振り回されない。その為には、理由を求めてはいけない。
深く深く胸に根付くよう言い聞かせられる内は、まだ私は負けちゃいない。
一度だけ深く吸った息をこれまた大きく吐き出して、放課後に入ったばかりの体育館の入口まで数歩の距離を縮めた。
ここまでやって来た原因である目的の人物は、探そうとする前から視界に飛び込んでくる。ちょうど体育館の入口付近で器用にボールを操っていた男子は、リズムよく床を踏んでレイアップを決めたところだった。
相変わらず、綺麗にネットを潜る。
思わず感心して見惚れてしまう目を、バウンドするボールから人間へと戻した。
強豪と名高い男子バスケ部は決まり事が厳しく、部活時間に入ると外部からの干渉はできなくなる。部員に用があっても部活前の自主練習の時間くらいしか声を掛けられないため、そこを狙って来た身には時間を無駄にするわけにはいかないのだ。
面白いくらいよく入るシュートを観察するのは一度に留め、私は次の動きに移ろうとしていた、友人であるそいつの愛称を舌に乗せた。
「コタ」
口に馴染む呼び名に反応して、くるりと振り向いたそいつは元から丸い目を瞬かせた。
「あれっなまえ! 何してんの?」
空いていた距離は数歩で縮められる。
無邪気に寄ってきた友人に、私は溜息を吐き出しながら軽いチョップを食らわせた。
「何してんの、じゃないわ。あんたが要るっていったんでしょーが」
誰の為にここまで来てやっているのだと。
ぶちぶちと溢し続けたい不満を飲み込みながら頼まれていたノートのコピーを取り出せば、またぱちくりと目を瞬かせた友人、葉山小太郎はあっと声を上げた。
基本的に抜けているところのある、こいつの世話を焼くことには一年近くかけて慣らせられた。試験期間が近づくと毎度泣きついてくるコタに、ノートのコピーを渡すことも習慣化している。
今日も放課後に渡すと約束していたのだけれど、すっかり頭から抜け落ちてしまったらしい。真っ直ぐ部活に向かってしまったこいつを、わざわざ私は追い掛けて来たわけだ。
持って帰って明日渡してもよかったけれど、荷物が嵩張るのは嫌だという自分の我儘も少しはある。
何にしろ、相変わらずバスケしか見えていない馬鹿に呆れはしても、見離せない私もそれなりに救えないということは変わらない。
「そーだったそーだった! ゴメンなまえ!」
「とりあえず五教科ね。もう、抜けてるのはいつもだからいいけど点はしっかり取りなよ?」
慌てて手を合わせてくる友人に向けて、教科別に纏めた分厚くなった束を押し付ける。
試合出れないと困るでしょ、と睨めば、困る!、と素直に即答された。そういう正直さが嫌いになれない所以だ。憎たらしいことに。
「今度また好きなもの奢るから!」
「鯛焼き食べたい」
「ん、じゃあ部活なくてなまえも暇な日に行こう!」
練習がない日なんて殆どないくせに、取り付けられる約束。この手の約束が破られたことはないのも、また憎らしいこと。
何とも表し難い気分を胸に抱えながら、それじゃあね、と身を翻そうとした瞬間、素早く伸びてきた手に腕を捕んで止められた。
「あ、待って」
ひく、と息を吸い込みつつ振り向けば、頭頂近くに落ちてきた唇をくっつけられる。
指先を握り締めて動揺を殺す私に向けられるのは、屈託のない笑顔だ。
「ありがと、なまえ!」
ぎしりと強張る胸の内も知らない、その顔を張り飛ばしてやりたいと思う私は悪くない。
私は私の大切な友人を、葉山小太郎を許さない。
出会いは、高一の春だった。
高校に入学して割り振られたクラスで、席が近かった男子とよく話すようになった。会話を重ねる内に仲良くなるのは至って自然な現象で、特別なことではない。
同年代の男子達よりも無邪気で天然の気がある葉山小太郎という人間は、素直に可愛いと思える部分が多かったし、放っておけないことも多々あった。居心地自体も悪くなく、何となく離れ難かったから傍にいた。いすぎた。その結果がこの様だ。
無垢な子供のように正直なところのあるコタは、スキンシップを好んだ。
嬉しかったり楽しかったり、お礼を伝える時なんかにも、深く考えずに抱き着いてきたり、触れるだけのキスを落としてくる。
今のところ唇までは奪われてはいないけれど、時間の問題のような予感が犇々としている。
それに私がどんな思いをしているかも知らないで。満足げに笑うコタをあしらい続けるのも、嫌な習慣だ。
(気にするな)
深い意味はない、子供の戯れ。犬に噛まれたようなものだ。
いつだって、さざめく心を押さえ付けながら言い聞かせる。
振り回されない。その為には、理由を求めてはいけない。
深く深く胸に根付くよう言い聞かせている時点で、片足を突っ込んでしまっているということを認めたくはないのに。
負けたくなんてないのに、私という人間は故意には恋を選べないから救えない。
だから、葉山小太郎を許せない。
体育館で自主練習に励んでいた他の部員の視線が、目の前の男子の行いに自然注目する。その興味の目は当然私にも向けられて、一瞬にして泣きたくなった。
クラス内だけならまだしも、多学年多クラスの人間にまで見られて平気なほど私は図太くいられない。
「やめてよ」
さっさと退散しようと思ったのに。
面倒でも、コピーを渡すだけなら明日に回してしまえばよかった。歪んでしまう顔を手で覆い隠す。
彼女でもないのにキスされて、振り回されている。滑稽で馬鹿らしいことこの上ない。
当たり前のことだけれど、周囲の人間は私達の関係を勘繰る。それを否定するのは本人ばかりで、そのことがまたより一層私を惨めにさせた。
期待させる行動をしておいて、言動で潰してくるなんて酷すぎる。
簡単に落とされる唇から、次の瞬間にはただの友達だよ、なんて紡がれる。考えただけで胸を引き絞られるようだった。
「なまえ?」
「こういうの、もうやめて」
「えっ?」
顔を見上げなくても判る。きょとんと驚いたような表情を浮かべているのだろう。
判るから頭にくるのに、嫌えない。コタに悪気は一切ないのだ。
だけれど。態とではないからといって、許して受け入れ続けられるほど私の器は広くない。
「付き合ってもない人間に、こういうのやめてよ」
相手にその気がないのだ。こっちだって友人の顔をしていたいのに、脆い仮面は剥がれ落ちてしまう。
変なところで冷静な頭が限界だ、と訴える。もう、私は抱えきれない。
この天然に婉曲な表現で伝わる気はしないし、伝わっても振り回されなくなるなら、構わないか。
触らないで、近付かないで、揺さぶらないで。そう口にする。普通の友人関係なら今の二人は不自然だから。そういう行動は、ちゃんと好きな子を相手にしてよ。
涙混じりになりそうな声を絞り出す私に、それなのに、落ちてきたのは短い疑問符だった。
「えっ?」
「…なに」
何、その間の抜けた声は。
真剣に悩んで心を痛めている私に対して、軽すぎないか、その反応は。
反射的に睨み上げれば、やはりというか、きょとんと目を丸くした顔がそこにあった。
「あれ? オレ、なまえと付き合ってないの?」
そして、落とされた爆弾に一瞬にして頭の中が真っ白になった。
こいつは、一体何を言っている。
「………はぁあっ!? いつ私が、あんたと付き合ったって!?」
「えーっと…あれ?」
数秒の間で告げられた言葉を理解して、掴みかかる勢いで問い質した私は悪くないはずだ。
軽く宙に視線をさ迷わせるコタは首を傾げて頬を掻いていた。
そういえば何も言ってなかったっけ?、と呟く奴に悪意はない。悪意はないから質が悪い。
「うーん…じゃあ、付き合おうなまえ!」
「じゃあって何だよ!!」
涙も枯れてしまう。取っ手を握り締めていた鞄で思わず殴ってしまったけれど、私は悪くない。
「いった! ちょ、痛い痛い!」
「煩いわ! 今更煩いわ!!」
「今更って! そんなこと言ったってオレなまえ好きだもん」
「し、知らないそんなの!」
「何で!? 好きじゃんどー考えても!」
バシバシとぶち当てる鞄が重くなる。だから簡単に、言わないでほしい。
胸にかかる負担はぐっと重くなって、違う意味で泣きたくなる。
「そんなの、言われたことない!」
「うっそだー! オレ絶対何回か好きって言った!」
「いっ…だっ、だってそんな、言ったとしても友達としてだと思うし!」
「何で!?」
「何でってっ」
何で、なんて。それを認めてしまったら、本当に馬鹿じゃないか。
深く考えないように、気にしないように、友人らしく振る舞っていた私の苦労が無になってしまう。
「そっちだって、言ってたとしても何で付き合ってるって…私返事とかした覚えないし!」
「嫌がらなかったしキスしても平気そうだった!」
お前の頭の中じゃ平気イコール好きなのか…!
実際好意は否定できないけれど、ツッコミを入れずにはいられない。イコール交際中だなんて公式は、絶対にない。
「ちょっと待って、それならなまえは友達にならあんなにされても平気なの!? オレそれやだよ!?」
「はっ!? だ、だから、平気じゃないから…やめろって言って」
「あ、何だーびっくりした。よかった、オレ以外にもさせてんのかと思っちゃった!…って、あれ? でもそしたら、どーゆーこと?」
一瞬だけ険しくなった表情が、またころっと戻ってくる。
それだけの変化で、悲しいほど察してしまった。天然なりにこいつは本気だ。
そしてその勘も悪くはない。
でもなまえもオレ好きだよね、とあっさり言ってのける口に、身体中が震えた。
「片想いのつもりだったとか?」
「っ……う」
「なまえ?」
「煩いわ!!」
馬鹿みたいだ、本当に。泣くほど悩んだ私を馬鹿にしている。
コタ本人にその気はなくても、私が滑稽に振り回されていることは結局変わらない。
「ほ、本気に見えないコタが悪い…っ!」
惨めではなくなったけれど、耐えきれない。
最初からあった周囲の視線が本格的に集中しているのが辛すぎて、逃げ出したい。
今度こそ踵を返して入口から遠ざかろうとしたのに、がっしりと肩を掴んできた手が許してくれなかった。
もう、顔は熱いわ視界は潤むわ散々だ。誰にもこんな姿、見られたくないのに。
「ねぇ、本気でオレなまえのこと好きだし、両想いだし、彼女だと思いたいよ?」
「うっ、煩いっ…もう、何よそれ…っ」
今更、何だ。散々引っ掻き回した心を、また変に期待で舞い上がらせて。
おかしくなった私を他人にまで見せ付けて、羞恥心まで限界近く引き出して。
苛つく。悔しい。嫌わせてくれない。
もう許さない。絶対、葉山小太郎を私は許さない。
「ねーなまえ…いだっ」
「ちゃんと……付き合ってくれなきゃ、許さないからね」
埋め合わせは、きっちりしてもらう。
強めに抓ってやった頬は、悔しいことに私の睨みを受けてもまたすぐにへらりと弛んでいった。
コレクトミステイク「でもちゃんと付き合うって、オレ今までもそのつもりだったからよく分かんないや」
「それは……手繋いだり、抱き締めたり、キスしたり、とか…」
「全部したことあるけど」
「友達と彼氏じゃ全然意味が違う…!」
「んーじゃあ全部やろう! 今度からなまえもちゃんと彼氏って思ってよ」
そしたらすっごい嬉しくなるよ。
まずはもう一度と髪に落ちた唇は、確かにどうしようもなく柔らかく心に納まった。
*
企画『
kiss to...』に提出させていただきました。
20140311.