「ゆあちんに、折り入ってお願いしたいことがあります」
「…はい?」
午後までの講義を終えてからお邪魔した彼の部屋、笑顔で迎えてくれてからの唐突な申し出に、つい反応が遅れてしまった。
畏まった態度をとる敦くんはというと、床に正座の体勢でいかにも本気というオーラを醸し出している。
一瞬、迫力に押されて腰が引きそうになったけれど、なんとか押し止めて視線を合わせた。
「えっと…ことにもよると思うけど、お願いって?」
「これ…」
まず、何をしてほしいのかが解らないと判断のしようもない。
正座を崩さない敦くんの真ん前に同じように腰を下ろすと、そろりと、近くに置かれていた紙袋を差し出された。
これ、って、中を見ろということか。
じっとこちらを窺ってくる視線の意味を何となく捉えて、促されるままに中身を取り出した。
「…これ?」
「着てみてほしいなー、って、思って…」
言いにくいのか、彼らしくないもごもごとした口調でのおねだりは、空気を張り詰めさせる真剣さと比べると然程難しいものでもないように思える。
そんなに必死になるほどかな…と、渡された紙袋の中から出てきたものを見下ろす。私の膝に広げられたのは、ふわふわもこもことした生地の淡い桃色のルームウェアだった。
肌触りからして、恐らく質も悪くない。長袖のパーカーとショートパンツのセットは、着用を躊躇うようなデザインでも何でもない。
ある一点、小さな特徴があるというだけで。
(うさ耳…)
確認すれば、尻尾も見つかる。
ショートパンツの後ろ、真ん中辺りにころんと付いた丸い玉がフード上に付けられた長い耳に合わせたデザインであることは、一目瞭然だった。
可愛いけど、どうしたんだろう、これ。
敦くんがわざわざ用意したの?
畏まってお願いしてくる辺りからして、偶然手に入れたものとは考えにくい。
柔らかな手触りは、少し癖になりそうなくらい気持ちがいいけれど。ふわもこした生地を弄びながら大きな身体を縮こまらせている彼に視線を戻すと、反応を待っていた敦くんはうぐ、と喉を鳴らした。
「だめ…?」
「ううん…別に、いいんだけど」
「いいの!?」
「うん。着るのはいいよ? 似合うかは分からないけど」
「似合うに決まってんじゃん」
疑いもしない、当たり前だと言わんばかりの真顔で返されると、さすがに苦笑いも浮かべてしまう。
決まってはいないと思うんだけどな…。
相変わらずの贔屓目が嬉しいような、居た堪れないような。愛されてるなぁ、ということは解るのだけれど、この恥ずかしさには慣れない。
「敦くん…前から思ってたんだけど、兎好きなの?」
何となく、会話を逸らしたくなって訊ねてみる。
以前にも何度か兎をモチーフとした物を勧められたことがあったのを思い出した。
特別動物が好きといったことは聞いたことがないし、印象にもないのだけれど。
質問に対してぱちりと一度瞬きをした敦くんは、迷うことなく否定に当たりそうな答えを口にした。
「ゆあちんが好きだよ」
「えーと、そういう意味じゃなくて…」
「まぁ兎自体も普通に可愛いとは思うけど。兎が好きってゆーか、ゆあちんが兎っぽいから?」
「ぽい…かなぁ?」
それも、いつか聞いた気がする。
これが猫や犬に例えられたとかなら、それっぽい性格のイメージは浮かぶんだけどな…と首を捻っていると、そろそろ痺れてきたらしい足を崩しながら敦くんは大きく頷いた。
「寂しいと死んじゃうとか言われる裏側で、単身で巣籠もりして冬を越せる感じとかー…すげー似てるよね」
「それ…褒めてないよね?」
「可愛いのに強かとか、ゆあちんっぽい」
見た感じ、馬鹿にしてもからかってもいないようで怒れない。
本気でそこが好きと言われてしまうのは、複雑な気分になるのだけれど。
(まぁ、いいか)
今は、恋人からのおねだりに応えるというのが科せられた任務だ。
オーケーサインを出した時点からわくわくと、いつもは眠たげな目を別人のように輝かせている彼の期待に添えるかどうかは、分からないけれど。
「じゃあ、着替えるから待っててね」
「はーい」
よい子のお手本のような返事をして座ったままくるりと身体を反転させた敦くんを確認すると、私は立ち上がる。
着替える前にもう一度、渡されたルームウェアを軽く眺めてみたけれど、躊躇いや拒否感が湧くはずもなく。
素直に着ている服…まずはカーディガンに手をかけて、ボタンを外し始めた。
ショートパンツに足を通して、素肌の上に羽織ったパーカーのファスナーを上げる。思っていた通り、手で触るだけでも気持ちよかった生地は、触れる肌に柔らかく優しい感触をもたらした。
脱いだ服を軽く畳んで、部屋の隅に纏めてしまえば一仕事終了だ。
多分被った方がいいのだろうと判断して、耳付きのフードもきちんと被った。よし、と頷いて、待ちきれない様子で揺れている背中に声をかける。
「敦くん」
着てみたけど…と続ける暇もなく、迫力ある巨体がぐりん、と回転する。
あまりの勢いに軽く固まりかけた私を見上げてきた瞳は、一瞬にして大きく見開かれた。そして。
「……かっ」
ダンッ、と。
次の瞬間に響いたのは、その頭が床に叩き付けられる音だった。
「敦くん!?」
「ゆあちんやばいほんとに可愛い…っ」
「ちょ、頭、おでこ大丈夫!?」
すごい音したよ今! 下の階に響いたよ絶対…!!
慌てて駆け寄って、床に突っ伏したままの頭を持ち上げさせる。肩を叩いて身体を起こすよう促せば、ふらふらと頭は上がった。そしてそのまま、何かに耐えるように大きな手で顔を覆ってしまう。
「めちゃくちゃ可愛い…飼いたい…このまま飼いたい…」
「かっ、飼われるのはちょっと」
困る…というか現実的に無理がある……。
冗談と思えないほどの切なる声に、つい本気で返してしまった。
手持ち無沙汰になって、なんとなく彼の肩を擦っていれば、深い溜息が吐き出される。そして意味もなく首まで振られる。
揺れた髪から覗いた耳や首は赤くて、想像していなかった反応に私も戸惑わずにはいられなかった。
敦くんがこんなに喜ぶのは、結構珍しい。
「そんなに好きなの…?」
やっぱり、兎が特別好きだったりするの?
フードから垂れ下がる耳を何気なく引っ張ってみる。確かに、私も可愛いとは思う。けれど、そこまで極端に衝撃を受けるものだろうか。
湧いてきた疑問をそのまま口に出せば、まだ赤い顔から手を下ろした彼はだから違うって、と否定してくる。
「見るからに可愛いのの中身がゆあちんなんだよ。好きっていうかなんかもう反則技なんだって」
「…う、うん」
何がどう反則なのか、やっぱりよく解らなかったけれど、水を差したいわけでもないので解ったことにして頷いておいた。
何にせよ、敦くんは喜んでいる。それなら、その他についてはどうだっていいだろう。
あまり可愛がられるのは恥ずかしいけれど、決して悪い気はしない。
「でも…着るだけでよかったの?」
「んー?」
「この格好で、何かしたいこととかあるのかと思ったんだけど…」
可愛い可愛いと噛み締めるように呟いている敦くんは、特に何かをしてくるでもない。本当に着せてみたかっただけのようだ。
私としては、もう少し何かしらしてあげたいような気持ちなのだけれど。
要望に応えはしてみたが、どうせなら労して喜ばせたい。
訴えはきちんと理解されたのか、目に見えそうなほど熱い息を吐いた彼は長い両手を軽く広げ、伸ばした。
「とりあえず抱き締めたい」
「…はい、どうぞ」
それでも、告げられたのはまた、ちっとも困らせられない要求で。
引き寄せられる前に膝立ちで進んで、そのまま少しだけ下にくる頭を包むように腕を回せば、私の背中と太股の裏にも同じように、一回り以上大きな腕が回される。
「うーわーやばい…気持ちいーし可愛いし…すげー幸せー」
天国ー、なんて言いながら首もとに頭を擦り付けてくる、獣のような仕種がつい、可愛く思えてしまう。
心底喜んでくれているのは、肌で感じられるくらいよく解った。けれど、それにしても…という気持ちが同時に浮かび上がる。
(大袈裟な…)
ぬいぐるみか何かのように抱き締めるだけって。これで満足って。
欲が少なすぎるにも程があるよ敦くん…。
もっと高度な要求をしても許される関係にいるのに、どうも私の恋人の幸せの水準は低すぎる気がしてならない。
背中と足を引き寄せるように回された腕は、本当に抱き締める以上のことをしてくる様子もないのだ。
「ねぇ、敦くん」
「んー?」
「これくらいのことなら、あんなに必死にお願いしなくても私いつでも付き合うよ?」
もっと、甘えてくれていいんだよ?
私が与えられる分はしっかり返したいと思うし、大事な人のお願いなら、よっぽどのことでなければ叶えてあげたい。
少し乱れた紫色の髪を撫でて整えながら口にすれば、くぐもった唸り声が柔らかな生地を通して、鎖骨の辺りに染みた。
「まぁ、ゆあちんはそうかもしんないけどー」
「うん?」
「甘えだしたら切りないし、際限なくなっちゃいそうだからさー…あんまり欲張り過ぎんのよくねーかなって思って」
「敦くんは全然欲張ってないと思うけど」
「それは違うし。言えないくらい我儘なだけ」
首と胸のちょうど中頃に乗っていた頭が持ち上がり、とろりと蕩けた瞳に覗き込まれる。とくん、と自分の心臓が存在を主張するのを感じた。
例えば、と囁いた彼の声は、距離が離れたはずなのに耳から入って内側から肌の表面に、じわりと私を侵蝕して広がっていくよう。
「ホントはこのまま、ずーっと部屋の中に閉じ込めて、一日中触って独り占めしたいくらいだからねー」
「……それは…」
普段と変わらない、のんびりとした口調なのに、温度の違いがまざまざと伝わってくる。
ああ、本気の例え話だ。それが解ると、ぶるりと、無意識に身震いしていた。
吐き出す息も、か細くなってしまう。
「息が、詰まるね」
「…うん。そーだと思った。ゆあちんに我儘全部明かすとか、絶対重すぎるし」
「あ、えっと、そうじゃなくて」
そうじゃない、という言葉に首を傾げた彼の頭を、再びゆっくりと撫でながら言葉選びに迷う。
背筋を駆け抜けていった刺激を、言い換えるには穏やかすぎるかもしれない。けれど。
「幸せで息が詰まっちゃいそうって、意味なんだけど…」
もし叶うなら、それもいいかなぁ…と。思ってしまったのが問題なのだ。
私が動物なら、相当危機感がなく頭の悪い、体のいい餌になりそうだ。いつかは捕食されてしまうと解っていて、猛獣の巣に身を置き続けるような。
「ばっ…」
救いようがないよね、なんて笑ってしまえば、目を真ん丸に瞠ってぽかんと口まで開けた、愛しい猛獣の腕に力がこもる。
「馬鹿じゃ、ねーの…もー……っ」
苦しいくらいの抱擁に、気道を保てないのに心の隅々まで満たされるものを感じて。本当にね、と頷いてしまう。
やっぱり私は、そんなに可愛い生き物ではなさそうだ。
貪る唇、その所持者意図を持って動き出す広い掌を、嬉々として受け入れてしまう辺り。
我儘だって全て独り占めしたくて堪らない、私の方がきっとずっと、貪欲な生き物だ。
20141012.
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