他人に対して過度に関心を持たない、都会の風潮は嫌いではない。
面倒事にわざわざ首を突っ込むのは物好きのやることだとも思うし、波風立てずにやっていけるならそれはそれでいい生き方だとも思うのだけれど。
私自身はあまり、そんなスタンスを貫くのは得意な方でもなかったりする。
こういうところ、よくお節介だと怒られたなぁと、私と中身が同年代だった方の親友の顔を思い浮かべながら溢れそうになる溜息を飲み込んだ。
これから顔を合わせる予定の方の親友なら、奏ちゃんらしいねぇと笑ってくれるのだろうけれど。
どうして今こんなことを考えているのかというと、答えは簡単だ。
満員とまではいかない、つり革に掴まっている人もぱらぱらと見掛ける電車内、啜り泣いている幼い子供を放置して、スマホを弄り続ける母親らしき人間がドア前に立つ私の真正面に立っているからだ。
(この距離で見てみぬふりはきついわー…)
こういうの、何て言ったっけ。DQN? よく知らないけど。
幼気な少年の頬に流れる涙を見てしまうと、可哀想で仕方がない。
同じ車両に乗り込んできて、十数分。一向に子供に目を向けない母親の気を引きたかったのか、何らかの発見を伝えたかったのかは知らないが、幼いわりに大人しく窓の外を眺めていた三、四歳ほどの少年は彼女を見上げて話し掛けようとした。
しかしお母さん、と一声呼んだ瞬間に煩いとあしらわれて、彼の声は途端に泣き声に変わった。そうすると今度は、恥ずかしいから泣くなだなんて理不尽な理由で彼女は子供を叱り付けた。そんなことがあったのが、一分ほど前だろうか。
いや、さすがにこれはないわ。
車内の四方から集まる痛々しいものを見るような視線に気付かずに、また手元のスマホに集中する母親。
そして理に敵わないお叱りでしくしくと涙を溢している子供を見兼ねて、全く関係はないのだけれど、つい私はしゃがみ込んでしまった。
面倒事は御免でも、子供の涙は無視できない。しかも理由が理由だ。
数歩で届くような近い位置で急に膝を折った私に、気付いた子供の視線がばちりと重なった。
さてどうしようか、考えながらとりあえずは警戒されないよう笑って、顔の近くに持ってきた手をぐーぱーさせてみる。
きょとんと目を瞠った子供の目尻からぼろりと大きな涙の粒が落ちたけれど、その後は続かなかった。
数秒、私を見つめた少年は母親と私に交互に目をやって、自分を気にしていない母親の様子を確かめるととろとろと足を進めてくる。
しゃがんだままでいる私の目の前まできた少年にこんにちは、と頭を下げると、同じようにお辞儀を返された。母親と似てない、素直ないい子だ。
「何か見つけたの?」
目もとの涙を擦って拭う少年に窓の外を指差しながら訊ねれば、その大きな目がぱっと開かれる。
「あっ…」
一瞬輝いた瞳が、はっと息を飲んだ後に俯く。母親に煩い、と言われたのが効いているのかもしれない。
こんな小さい内から空気を読んでいるなんて、偉いを通り越して悲しいものだ。
大丈夫だよ、と笑ってみせても、不安げに垂れ下がった眉はすぐにはもとの位置には戻らない。
「お姉ちゃんは、聞きたいなぁ」
「…でも、」
「もし怒られたら一緒に怒られてあげる。ね、だからお話相手になって?」
もし本当に怒られたりしても、周囲の目がある。恥をかくのは母親だろう。
その怒りがこの子に向かわないよう、手段を考えるのは中々骨が折れるけれど、だからといって泣いている子供を放置するのも嫌なのだから仕方がない。
ね?、と首を傾げながらもう一押しすると、少年はおずおずと頷いた。
そして私の寄っ掛かっていた手刷りに自分も掴まると、もう片手の小さな人差し指で窓の外を指差す。
「ビルのいちばんうえにね、さっき、はだかのひとがいたんだよ」
「…ぶふっ!」
想像もしていなかった語り出しに、思わず私は吹き出した。
そして近場に座っていて話が耳に入ったらしい他のお客さんが、数人振り返った。
いや、これは振り向いても仕方ない内容だわ。
「ほ、本当に? 何してたの?」
「ほんと! ほんとに、ズボンだけはいたおとなのおとこのひとが、いちばんうえでおどってた」
「っ…ふ、…ははっ…」
「ほんとうだよ!?」
「そ、そっかー…っ…よく見つけたねぇ」
それ何のプレイですかお兄さん。
肩を震わせて笑いを最小限に堪えるのは、多分私だけじゃない。
現に座席の端、私の一番近い位置に座る背広の男性がわざとらしく咳をしている。確実に、笑いを誤魔化している。
子供の発見は時に恐ろしいなぁと思いながら、しばしその会話に乗っかることにした。
「それは、何してたんだろうね」
「そらとぶじゅんびだよ」
「裸で踊って? そのまま飛んだらみんなびっくりしちゃうね」
「あれ、おどりがおわったらひかって、へんしんするんだよ。そらとぶかいじゅうになるの」
「…それは凄い」
「すごいよね」
凄いのは君の発想だわ。とは言えないので神妙に頷いておくと、向かい側の座席の端にいたお姉さんが堪えきれないという風に震える背中を丸めた。
解ります。私も丸まって吹き出したい。今すごく腹筋使ってるもの。
「かいじゅうになったらあばれだして、なんでもたべちゃうんだよ」
「わー怖い。そんなのみんな困っちゃう」
「でもね、そしたらぼくがいちげき、パンチでやっつけるの」
「強いな!」
つい素でツッコミを入れて、自分の声の大きさに一瞬で恥ずかしくなった。
いかん。冷静さが足りないわ。
最早泣いていたことさえ忘れたらしい少年は、車内にほのぼのした空気を運び込んでいる。
裸の男性とやらは、本人の預かり知らない場所で中々いいネタになってくれた。
「おねえちゃんがかいじゅうにたべられても、たすけてあげるからね!」
拳を突き出してそう宣言する小さな勇者には、自然とこちらまで笑顔を引き出される。
「かっこいー! じゃあ私は安心して助けを待ってるね」
うん、と元気よく頷いた少年は、いつの間にか居心地悪げに見下ろしてきていた彼の母親に連れられて、私の降りる二駅前で降車していった。
りく、と呼んだ母親に手を引かれて扉から出ていく間際、大きく手を振って。
「またねっおねーちゃん!」
また、なんて偶然はほぼ起こらないだろうけれど。
そんな野暮な理屈なんて語る必要はない。
「またね、りくくん!」
輝かんばかりの笑顔で別れた子供に、ほくほくと温かい気持ちが込み上げた。
これから会う親友と接するのに、僅かに緊張していた心も解れた気がする。
いい土産話もできた、と緩む頬を片手で揉みほぐしていると、不意に目の前の扉に影ができる。そして背後に感じた人の気配に不思議に思って振り向くと、見たことのないグレーの制服を着た涼しげな風貌の学生が、顔を真っ赤にさせてこちらを見下ろしていた。
「……あ、あの、何か?」
背後は扉、近場に立つ人はいなくなった。となると、その視線の先にいるのは間違いなく、私で。
見覚えのない顔だけれど、もしかして記憶にないだけで、こちらの私は出会ったことがある人だったりするのだろうか…と若干焦りが込み上げた。その時だった。
「き…きっ、君は、」
「は、はい?」
ぎこちなく動く表情筋を気にしなければイケメンの部類に入るその人は、何故かがしりと勢いよく私の手を掴んだかと思うと、車両中に響く声で宣った。
「君は、天使…いや、女神か!!」
見つけたオレのアフロディーテ…!
ただいま、解析不可能「……はい?」
数分前の子供の発言の比にならないレベルで、車両中からの視線をびっしりと受けてしまった私は固まった。
20131116.