表に出す出さないの差異はあったとしても、人は個人の美学を持つ生き物だと思う。
「またなの」
防寒にはめていた手袋を登校してすぐ自分の席に座り様に外すと、呆れきった声が上から降ってきた。
「玲央、おはよう」
「おはよう、じゃないわよ。また今日は随分とでかいの拵えてきたわね」
整った眉を顰めてもその美貌は損なわれない友人は、基本的な育ちが良いというか、学校のある日は毎日きちんと挨拶を交わしに近付いてきてくれる。
その上目敏くもあるため日々の変化には敏感で、詮索や口出しを躊躇わない性質が私としては少しばかり苦手だったり。
優しい人だとは、解っているんだけどね。
「癖だからねー」
不愉快げな視線がいくつかのバンドエイドを貼った左手に落ちると、逃げ出したい気分になる。
隠すと余計に機嫌を損ねることを知っているから、普段通りには振る舞うのだけれど。それもまた、友人には気に食わない態度に含まれるらしかった。
というか、このバンドエイドが剥がれない限りは厳しい指摘姿勢を崩してはくれないのだろうけれど。
「よくない癖だって言ってるでしょう。治しなさい」
「治せと言われても…」
癖というものは、そう簡単に自分で治せるようなものでもないし…。
困りきる私を高い位置から見下ろす友人は、今日はどうしてかいつも以上に手強く、譲る気がないらしい。
美人が起こると迫力あるなぁとぼんやり見上げる私にまた眉を吊り上げて、不意に手を伸ばしてきたかと思うとその長い人差し指で眉間をぐりぐりと押し潰してきた。
「いーい、なまえ。今日という今日は許さないわよ!」
「い、いたいいたい」
「次にまたそれ、増やしでもしてみなさい。もうアンタと口利いてあげないんだから」
「ええっ?」
そんな横暴な。
冗談でしょ、と見つめ直した友人の顔は他人をからかうような表情はしていなくて、気圧された私はうぐ、と喉を引き絞る。
玲央に口を利いてもらえなくなるのは困る。何だかんだで、一番私の話を聞いて仲良くしてくれている友人なのだ。
だったら言われた通りに癖を治すべきなのだろうけれど、それはそれで堪えきれる気もしないのが正直な気持ちで。
「別によくない…? 誰からも気付かれてもないし、誤魔化せるレベルだし」
「誤魔化しが利くとか利かないとかじゃないのよ。解らないの?」
ずいっ、と寄せられた今にもキレそうな迫力ある顔に、背中が強張る。
「わ…解ります」
考えるより先に、危機感からこくこくと頷いた私に、一応今のところは許してくれる気になったらしい友人は姿勢を正しても冷ややかな目はそのままで、怒りを溜め込んでいる。
仕方のないことだと解っていても、怖い。見目は美しいのに猛獣に睨まれているような気分になるのだ。正にレオ、なんてふざけるような余裕もない。
「解ったらそうしなさい」
「うー…」
「女が簡単に傷作るんじゃないわよ」
ああ、これは本気で我慢の限界らしい。
普段よりも婉曲されない指摘に、逆らう気力を奪われた私は苦い笑みを口許に貼り付けた。
誰もが誤魔化されてくれる私の傷を、見破ったのは今のところ一人だけだ。
鍵を閉めて毛布を被って、耳にはヘッドホンをあてて課題を済ませるために勉強机に齧り付く。私の鼓膜は震わされないのに、流れるバックミュージックに低い怒鳴り声が僅かに雑ざってくるのには、今夜も滅入ってしまう。
別に自分を卑下したいわけでも、憐れぶりたいわけでもないけれど。人が人を傷付ける声や言葉が肌に馴染むようなことは、いくら時間が経過したところで、なくて。
つい口元にやってしまう、赤黒い点々とした痣が並んだ左手の甲を改めて見つめると、朝にお説教を落としてきた友人の顔が思い浮かんだ。
(噛んじゃ駄目、か)
これも現実逃避手段なのに、酷なことを言うと思う。
大事な友人である玲央と話せなくなるのは嫌だけど、それなら苦しい時はどうすればいいのだろうか。
人の怒鳴り声に混じって、陶器の割れるような音が心臓を刺してくる。これを紛らす手段は、どこにあるのか。
「バレちゃったしなー…」
毛布を全身に巻き付けるようにしてみても、現実から逃げられるわけでもないけれど。
そもそもこの傷を知られてしまったのが失敗だったのだ。自傷行為は、他人に気付かれるようなものであってはいけない。それが私の自覚する個人的美学の一つだったはずなのに。
同情を引くためにこんな恥ずかしい現状を晒すなんてリスクが高過ぎる。誰かに気付いてもらえたところで、どうせ他人の力の及ぶ範囲なんて大したものでもない。
痕だって、判りやすい傷であればあるほど、自分の弱さや恥を晒すだけにしかならない。まともな人間には遠ざけられて腫れ物扱いをされるのがオチだ。
それでも、痛みが必要な時もあるから。
胸の痛みを麻痺させる為に、呼吸を保つ為に、生きる為に、正気を持続させる為にそれと知られないような傷が欲しい瞬間もあるから、いつからか痣が残るほど、血が滲むほど自分の手を噛んで遣り過ごす時間が増えた。
誰かにバレても、動物に噛まれたとでも言えば誤魔化せる。料理をしていて切った、なんて嘘も何度も吐き出してきた。
少なくとも、単純な思考をした周囲を取り巻く人間には、訝しまれることもなかったというのに。
「馬鹿」
玲央の、馬鹿。何で気付くの。
お陰で今夜は眠れそうにないじゃない。
八つ当たりに、ノートの書き込んでいないページに汚ない字を走らせる。
実渕玲央、許すまじ。
翌朝私の最悪の顔色を引き出す原因となった友人は、増えていないバンドエイドと私の顔を見比べると盛大な溜息を吐いた。
「何よその顔、いつにも増して最悪じゃない」
「お陰さまでねー…」
いつも以上に不細工で悪かったね、と言い返す気力もない。
精神的ダメージと眠気に侵された身体を机に埋めていると、悪びれもしない友人は机の左横まできてしゃがんだかと思うと、精気の搾り取られた私の頬をまた長い指で突いてきた。
「お馬鹿さんよね、本当に」
どうしようもない、呆れた、という響きを感じ取って、ここまで頑張ったのにと涙が滲んだのは許してほしい。
誰の所為でこうなったと思ってるんだ実渕玲央。やっぱり許すまじ。
顰めた顔を腕に埋めようと逸らしたところで、左手を掴んで引き寄せられる。
振り向く気になれず、空いていた右手に目蓋を押し付けた瞬間、柔らかい熱の感触とそれを追うようにじんわりとした痛みが手首に走って驚いた私は飛び起きた。
「な、に…」
「ご褒美」
にぃ、と吊り上がる口角が、熱を残した左手首から離れる瞬間を見てしまった。
それから紅く残る、今できたばかりの鬱血も。
「は…っご、ご褒美…?」
「私の言いつけ通り、なまえはちゃんと頑張ったんでしょう?」
これくらいはね、とにっこり微笑む友人に対して、目を剥いてしまう私がおかしいのか。
傷は傷でも、美しくなくちゃ。
そんなことを宣う友人は、机の影で人目に触れないことをいいことに、今度は私の見ている前で紅い痕を濃く色付ける。
「それが玲央流の美学?」
悔しいけれど、見せ付けられているようでどぎまぎしてしまう私を見上げる玲央は、艶やかな黒髪を揺らすととても綺麗に目を細めた。
「そんなところかしら。まぁ、だから」
傷が欲しいなら、いくらでもつけてあげる。
そんな蠱惑的な囁きを、はね除ける余力は私にはなかった。
紅い傷痕「きっと今夜はよく眠れるわよ」
逆に眠れないわ、というツッコミすら、きっと聞き入れてもらえはしなかったけれど。
*
企画『
kiss to...』に提出させていただきました。
20131114.