朝家を出る時には末端から冷えていく感覚を味わう季節でも、学校に着く頃には身体も温もってくる。
暖房の効いていない教室の室温が上がるまでには、もう少し人数と時間が必要かな…。
そんなことを考えながら鞄の中身を机の中へ移し変えていると、少し遅れてやって来た影がのそのそと近付いてくる。
隣に並ぶ席に、どさりと荷物を落とす音が響いた。
「おはよー…」
「おはよう、紫原くん……?」
覇気のない声はいつものことと言えばいつものことだけれど、それとは別に違和感を感じて顔を上げてみる。
ゆっくりとした動作で席に着いた彼は、眠たげな目蓋を伏せながら徐に大きな溜息を吐き出した。
何かあったのだろうか。
もう一度その目が開いて、視線が重なるとすぐに伸びてきた両手。応えるように差し出してみた私の両手が、彼のそれの中にすっぽりと包まれる。
大きな掌の触れた甲から、じんわりと人の熱が伝わるのは気持ちがいい。けれど…
「何か、元気ないね?」
「んー……ちょっと癒されたい」
「癒しって…わっ」
隣り同士の席に座りながら向かい合って膝を付き合わせれば、紫原くんの体躯では特に距離を縮めやすくなるのだろう。
軽く唸りながら落ちてきた頭が私の頭頂にぐりぐりと押し付けられて、驚いて軽く仰け反ってしまった。
ホームルームまではまだ余裕がある時間だから、教室にいる人数はそこまで多くない。けれど、全くいないということも勿論ないわけで。
二人きりならまだしも、人目がある場所でべたべたできるほど私の心臓は強くないし、未だそういう風な触れ合いには慣れていなかったりする。
彼の方は元の性格も自由奔放なところがあるから、平気かもしれないけど…!
「紫原くん、教室でこういうのは、ちょっと、あの…っ」
恥ずかしいから困る。誰かに見られていないのなら少しくらいはいいかと思うが、さすがに教室ではやめてほしい。
仰け反った後も気にすることなく続行しようとする紫原くんに、必死の目で訴えると物足りなげにしゅんとされた。
私だって、他人の目がなければ甘やかしてあげたいと、思うけど……
「いや?」
「い、嫌とかじゃなくてTPOが気になるっていうか…」
「んー…ごめん。でもこうでもしなきゃ、テンション上がんなくって」
「…何があったの?」
これはもう確実に、何もないということはないだろう。
見るからに朝から疲れきっている顔を覗き込んで訊ねると、一度考えるように宙に投げられた視線はすぐに私の元へ戻ってくる。
その間も、両手はしっかり彼の掌の中に収まったままだ。
「さっき呼び出し受けたんだよねー…すげーダルい感じの」
「呼び出し…先生に?」
「んーん。女子」
「……ああ」
答えを聞いてなるほどと、失礼だが頷けてしまった。
卒業が近付くこの季節、校内で目立っている同学年の男女が呼び出されているのを目にすることは増えていた。
紫原くんの乗り気でないところを見ると、恐らくはその手の話なのだろう。邪推にもならなかったようで、頷いた私に対して彼は駄々をこねる子供のように唸り声を上げた。
「ゆあちんいるのに行きたくなーい」
「…うん。気持ちは嬉しいけど、放置はよくないから」
「解ってるー。行かなきゃゆあちんが悪く言われかねねーし…」
でも面倒くさい、と溢す紫原くんは本気で嫌なのだと思う。
女子からの呼び出しに嬉々として応じられてもショックを受けるに決まっているのに…あまりにあからさまな反応には、つい私の方が苦い笑みを浮かべてしまったりして。
嬉しいような、勇気を出すつもりである何処かの誰かには申し訳ないような…。
まぁ、正直嬉しさの方が勝ってはいるのだ。そんな風に優越感を感じてしまう自分にも、少し苦い気持ちを抱いたりもするけれど。
(心が狭いなぁ…)
所謂、お付き合いをしている関係にあるだけでも幸せなのに、随分と欲張りになってしまっている。
これも目の前で我儘を溢してくれる、彼の影響だろうか。
「何で彼女いるって言ってんのに諦めないのか…意味解んないよねー」
「うーん…」
内心少しばかりに反省していると、私の困った思考を知らない紫原くんは今の話題を思い出させてくれる。
何で…か。彼なら違うのだろうか。
私に他に相手がいたら諦められるのかな…という、ちょっとした疑問を抱きつつ。その気持ちは横に置いて、軽く返答に詰まった。
彼が呼び出されたのが相手の恋心によるものでも、もしかしたら、その人物が今になって勇気を出す気になった理由を私は知っているかもしれない。
(言うべきか…)
楽しい話ではないけれど、黙っていると後からバレた時が怖い。私以外の口から伝えられた情報で、変に彼が傷付いてしまう可能性があるのはいただけない。
結論を出すのは早く、私は心を決めると姿勢を正し直した。
「あのね、紫原くん。聞いてくれる?」
「んー、なに?」
「えっと…その、実は私、昨日後輩の一人に告白されたんだけど」
「は?」
ぴしりと、弛められていた紫原くんの顔の筋肉が固まった。
まぁ、大体予想から外れない反応だ。
真顔で見下ろされるとさすがに迫力があるけれど、何とか私の方は笑みを保ちきる。
「はっ? 誰? 何で今更ゆあちんに…何処のどいつが!」
「落ち着いて。ちゃんと断ったから」
「え、あ、そっか。そーだよね……いや、それでも呼び出されたなら何で言ってくんなかったの!?」
「放課後に待たれてたから、紫原くん帰った後だったし…」
「何それ…オレやっぱ今日から一緒に残るし!」
「それは……紫原くんがいいなら、いいんだけど」
今話したいのはそこではなくて、と脱線しかけた話の路線を元に戻す。
昨日の補習後、生徒玄関で私を待っていたのは顔見知りであるバスケ部の後輩だった。
不必要な詳細はできるだけ省いておくが。とにかく、その好意を伝えてくれた一人の男子はその時、聞き捨てならない言葉まで同時に付け足してくれたのだ。
「問題は、告白の他に教えてもらったことで……怒らないで聞いてほしいんだけど」
「なに? オレが怒るようなこと言われたの?」
「うん…いや……何だかね、私達が別れたと思ってる人が結構いるらしい…みたいなことを」
だから、今なら受け入れてもらえるかも…と、思ったのだと。告白を断った私に、部の後輩はそう口にした。
一体どこから仕入れた情報なのかと、私もその場でつい突っ込んでしまったのだけれど。
「は?」
案の定というか、一瞬にして紫原くんの形相が悪化した。
眉間の皺を増やして、口角の下がりきった口からは低く冷えきった一音が漏れ出す。三年に進級してすぐの頃の私が見たら、確実に逃げ出していたと思われる顔付きだ。僅かに、背中に冷たいものが駆け抜ける。
本気で怯えたりは私もしなくなったけれど、機嫌を悪くした紫原くんの迫力は相変わらず凄まじいものがあった。
「別れてねーし!! 誰がんなこと言ったの!?」
「解ってる。解ってるから、落ち着いて。ね?」
「何でそんなデマっ…てことは、今日オレ呼び出したのってそのネタに飛び付いた奴ってこと…!?」
「う、うん…その可能性は大きいかなぁと思うけど…」
とりあえず落ち着いて、周りもびっくりしちゃうから。
何事かと集まるクラスメイト達からの視線に苦笑を返しつつ、私もびっくりしたんだけどね…とフォローを入れる。
まさか、そんな根も葉も無い噂が流れているなんて思わない。いざこざが立て込んだ時期は長かったけれど、だからこそそんなに簡単に、私の中から紫原くんを切り離すことはできないと思っている。
でも、事情を知らない人間にはそんな意識は伝わらないのだ。
紫原くんの、それまで開いていた口がぎゅっと引き結ばれる。
別れるつもりもないって、この間言ったばかりなのに。見下ろしてくる髪より濃い色の瞳の中に、不安を感じて私も溢れそうになる溜息を堪えた。
ああもう、仕方ないな。
「絶対…別れてねーし」
「うん」
紫原くんの方が馬鹿げた噂に踊らされるなんて、それだけ弱っているということだろうか。
しっかり肯定してあげると、握り締められて痛んでいた手から力が抜かれる。
これは私の口から先に言っておいて正解だったな…と、鈍く痛みの残る手や指から気取られないためにも意識を逸らした。
「今まで、結構分かりやすく一緒にいたから…ちょっと機会が減っただけで仲悪く見えちゃったのかもね」
誰の目にも分かるくらい、この春から紫原くんは私を優先して意識していた。
それが冬に入って目立たなくなってきたから、勘違いを引き起こしたのだろう。
その大元の原因は、私が時間に余裕をなくしている所為。それに付き合って邪魔せずにいようとしてくれている、彼なりの優しさによるところが大きい。
寂しくさせて不安にさせて、誤解までされるような事態になってしまって。
紫原くんを、散々な目に遇わせている。
本当に私も、仕方がない。
「ひどい誤解だよね。こんなに大事なのに」
「…ほんとだし」
ひどすぎる、と呟く弱々しい声に合わせて、きゅ、とまた強く手を握られる。
少しの痛みくらい、彼の胸を痛めることを考えればなんてことはない。
酷すぎるのは、きっと私が一番、そうなのだから。
推進するどうか、あなたへの想いだけは、この手を通して正しく伝わってくれたらいいのだけれど。
今はそれも高望みだろうとも、頭で解ってしまっていた。
20141118.
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