堰を切って溢れだした気持ちは、弱くて小さくて、吹いたら飛んでしまいそうな、そんな似合わないものだった。
少しずつでいいから、近づこうと思った。
怖がらせてしまわないように、泣かせてしまわないように…オレにしてはたくさん考えて、どこまで近づくのなら許されるか、どれぐらいの時間なら話しかけても逃げられないか、注意しながら少しずつ、近づけていけたらいいと思っていた。
でもその子、ゆあちんはやっぱりオレが近付けば身体を強張らせるし、目だって中々見てくれない。
笑ってくれたらいいなんて、あんまりにも遠すぎる願いだったのかもしれない。
赤ちんには相談しなかった。
今ゆあちんに近づくことを止められても、絶対に我慢できないと思ったから。命令を聞けないんだったら最初から聞かないでいるしかない。
だから本当に自分で全部気を付けるしかなくて、お菓子を食べている間もずっと考えて考えて考えて、ゆあちんが友達に向ける笑顔を遠くから眺めていたら、クラスメイトに肩を叩かれたりもした。あれはちょっとイラッとしたけど。
ゆあちんが喜ぶことって、何なんだろう。
喜ぶことをしたら、笑ってくれないかな。
そう思ったりもしたけど、ゆあちんの好きなものなんてオレは知らないし。
オレが嬉しいことをしても、ゆあちんは戸惑うだけで笑ってはくれなかった。
お菓子をあげても、話しかけても、頭を撫でても駄目。
怖がる中に申し訳なさそうな顔までされて、全然うまくいかない。
やっぱり駄目かな。
考えれば考えるほど頭の奥がくらくらする。
いっそのこともう一回赤ちんに相談してみようかと思っていたところで、放課後部活に向かう途中、別クラスの教室の前で立ち止まっているその子の後ろ姿を見つけた。
何をしてるのかと思って近付いてみたら、その教室から聞こえてきたのはオレへの僻みとゆあちんを馬鹿にするような言葉で。
思わずオレがその教室に乗り込むより先に、絶対に怯えているだろうと思っていたその子の足が踏み出されていた。
泣くと、思ったのに。
多分、オレのせいで巻き込まれて悪意を浴びせられたゆあちんは、小さな身体でも真っ直ぐに、男子生徒の固まりに向き合った。
オレを、庇うようなことを言って。
(どうしよ…)
どうしよう。目眩がする。
泣いて怯えて逃げるだけの女の子が、オレのために怒った。
あり得るはずがないことだった。信じられないことだった。
(ああ、もう)
駄目だ。
どこかにいるもう一人のオレが、絶望の声を上げた気がした。
「好き」
抑え込むのも隠し込むのも、もう限界。
オレを怖がるのに認めてもくれるこの子が、どうしても、どうしても欲しくて堪らなくて。
一度吐き出した好きはすぐに空気にとけて消えてしまったから、何度も何度も、壊れた玩具みたいに好きとごめんを繰り返した。
嫌がられるのが、逃げられるのが怖くて、相手の言葉を遮って小さな手を掴んでいたら、しばらくの間衝撃に固まっていたゆあちんは少しずつ、元に戻り始めた。
困惑と、恐怖に染まる目が、オレを写してゆらゆらと揺れる。
「紫原、くん…それ…」
「…好き」
「っ、あの…からかって……は、ない、よね…」
「からかってない…嘘じゃないし。ゆあちんが好き、だし…」
信じてくれないの。
喉から競り上がる不安に顔が歪むのが判る。
そんなオレを、珍しいくらい真正面から見つめ返してくれたゆあちんは、ぎこちなくもゆっくりと首を横に振った。
「そんな、無駄なこと‥紫原くんはしないよね…」
「しない」
「そ…か。そう……でも…」
「やだ。聞きたくない」
「え…?」
続く言葉なんて、分かりきっているから。聞きたくなくて、首を振った。
これ以上避けられたくないし、駄目だとも思いたくない。
知ってるんだから、言わないで。
ゆあちんが、誰よりオレを怖がってるって、知ってるんだから。
片手では耳は塞げないからそうやって拒絶すると、ゆあちんは少しの間黙りこんで、それからうん、と頷いた。
「…じゃあ、紫原くんかどんな気持ちになるか、試してみよう、かな」
「……どういうこと…?」
「紫原くんが私に言ったことと、同じようなことを…私、返してみる」
そうしたら、少しは近づけるかもしれないから。
同じ気持ちを知ってくれたら、少しは頑張れるかもしれないから。
自分も不安そうな顔をしてそんなことを言うゆあちんが、何を言っているのかオレには理解できなくて眉を顰めた。
いい予感なんか全然しない。いいことなんか起き得ない。
そんなことはもう解っているから拒むこともできたはずだけど、でも、拒んだらきっと、それこそ本当に全部駄目になる気がした。
「ごめんね」
話し出す前に一言だけ、悲しそうな顔をしたゆあちんに謝られた。
その意味を、オレは身をもって知ることになる。
「何を考えてるのか解らないし、悪いこともいいことも判断しないで酷いことを言う…紫原くんは怖いよ」
一瞬、何を言われたのか解らなかった。
何が起きたのか解らないくらいハッキリと、言葉に心臓を突き刺された。
ぐさり、と。
「大きな背丈も踏み潰されてしまいそうだし、据わった目で見られると、見下されてるみたいに感じる。ゆっくり喋る声も威圧的だし、傍に寄られると逃げたくなる」
「紫原くんが近寄ると、胸が引き絞られるみたいにずきずきする。喉もひりひりして、身体が震える。だから嫌なの」
「泣いたら絶対、君はうざいって言うから。だから、泣きそうになるから、嫌なの…」
泣きそうな顔をして、棘だらけの言葉を吐き出したゆあちんの手が、ずるりと抜けていく。
違う。オレの手から力が抜けたんだ。離したのは、オレの方だ。
(なにこれ)
何これ。何で、息ができないんだろう。
怖がられてるのも嫌がられてるのも、知ってたことなのに。
「………ったい…」
「紫原く‥」
「いたい…やだ、やだよこれ…いたい……っ」
錆び付いた鋸で分断されかけているような、死ぬギリギリ手前で生かされているような痛みは、こんなものかもしれない。
言葉が染み込むほどに痛くなる心臓を、制服の上から掻き毟った。
塞がる喉を抉じ開けて呼吸するオレを見つめて、ゆあちんは静かに頷いた。
「…うん」
「っ…いたい…いたい…こんなっ‥」
こんな、痛かったの。
ゆあちんは、こんなに、オレのせいで痛かったの。
息が、できない。心臓が潰される勢いで締め付けられて、それから足、手先にまでじんじんとした痺れが走って、頭がくらくらする。
こんな思いを、感覚を、オレはずっとこの子にさせていたんだ。
理解してしまった瞬間に、膝から力が抜ける気がした。
「っ…ごめん………いたいよ、ゆあちん…」
「………うん…痛い、ね」
「ごめ、……っう、も、やだ…」
こんなの、逃げたくなって当たり前だ。
赤ちんはこれを知ってて、オレに近寄るなと言ったんだ。
近づけばゆあちんが痛がるから。近づくだけで害だから。オレは、この子を苦しめることしかできないから。
やっと解った答えは、解ってもどうしようもないものだった。
力が抜けた頭がその肩に落ちても、ゆあちんは何も言わなかった。振り払ったりはしなかったけれど。
(やっぱり、駄目だ)
笑えるわけ、ない。笑いかけてもらえるわけがない。
だって、今でもオレの頭を支える肩は、小刻みに震えている。
近寄るだけでこうなるくらい、この子はオレが怖いんだ。
理解して、横から殴られるような痛みを、頭に感じた。
「……ゆあ、ちん…」
「……うん」
「オレ、色々わかんなくて…でも今、すごくいたいし、くるしい」
「うん」
「これは…信じてくれる…?」
嘘だと言われたら、信じてもらえなかったら、どれだけ苦しいんだろう。
判らないけど、立ち上がれなくなるんじゃないかと思う。
涙がゆあちんの制服に染み込んで、これも嫌がられてるのかと考えて、首を掻き毟りたくなるような衝動に駆られた。
だけど、震える喉から絞り出された声は、弱々しいのに冷たくはなくて。
「うん…きっと、痛いんだったら、本当だね」
躊躇いがちに挙がった手にゆっくりと頭を撫でられて、驚いて顔を上げたらその子は泣きそうな顔で笑っていた。
笑って、いた。オレに。
絶対にオレには向けられなかった顔。
柔らかくなくて、痛そうで、だけどそれでも何でもいい。
(笑ってくれた…)
オレを見て、笑ってくれた…!
どくん、と、身体の真ん中で何かが蠢く。
溢れ落ちていた涙がゆっくりとおさまって、視界がはっきりと広がっていく。
「少し、だけ…解った。紫原くんのこと。まだすごく怖いけど……」
「ゆあ、ちん」
「少しずつ…だけど、頑張ってみる。でも、怖いから…もう、あんまりひどいことは、言わないでほしいな…」
「っっ……言わないっ…絶対、言わない…!」
約束する…!
叫んだオレに一度ゆっくりと瞬きをして、ゆあちんはそっと、頷いた。
怖いのに、近寄ることを許してくれた。オレの言葉を信じようとしてくれてる。
それが多分、今度は嬉しくて、ぎゅうぎゅうと心臓を押し潰されるような感覚に息が止まってしまいそうだった。
幼心に芽吹く花 side:B怖くても、苦手でも、近づく努力を選んでくれた。
その子は不器用で弱くても、とても優しい人だから。
20120807.
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