?
そう理解した途端、ずるりと背中がソファーに沈んだ。



(冗談)



冗談。なんだ、冗談か…。
いや、そりゃそうだよね。冗談に決まっているよね。
だってまさか菅原くんみたいな人が、本気であんなこと言ったりするわけないよね。

ああ、でも。だけれど、も。



(どっ…ドキドキした……)



いや、した、じゃない。今もドキドキしている。胸に手を置けば、跳ねた心臓が血液を巡らせる振動を強く感じられる。
音まで聞こえてきそうだ。本気で受け取りそうになってしまって、恥ずかしい。

カッと熱を持ってしまった顔を伏せるのを忘れてしまう。未だ残る緊張に震えそうな私を、見下ろす菅原くんの瞳が数度、驚いたように瞬いた。



「あれ」



え、と反応するより早く、再び屈んで目を合わせてくる彼に、ソファーに沈んだままの背中がびくりと伸びる。



「もしかしてみょうじ…満更でもない?」

「っ! え、や…」



そんなことは…ない、はずだけれど。
ぐい、と再び近付いてきた顔に、今度は視線を向けられない。慌てて俯いてしまって、これでは肯定しているみたいだ。
何を言っているの。そう、笑って躱すべきところだと理解はしているのに。

私は、粗野な異性が特に苦手で。でも菅原くんは優しいから、苦手じゃなくて。だけれど今の菅原くんは…なんだか、少し、胸が痛い。



(あ、あれ?)



あれ…?
でも、なんだかやっぱり、違うような。

いつだって優しくて、距離感を心得てくれるはずの彼の、その片手。よく見て気付いて考えてみれば、道を塞ぐように背凭れを掴んだままだ。

黙り続けることも逃げ続けることも、これでは難しい。
どうしてこんなことを? まだ、からかってるの…?
だとしたら、彼らしくはない。違和感が気になってちらりと視線を上に向けた時、何故かその瞬間に私は後悔してしまった。



「どうしたの、みょうじ」



不思議そうに落とされた優しげな笑顔は、不自然に穏やかなもので。
首を傾げる仕種一つに、何もかも見透かされて、分かられているような気分に襲われてしまった。






熟練ペルソナ




どうしたもこうしたもない。
解っているようなのに分からないという顔を向けられて、素直に答える以外、私にどんな道も用意されていない。

ほんの少し、本当に少しだけ、彼の頬も色を変えているような気がしたけれど、それだって私の比ではなかった。

何が起きているの。
何をしてくれたの。
視線で訴えてみても菅原くんの表情は動かなくて、やっぱり最後は観念する他なかった。



「む、胸が、痛苦しい、です…」



ドキドキどころじゃない。バクバクと走り出した心臓は、一体どうしたことだろうか。

額の傷も忘れて、ソファーに倒れこんで顔を埋めてしまいたくなる。
それを止めるように背凭れに手を置いたままの彼は、見たことのない嬉しげな顔でそっか、と頷いた。

20140701.
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