親しげに呼ばれる名前も、向けられる好意も。その口から滞りなく紡がれる言葉にも、違和感を禁じ得ない。
頬を撫でる手の感触を味わい、近付いてくる顔を見つめたまましっくりこない何かを感じていた。
ゆあ、と口遊む声はただただ優しく甘ったるいもので、決して不快感を感じたわけではなかったのだけれど。
どうしてか目の前の現実を素直に受け止めきれず、シャットアウトするように目蓋を閉じて、後退った。
「あ…起きた?」
「んん…?」
浮上した意識の中に、僅かな衣擦れの音が響く。それからすぐに、耳に馴染む低い声が鼓膜を揺らす。
思い目蓋を持ち上げて顔をずらせば、すぐ近くの床に座り込んでいたらしい大きな背中が振り返った。
「朝だよーゆあちん。まだ寝ててもいいけど」
おはよう?、と疑問符付きの挨拶をしてくる敦くんはそれまでの状態から体勢を変えて、ベッド脇に膝を立てるとこちらを覗き込んできた。
伸びてきた大きな掌が頬から髪にかけて、くしゃりと撫でてくれるのが気持ちがいい。つい、溜息が漏れてしまうほどに。
朝から、贅沢な気分だ。
久し振りに二人の休日が重なり、恋人の部屋に泊まり込んでいた今日、起きてからの細かい予定は特に組んでいなかった。
このまま惰眠を貪っても許されるだろうけれど、目に写る敦くんは既に着替えた後だ。せっかく傍にいられるのに、一人寝で時間を潰すのは勿体ない。
起きよう、と決める。それでも肌に触れるシーツの感触や鼻孔を擽る彼の匂いは心地よすぎて、もう少しだけ微睡んでいたい気持ちも膨らんでしまう。
幸せな気分で未だ近くにある大きな手に頬を擦り付ければ、微かに息を漏らして彼が笑った。
「どーしたのゆあちん、甘えたな気分?」
「んー…これだなぁ、と思って」
「これ?」
親しげに呼ばれる名前と、向けられる好意。頬を撫でる手の感触は肌に馴染みきったもので、このままキスをされても戸惑うことなく応えられる。
優しく甘ったるく呼び掛けられるのは中学時代から続いている愛称で、当たり前だけれどとてもしっくりきた。
軽く首を傾げながら私を見下ろしてくる瞳も、他の人間には中々見られない色をしている。
夢を見てたの。そう溢した私に、ゆっくりと瞬いてみせた。
「夢の中でね」
「うん?」
驚くかな。慌ててしまうかな。
寝起きに甘やかされて調子に乗っているのか、少しだけ意地悪な気持ちが顔を覗かせる。
素直に続く言葉を待つ敦くんの表情は、穏やかなものだ。けれどそれが私の一言で崩れ落ちることは、眠気の残る頭でも簡単に予測できることだった。
だけれど、口にしたい。聞いてほしい気持ちが強い。
夢の中の私はね、おかしかったの。大きな手が離れるタイミングで紡ぎ出す。
「敦くんじゃない人と、付き合ってたの」
「……願望…?」
がらりと、柔らかかった空気が崩れる。
夢は何とかの表れってやつ?
そう溢しながら、穏やかに弛めていた眦を決していく彼を少しの間観察した私は、数秒で堪えきれなくなって吹き出してしまった。
ああ、本当にぶれない。張り詰めそうな雰囲気は、正に予想通りだ。
笑い出した私に一瞬呆気にとられた顔をした彼は、それでもまたすぐに眉を顰めてみせた。
「は…ちょっと、何笑ってんのゆあちんっ?」
「ええっ? ふふ、だって、一瞬で顔色変わったから」
「こっちは必死なの! で…結局何なの。まさか他に好きな奴できたとかじゃないよね」
徐々に微睡みを抜けはじめた頭で、どうしようかなぁ、と迷う。
こうなると分かっていたことではあれど、私に詰め寄る彼の顔は大真面目なもので、申し訳ないけれどとても胸が満たされてしまう。
ここで肯定も否定もしなければ、敦くんはもっと焦るだろうか。真剣な顔で見つめてくる紫色の双眸を見返して、頬を弛める。
そんなところが可愛くて、愛しくて仕方ないのだけれど。
(さすがに、可哀想かな)
意地悪で確認しなくても、彼からの深い愛情はいつだって感じられている。
あまりからかい過ぎるのもよくない。私の台詞に衝撃を受けた時に落ちて、そのままシーツを握り締めていた拳を撫でるように、慰めの手を添えた。
まさか、そんなわけないでしょう。
筋張る手の甲を指でなぞりながら笑いかけると、険しい顔付きはほんの少しだけ弛められる。
「ただの脳の情報整理だと思うよ。相手の名前も顔も思い出せないし」
「…本当にー?」
「敦くんだって、私に嫌われる夢を見たことあったじゃない」
「それは…まぁ、そーだけど」
「それは願望じゃなかったんでしょう?」
「願望だったらゆあちんとこーなってないし」
訝しげなものから、苦々しいものへ。形を変えていく彼の表情は素直なもので、ついその頭を抱き締めたくなる。
寝転んでなければそうしていたかもしれない。何年経とうと敦くんは敦くんのままで、子供じみた性質は愛すべき一要素だった。
ああ、可愛い。やっぱり大好きだ。
心地好く胸を締め付けてくる感情にどうしても頬が弛んでしまう。ふにゃふにゃになっているであろう私を見つめ続けている彼はというと、まだまだ不満げな様子で。
でもさぁ、と唸るような声を溢す。
「さすがに、オレのベッドで寝てんのにオレ以外の男の夢とか見られたらさー…余裕なくすんだけど」
「あ…」
じとりとその目が細められたかと思うと、シーツに埋まったままの私に半分ほどのし掛かってくる。体重をかけないように両肩付近に置かれた腕の所為で、ぐっと距離が近付いた。
「敦、くん」
視界いっぱいに彼が写りこんで逃げ場もない。その顔から目を逸らしても太い首に目が行って、そこから繋がるシャツに隠れた肩や胸を思い出して、縮こまりたくなる。
ドキリと跳ね上がった心臓には、気付いているのかいないのか。子供っぽさに油断しきったところで仕掛けてくる敦くんは、たまにとても狡い男の人なんじゃないかと思う。
ぎしりと軋んだベッドの音が、やけに耳に響いた。
「見るならオレの夢にして。頭ん中オレでいっぱいにしてよ」
覆い被さるような体勢で額に柔らかく押し付けられた唇に、喉奥が詰まる。脳の奥まで擽られるようでぞくぞくした。
ああ、これは仕返しか。意地悪なことを言った私が悪い。
落ちてくる髪を視界の端に捉えて居た堪れない気持ちになる。
最初から、夢でさえ、敦くん以外の唇なんて受け入れられなかったのに。
「もう…充分いっぱいだよ」
これ以上なんて、破裂しちゃうよ。
欲しがる唇から飛び出した言葉は、どうしようもなく熱に浮かされた。
夢喰らい誰かも判らない夢の住人は、一口で食らわれ消えてしまった。
*
企画『
kiss to...』に提出させていただきました。
20140527.
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