幼心の成長記 | ナノ




自習時間、出入りの自由な図書室に訪れてみたところ、本棚の向こうから小さな唸り声が聞こえた気がした。
それは本当に微かなものだったけれど、静寂を保った空間には充分に響く。
確かこの先も自習用の机が設置されていたはずだと思い出して、私は少し考えてから足を進めることにした。
そしてそのまま、棚の影から顔を出してみる。

音を立てないように、そろりと、ほんの少しだけ。
万が一体調が悪い人が唸っていたりしたら大変だ、と思ったのと、何となく興味が湧いての行動だったのだけれど。



「桃井、さん…?」

「うー…えっ?」



桃色の長い髪を揺らして振り向いた顔は、後ろ姿だけで判別できていたけれど、三年間見続けたマネージャー仲間のもので。
背凭れに寄り掛かりながら唸っていた彼女が、私を仰ぐ体勢のまま、その目を丸く瞠った。その顔色が取り分け悪いわけでもなさそうなことに、まずは一安心する。



「ごめんなさい。人の声が聞こえたから、何かあったのかと思って」

「あ、そ、そうなの。ごめんね、煩かった?」

「そんなには響いてないから、大丈夫。具合悪かったりしたら困るかなって思っただけだよ」

「あはは…ぴんぴんしてるよ」



軽く固まっていた身体が慌てたように正される。眉を下げながら困り顔で笑う、桃井さんの座る席の机には数冊の学校資料が積み上がっていた。
少し皺の寄った調査用紙の周りに、消しゴムのカスが散らばっているのも目につく。
その状況だけで、彼女の唸り声の原因が解ったような気がした。

ぴんぴんしている、と口にされた言葉には、肉体的な意味では、という修飾が施されるのでは、と。



「もしかして…行き詰まってる?」



こんなこと、訊ねられるほど本当は、親しいわけじゃない。
サポートする選手も違えば、能力値も、上からの信頼も篤い彼女と一対一で会話を交わすことが、今までにどれだけあっただろう。
数えるほどもない少なさだった気がする。けれど、何となく…用が済んだからと、直ぐ様この場から立ち去る気にはなれなかった。

似た立ち位置にいる予感に、仲間意識のようなものが芽生えたからかもしれない。
桃井さんは普段がとてもしっかりしている女の子だから、悩むところなんて見たことも、想像したこともなかったけれど。



「…うん。恥ずかしい話なんだけどね、まだ志望校が決まってないの」



もう時間もないのに、まずいよね。

頭を掻きながら笑い飛ばそうとする、桃井さんの頬は少し強張って見えた。
不安を覚えるのは当然のことだ。試験勉強に詰まるのも大変だけれど、進む道を決めるというのも相当に難しいことで。
何が向いているか、何がしたいか、自分でもよく解らない内から思考や自主性、選択を迫られて、迷わずに進んで行ける人の方が珍しいと思う。
深く考えない場合も、大抵が自分の学力に合った進路を目指すだろうけれど、それだって何校もの選択肢を与えられる。



(簡単には決められないよなぁ…)



なんて、彼女の気持ちに同調した気になったりして。
人間が違うのに、笑ってしまう。
けれど、実際にその気持ちは私にも少しは解るのだ。

理性的でない感情が絡めば、尚更頭を抱えたくもなる。
私にも覚えがある。
覚えがあるから、そっと柔らかく落とした声を、意識的に吐き出した。



「桃井さんは…悩んでるんだね」



いつも背中ばかり見つめていた彼女のことを、初めて自分より小さく感じた。なんて、恐れ多いかな。

私は、優しい声を掛けられただろうか。
微かな心配を胸に返事を待てば、桃井さんはそれまでの笑顔を、くしゃりと歪めてしまった。



「うん…悩んでる」

「それは、誰か、人が関わって?」

「あは…花守さんも結構鋭いんだ」



桃井さつきさんという人は、私にできないことを苦労なくそつなくこなしてしまう、器用な人だ。そう思ってきたし、その認識は誤ってはいないはずだ。
それが、そんな彼女が、弱った様子で背中を丸めている。

なんだかそれは不思議で、少し寂しい光景だった。
図書室の隅、本棚に隠れるようにして一人ぼっちでいるところも、寂寥感に輪を掛けさせていたのかもしれない。
彼女の傍に、誰一人として寄り添っていない。その影が見当たらないのが、不自然で落ち着かない。

繋がりも浅い私の目の前で、そんな桃井さんはぽつりぽつりと、言葉を落としていった。
私、気になる人がいるの。と。とても、恋に夢見るような甘ったるい響きには聞こえなかった。



「その人を、追い掛けたい気持ちはあるんだ」

「…うん」

「でも、ほっといたらどうなるか判んない奴もいて、どっちも取れなくて…困ってる」

「そっか…」

「どっちにしろ、不純なんだけどね」



花守さんとは無縁の悩みかな、と明るい声を出そうとする彼女に、ううん、と首を横に振って否定する。
彼女の目に私がどう映っているかは知らないけれど、無縁と言えるほど遠い悩みではない。

なんとなく、知ってほしいと思った。



「私だって似たようなものだよ」

「え…そうなの?」

「この先どうなるかも分からないのに、決めるのは難しいよ…」



同じような悩みを抱える人がいるというのが、良いことか悪いことなのかは判らないけれど。
一人ぼっちに見える桃井さんに、一人じゃないと、小さな慰めになればいい。

私も迷うし、不安だよ。
苦笑と一緒に吐き出せば、桃井さんはぽかんと、三秒くらいは口を開けたまま驚いた。



「…私てっきり、花守さんはムッくんと同じとこ目指すんだと思ってた」

「それも視野には入れてるけど…理由がそれだけじゃ、ちょっと不安でしょ?」



桃井さんと私では、人間も相手も違う。
けれど、頭を悩ませる事情は似通ったものだ。“誰か”を理由にしてしまうことに、悩んでいる。



(放っておけない…か)



桃井さんの言葉を反芻して、その対象となるだろう人物も同時に思い浮かべる。
確かに、彼の隣に桃井さんが並んでいない図というのはしっくりこない。けれど。
私はどうだろう。
当然浮かぶ疑問に、今度は私が唸りそうになる番だった。

紫原くんという人は、子供じみた我儘を押し通しがちではあるけれど、あれでいて一人でも何とかやっていけるタイプだ。
図太いところは図太いし、放っておいても何ら問題なく生きていける。多分。
桃井さんと私を比べても、その能力値の差も歴然としている。別段、傍にいるから役に立つということも私にはない。
隣に立つのが当然と思えるほど、周囲にも当人にも、関係は馴染みきっていない。

こんなことを口にしてしまえば、また彼は泣いてしまいそうな気がするけれど。
一緒にいるより離れる方が、きっと簡単だったりする。



「私も、結構考えてるの。最善の選択は…いつになっても、誰にも分からないものだと思うけど」

「…分からない、かな」

「選んだ未来しか体感できないし、選ばなかった方は想像しかできないから…正解なんて、ないよ」



正解が分かれば、間違わないのにね。
でも、間違わなかったら…今にも至れなかっただろうから、やっぱり正解はないのだ。

悄気たように肩を落とす桃井さんとは、あまり距離を縮められない。友達らしい接し方をしても馴れ馴れしくて、その背中を擦ってあげることもできない。
だから、ではないけれど。
言葉だけでも彼女に、優しく届けば、いいと思う。



「後悔しない方を選ぶしかないよね…桃井さんも、私も」



選べる道は一つきりだから、選んでしまえば思い切って、足を踏み出してみるしかない。
どこかぼうっとした瞳で私を見つめていた桃井さんは、ふと息を溢すと眉を下げて笑った。



「なんだかなぁ…」

「え…?」

「もっと、喋っとけばよかったなぁって。花守さんとも」



その言葉に、今度は私が目を瞠る番だった。

ありがとう。少し、スッキリした。
そう言って、確かに普段の調子を取り戻しつつある笑顔を向けられる。



「…今更だけど、ずっと…庇いもしなくて、ごめんね」

「そんなの…気にしてないよ」



現に私は、とても穏やかな気持ちで彼の傍にいられている。
桃井さんの情報収集能力があれば、それくらいの現状はお見通しだろう。私の言葉が嘘か本当かも、容易に見抜けるはずだ。

実際、そう言うと思った、と桃井さんは頷いた。



「ムッくんはきっと、幸せ者だね」








果たして、本当に私は、彼を幸せ者にしてあげられているのだろうか。

どちらかといえば苦しませた覚えの方が多い気がするし、今だって厳しい言葉を向けたりもできる。
もしかしたら私は、紫原くんに対してが一番優しくいられないのかもしれない。
大切だと思う、好きな人なのに、おかしなことだ。
それでも愛想を尽かさない紫原くんも、おかしさだけなら相当だと思うけれど。



「ねぇ、紫原くん」

「んー? なーにゆあちん」



一緒に帰路につくのが当たり前になって、自然と絡められる指の感触にも戸惑うことはなくなった。
随分、慣れてきたなぁとぼんやり思う。怯えて逃げてばかりいた頃とは、雲泥の差だ。
奇跡のように親い距離。だけれど、決して自然に成り立ったわけではない、お互いが奔走した果てに今があることは、きちんと理解できていた。

一回りも二回りも大きな掌の中、私の手はすっぽり覆い隠されてしまっている。
身体と身体の隙間でゆらゆらと揺らして歩みを進めながら、私は緊張を解すように呼吸を深めた。
いつまでも、逃げ続けられるわけではないのだ。

あのね、紫原くん。



「避けてる話題を取り上げるのは、意地悪かもしれないけど…」



私を見下ろす、溶け落ちるチョコレートみたいな甘ったるく弛んだ彼の顔が、その瞬間に強張ることも想定して言葉を選ぶ。

ごめんね。やっぱり私は、あなたにちっとも優しくないね。



「進学先…決めた?」



弛んだ空気の中、交わしていた他愛ない会話を意図的に終わらせる。
高い位置にある、それまで眠たげだった瞳が、震えた目蓋の下で揺れる。指先から伝わる動揺にも、すぐに気が付いた。
立ち止まりかけた足を、なんとか前に押し出したであろうことも。いつもより私に合っていない、大きな一歩を踏み出されればよく分かった。

言葉を探すよう、黙りこくってしまった彼に知られないように苦笑する。同時に、聞こえない程度の溜息を溢しながら。
そうして静かに、答えを待った。

確かな解が得られないのは、やっぱり少しは不便なものだ。






切迫する




本当は、ごめんね、なんて思っていないの。
優しくなくても構わない。この悩みは、必要なことだと思うから。

20141004. 

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