年齢操作、浮気等が地雷な方はお気をつけください






水底からふわりと浮き上がっていくような意識の中、最初に反応した五感は嗅覚だった。
鼻孔を擽る匂いが空腹感を呼び起こす。次に目覚めた聴覚が、眠っている人間に掛けるには少しだけ大きめの声を拾う。



「なまえ、おいなまえ。起きろ。朝飯食うんだろ」

「んー…」

「予定もあるなら起きなきゃ遅刻するぜ」



それは困る。予定云々に遅れるだけならまだしも、私のために用意された朝食を食い逸れることだけはしたくない。
美味しそうな味噌の香りに誘われて目を開け、そのまま布団から両手を出せばぐいっと身体を引き起こされた。



「おはよー…大我くん」

「おう。目ぇ覚めたか?」

「なんとか。今日のご飯は何だろうなー」



起きざまにお礼とふざけて頬にキスを一つ。慣れたもので、挨拶程度の触れ合いでは私を目覚めさせた男は動揺してくれない。
ベッドから降りる私に合わせて近かった身体を離すと、きっちりと整えられた食膳を運んでくる。



「いつも通り冷蔵庫にあったもん適当に使ったけど」

「大我くん解ってるー。白菜のお味噌汁吸いたかったんだよねぇ」



ほかほかの白いご飯に、白菜と薄揚げのお味噌汁。卵焼きは少し甘めで、焼き鮭のしょっぱさと合わせればちょうどいい。ひじきと大豆の煮物は昨日の夜に煮込んでいたもので、味も染みている頃だろう。
いつもながら完璧な出来映えに相好を崩せば、褒め言葉を跳ね返しながらも満更ではなさそうな大我くんが箸を押し付けてきた。



「あーもーいいから、食えよ」

「はーい。いただきます」



手を合わせて感謝を伝えて、テーブルの向こう、私と向き合う席に着く大我くんを窺う。
大きく開かれた口に詰め込まれていく食べ物は、私の何倍かの量なのに皿の中から次々に減っていくのが面白い。
出汁のきいた味噌汁を吸った所為か、彼と穏やかに朝食なんてとっているからか。起き抜けの身体はぽかぽかと温かい。

こんな風に傍にいるのが、本当におかしくて堪らないけれど。



「やっぱり大我くんのご飯は美味しいや。私一人で作るとなんか物足りないんだよねぇ」

「別にそんな手間かけてねーけどな」

「そうかな…自分のために誰かが作ってくれるご飯なんて贅沢だよ」



甘じょっぱく味の染みたひじきの煮物を噛み締めて、言葉を返す。口に入れただけで私の味覚に合わせて味付けされたものだと分かるから、相当だ。

私が和食派だと知ってから、彼が家に泊まった次の朝には絵に描いたような日本の朝御飯が並ぶようになった。
それは私が彼が献立に組み入れやすそうな材料ばかり狙って準備しているからでもあるのだけれど。今のところ、その事情が悟られる様子はない。
素直に食べたいものを伝えてもいいのだけれど、材料だけで何を作らせるか、誘導するのはゲームじみていて楽しいから、すっかり気に入ってしまっている。



(こんなことできるのは、私だけ)



仄暗い快感に震える胸は押し隠し、ただ与えられる優しさを感受し続ける。嬉しいと、幸せだと伝える度に彼の中の枷を一つ一つ外していった。

泥だらけの沼の底に、ゆっくりと引き入れるように。
優しさと一緒に愛情まで味わって、私は飲み込み蓄え続けた。









どうしようもなく弱った獣のような瞳を、これから先も絶対に忘れることはないだろう。

大学内で、誰が見ても仲睦まじいと称されていたカップルに、いつの間にか綻びが生まれていたのが始まりだった。
付き合っていた女の浮気現場を目の当たりにしたという彼は、その浮気相手の男と交際していたはずの女、つまりは私の元へとやって来た。

元から学内で関わりがあった彼の傷を、誰よりも理解して話を聞く私に、次第に彼は心を開いていく。
そこで浮気癖のある男に傷付けられてきた数々のエピソードを、余すところなく語った私に非と呼べる非はないだろう。
文字通り傷を舐め合って、虚しさを埋め合う夜も過ごしても。冗談でも火遊びでもない、心を癒すための行為だと自分も彼も言い包めることができた。

間違いを犯した気はしなかった。
最初は一回、次からは一月に一度。月に三度、週に一度…と、彼が私の元へ訪れるペースは笑えるくらいの速さで頻度を増した。メールや電話のやり取りも、きっと今では彼女よりも多く交わしているだろう。
それでも私達の関係は、一歩公共の場に足を踏み出せば知人という括りでしか縛れなくなる。

こんなに穏やかに迎える朝があるのに、私達を繋ぐ関係性に名前はないのだ。



「ねぇ大我くん、行っちゃうの?」



汚れた食器も片付けて、軽く身支度を整える頃。
立ち上がった彼の逞しい背中に突撃して腕を回せば、一瞬驚きに強張った身体は溜息を吐きながら私を見下ろすために捻られる。

私を置いてっちゃうの。
そう仄めかした瞬間に、見上げた雄々しい顔付きが困り気味に歪むのが、とても可愛い。
彼の瞳に映る間は、寂しさを強く滲ませて、笑い出したりはできないけれど。



「そりゃ…家帰らないわけにはいかねーだろ」

「違うよ。今日、あの子と会う日でしょう?」



ぐっ、と詰まった息の音を感じながら、今度は正面から向き合うようにその胸に擦りついた。
匂いを残そうとでもする、獣のように。

本当に、残った匂いを嗅ぎとって、あの子が傷付いてしまえばいいのに。
苦々しい顔をして、大我くんは私の頭に顎を落としてきた。



「お前だってあいつと会う約束あったろ」

「あったね。あった…けど、どうかなぁ。またすっぽかされるかもしれないし…ふふ、大我くんもすっぽかされたりしてね」

「笑えねぇんだけど」

「慣れないねぇ」



まだ悲しい? まだあの子じゃないと駄目?
私がいるのになぁ、なんて、口にするのは早すぎるだろうか。



「大丈夫か?」



寂しげな笑いを溢すだけで、心配して顔を覗きこんでくれる大我くんが、私は逆に心配だ。悪徳商法に簡単に引っ掛かりそうで、危うい。そんな素直さが愛しくもあるのだけれど。

健気を装って大丈夫だよ、と頷けば、余計に放っておけないとでも感じるのだろう。背中に回ってきた腕にぎゅ、と抱き締められた。
自分のものじゃない鼓動が、響いてくるのが心地よくて離れたくなくなる。このまま溶け込んでしまえたら、と馬鹿なことを考える。



「何かあったら電話でも何でも、してこいよ。いつでも暇ってわけじゃねーけど、聞くから」

「ん…ありがとう」

「いや…オレも、なまえに頼ってるとこあるし。気にすんな」



隆々とした背中にそっと手を添えて目蓋を下ろす私の胸の内を、誰も知らない。



(馬鹿な女)



あんな碌でなしに惑わされて、こんなに優しい人を裏切るなんて。
愚かな女。後から悔やむことになっても、その時には手遅れになっているとも知らずに。

自覚がある程度には狡猾な私は、優しい男の気の引き方を心得ている。
本気で欲しいと思ってしまえば、ずうっと引き留める方法だって、知っていた。
そして、迷いもしないのだ。



「大我くんのご飯はいつも美味しいよね」

「はぁ?」



何だ突然、と身体を離そうとする彼に向けて、目蓋を上げて頬を弛める。
可哀想で可愛い、女の顔を作る。



「二番目でも、浮気でもいいから…たまに、こうして一緒にいてくれたら、私、嬉しいな」



何の非もなく恋人に弄ばれている、可哀想な私をこの人は放っておけない。
ちらつかされた誘惑に抗いきれずに自分を裏切った恋人と比べて、どちらが健気で可愛らしいか、比べるまでもないだろう。情に弱い彼の中に、私は既に組み込まれている自信もある。

私を見つめたまま目を丸くした大我くんは、数秒の後に僅かに、その視線を逸らす。



「…それ、なんだけどな」

「うん?」

「なまえがあいつとずっと続くの、やっぱりよくないんじゃねぇかって思う」

「それは…」



そうね。あなたの言う通り。それに私は、既に見限ってもいる。

捨てる準備なら整っている。あとはタイミングを読むだけだ。
一度悲しげに床に目を落とした私に、もっと彼が切ない顔をするようになるまでは、待たなければ。

心臓のある位置に手を移し、首を振る。
まだ、もっと欲しがってくれなければ、足りない。



「まだ…決心がつかない、かな。大我くんも、そうでしょう?」



ひくりと、野性を感じさせる目が震えるのを確かめて胸の内で私の中枢がほくそ笑む。

解っている。決心なら決められるところまで来ているだろうこと。
この人は、もう殆どが私のものだ。



(あと一歩)



あと一歩進めば、ゴールに辿り着く。そうしたら私は、彼を縛り付けて二度と返してやるつもりはない。
いずれ全てを知った彼女が泣いたとしても、私は最大の演技でこの人を引き留めてやるのだ。

馬鹿な女。愚かな女。救えない、不幸な女。
そんな言葉を噛み締めて舌鼓を打った、今日の朝食も胸と腹を温かく満たして、私の貪欲さに磨きをかけた。






その愛を永久に消化するべく



傍にいて。あなたに世話を焼かれないと、生きていけない私になってあげる。



 *

『火神×料理』で内輪の企画に提出しました。

20140907. 
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