彼女を最初に認識したのは、いつのことだったろう。
正確な日付までは思い出すことはできないが、同時期に一軍入りした仲間を介してその存在を知り、気にかけるようになったということは覚えている。
同じ一年で、特に目立つほど秀でてもいないマネージャー。しかし浮わついた気持ちを抱える様子はなく、真面目に与えられた仕事に取り組む姿勢は評価に値するものだと、知り行く彼女に単純に悪いイメージを抱くことはなかった。
人一倍彼女に関心のあった張本人、紫原の思考はそうは流れなかったらしいが。
「うっざ」
彼女を視界に入れる度、顰められる眉と吐き出される毒。
冷静に分析すれば、その態度が本心からのものかなど丸分かりではあったが、わざわざ正してやる理由もないオレは相槌を打つに留める。
「紫原は彼女が嫌いなのか」
「そー、だいっきらい。いっつも何が楽しいのかへらへらして、気持ち悪いし」
「そうか」
笑った顔は愛嬌があり、可愛らしい方だと思うが。
口に出せば琴線に触れる。それが解るから内心で呟く。
下手に刺激して部活動に支障を出さるのも困るため、本人に自覚がない内は放置することを決めていた。そもそも、此方から気付かせてやる義理もない。
損なものだと、呆れ返る気持ちはあっても。
「好意の反対は、何だと思う?」
「は?…嫌悪じゃないの?」
突然何だ、と瞳で語る紫原に、さぁ何だろうな、と返事を返して会話を終わらせた。
残念ながら、自覚するまでにはまだ暫くはかかるようだ。
*
基本的に、部活終了後は一人でいることが多い。
その日も例に倣い適度な自主練を終えて、着替えるために部室を目指していた。
扉まで数歩という距離まで来た時、通路の向かい側から急ぎ足でやってくる女子生徒を視界に捉えて立ち止まる。
「花守さん」
確か、そんな名前だったはずだ。
危なげない足取りで駆け寄ってくる彼女の両手にはビブスの山と、スクイズボトルの入った籠が抱えられている。
持てない量ではないが一人で運ぶのもきつそうなそれらを、恐らくは外の水道場辺りから運んできたのだろう彼女は此方に気付くと慌てたように肩を揺らして速度を緩めた。
「あ、えっと、お疲れ様です…っ」
おどおどとした態度でぺこりと頭を下げる、彼女の表情は固い。
そういえば、男子と話し込むところはあまり見掛けたことがなかった。もしかしたら苦手なのだろうか。
だとすると、接触は図らない方がいいか。
一瞬その荷物に伸びそうになった手は、近くに来ていた部室の扉を開ける方に向かった。
どうせ荷物の行き場もここだ。
「どうぞ」
「! あ、ありがとうございますっ」
中に着替え中の人間がいないことを確認して外に立ち尽くしたままの花守に声を掛ければ、僅かに肩の力を抜いた彼女は籠とビブスの山を部室奥の定位置に仕舞う。
ついでに周囲の備品を軽く見回してチェックするのも慣れているようで、軽く自分の眉が寄るのを感じた。
花守ゆあという人間が、よく働くことは見て知っていたことではあるが。
「随分と遅くまで残っているな」
「っ…え…」
「他のマネージャーはまだ早くに帰っていくのを見掛けたよ」
「あ…はい。皆、用事とか門限があるらしくて…」
ぴくり、震えた肩を隠すように愛想笑いを浮かべて振り向いた彼女は、恐らく気付いているのだろう。
悪意からのことであっても、一年から一軍入りを果たした紫原に絡まれている様子は目につきやすい。それを気に食わない人間も、少なくはない。
部員に直接関わることではないため細かな報告は受けていないが、仕事を押し付けられることくらい彼女にとっては日常茶飯事なのかもしれない。最悪、嫌がらせを受けているという可能性もある。
(哀れだな)
ここまで擦れ違っているのを目の当たりにすると、此方の方が頭痛がしてきそうだった。
知らぬ間に自分の身を削り続ける紫原も、哀れではあるが。
厄介な人間に勘違いからの嫌悪をぶつけられ、果てにはそれすらやっかまれて他からも八つ当たりを受けている彼女は、本来何の非もないだけ、余計に。
「あの、それじゃあ私はこれで…」
目立たないが、賢い部分もある彼女は此方の思考にも気付いたのだろう。顔を俯けて部室を去ろうとするその細い腕を、咄嗟に掴んで引き留めた。
びくりと、伝わった震えは無視する。
「辞めたいとは思わないのか」
今なら、逃がしてやれる。
あの厄介な恋心を自覚する前に。逃げ延びる道を示してもやれる。
何も、傷つく必要はないだろう。彼女が理不尽な傷を負う必要はない。
もっと穏やかに、それこそオレ達が向けられることのないような笑顔を、尽きず浮かべていられる未来だってあるはずだ。
(何を考えているのだか)
偽善者か、と自分の言動に呆れる気持ちもあった。
だが、使いようのある人間を一人部内から失っても、それが彼女なら惜しみながらも納得できた。
直接関わったことは少なくとも、彼女のことは見てきた。
紫原を介して認識した日から、その笑顔や仕種、性質から性格まで、この目に映してきたのだ。
「…辞めません」
だから勿論、答えも分かっていた。
傷を負っても、芯が折れることはない。柔らかな笑顔の裏に、確固とした意志があることも知っていた。
誰よりも、オレが知っていた。
それでも、彼女が苦しまずにいられる道を提示したくなるくらいには、無関心ではいられなかった。
「辞めろと、言われたならそれは、仕方ないのかもしれないけど…でも、私は…あなた達一軍の思考を本当には理解できなくても、バスケも、部員も、支えられるだけは支えたい。それくらいはちゃんと、好きだから」
「…そうか」
「あの…でも、心配してくれたんだよね…ありがとう」
困り顔で、固さを残して、それでも頬を弛めて微笑んだ彼女は、見た目よりもずっと強かだ。
だからこそ、崩れてほしくはなかった。
できることなら、笑ってほしいと思うほどには。
「花守が決めることだからな…それなら何も言わないよ。ただ、あまりにも度が過ぎる場合には報告した方がいい」
「あ、うん…それは、はい…」
落とされた礼だけはしっかりと受け取って、身を縮めつつも頷く彼女に微笑み返す。
こんな表情を晒すのは稀だが、今に限っては構わないだろう。
「ところで花守、好意の反対は何だと思う?」
「え…?」
掴んでいた手を離しながら問い掛けてみれば、ぱちりと瞳を瞬かせた彼女は一瞬黙り混む。
こんな不意な質問に対しても、疑問より先に結論を引き出そうとする順応力は好ましい。
「嫌悪っていうのは、安直だし…関心があるってところを考えると、無関心?」
む、と真剣な表情を作り答えを弾き出す彼女に、此方からそれ以上の言葉を返すことはなかった。
秘やかな視線一つ、賭け事にでも乗じてみようか。
期限はなし。ゲーム開始の合図は、あの男の自覚がいい。
自己の想いを受け入れ此方を牽制し、その上で協力を求めてきた時には力を貸してやるのもいい。率先して考えるべきは部の安寧。無駄な競り合いは好ましくない。
だが、そのどちらかが欠けていた場合。警戒を怠り彼女を傷付ける要素を残していた場合は、どうする。
その時は、
(オレが貰うのも、悪くはないな)
あの笑顔を、保たせられるのなら。
未来はどちらに転がるのか。
彼女を嫌っていると思い込んでいる男の胸中を読み、ほくそ笑むオレに気付く人間は未だ、いない。
20130514.
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