幼心の成長記 | ナノ




正座をしたまま一時間、その間は決して動いてはいけない。
突き付けられた条件は字面ほど穏やかなものではなく、それなりに慣れている私ですら耐えられるギリギリの苦行だった。

彼にとって、その苦痛はどれほどのものだろうか。



「あと十秒。九…八…七…六…」



涼しげにカウントをとる声が始まると、時間の流れが今までよりぐっと遅くなるような気がした。
圧迫された膝から下は既に感覚がなくなって、この先に味わうだろう痺れを予感させる。何度も組み換えたくなったし、身動ぎしたくて仕方がなかったけれど、もうここまで来てしまうと動き出す時の方が怖い。

絶対に、膝を解いても数分は動けない。というか、これは悶える。確実に。
滲む汗を拭き取る余裕もなく、徐々に小さくなる数が途絶えるのを待った。動けなくなるにしても、このまま正座し続けるよりはいいはずだ。
いや、本音を言うと崩した後も怖くて堪らないのだけれど。それでも、ずっとこのままでいるわけにもいかない。



「三…二…一……はい、終了」

「っ……」



パン、と打ち鳴らされる掌。同時に小さく呻き続けていた紫原くんの息を飲む音が隣から聞こえる。
そちらに視線を向けるより先に、私は立てていた膝を崩した。それから、大きな痺れが襲ってくる前に、じわりとした感覚の集まる脹ら脛に手を伸ばす。



「…ひ…う、ううー…っ」



塞き止められていた血液が充満していく感覚に、涙が滲みそうになる。襲い掛かってくる激しい痺れに堪えて、三角座りに近い体勢で揉み解しに入った。
脹ら脛のマッサージは痺れを早く引かせるけれど、それでもビリビリと響き始める痺れが辛いのは変わらない。

畳に転がってしまいたくて、でもそうすると足に響くだろう震動も恐ろしくて。
言葉にならない声を発しながら少しでも痺れが引くのを待っていると、時間を終えても体勢を崩そうとしない大きな影が視界に入ってきた。



「う、あっ……紫原、くん?」

「ゆあちん…ヤバい」



動くの怖い。
真っ青な顔でぎこちなく呟かれた言葉に、私も気持ちが分かるからこそ笑えない。
今も正に苦しんでいる最中で、フォローに入ることはできそうにない。そもそも、足の痺れなんて他者がなくさせてあげられるようなものでもないし。

ぎゅっと眉間にしわを寄せてどうすればいいのか判らなそうに眉を下げている彼に、今の私では言葉を掛けてあげることしかできなかった。



「は、早めに足伸ばして。揉んだら少しは痺れなくなるからっ」

「で、でも、これ動いたら、めちゃくちゃヤバい気する」

「いや、でもずっとそうしては…」

「動けないの? 手伝ってあげましょうか」

「えっ」



横から入った声に顔を上げると、正座を始めてからここまで私達を見張っていた母が、こちらに足を踏み出すところだった。



(えっ、ちょっと…)



嘘でしょ。まさか…。
多分、同じ不安を抱いて頬を引き攣らせる私と彼に、不自然なくらい優しげな笑顔を浮かべて近寄ってくる母の顔。そこから、悪い予感以外の何も感じとれない。

紫原くんの青い顔が、強張る。
助けてあげるにも、私もまだ強い痺れの残る足では立ち上がれない。動けない私達にあっさりと近付いてきた母は、当たってほしくはなかった予感通り、紫原くんのすぐ近くで足を止め…



「っ!?」

「! お、おかーさっ」



別段、大きな力を加えたというわけでもなかったと思う。
一般男子より一回り以上も大きな身体を持つ紫原くんを動かすには、それなりの勢いか単純な力が必要となるはずだけれど。今に限っては、そんなものは要らなかった。

気力を振り絞って一時間の苦行に耐えきった彼に、余裕や余力といったものは殆ど残っていなかったのだろう。
伸ばされた母の手が肩に乗った瞬間、呆気ないほど簡単に紫原くんは引き倒された。
横向きに、畳に寝転がるように。



「っ……!!」



びくん、と。陸に打ち上げられた魚のように大きく痙攣したかと思うと、不意に丸められた背中から声にならない悲鳴が上がった。
まさか、と思っていたのに。とんでもない光景に呆然としてしまう。

なんて、なんて惨い仕打ちを。
信じられない気持ちで見上げたそこには、どこか満足げに息を吐く母がいた。



「うっ…ぐっうぅぅ…っ!」

「! 紫原く…ふあっ!」



数秒の間を置いて呻き声らしい呻き声を上げた紫原くんに、はっとする。
慌てて近寄ろうとした私の足もまだ全快ではなく、がくんと崩れ落ちそうになって両手を着く。

正直、かなり辛い。けれど、転がったままその手で足を押さえている彼を放ってもおけない。



「く、う…っ紫原くん、紫原くん大丈夫…!?」



四つん這いで足を引きずりながら覗きこんだ彼は、顔にかかった長い前髪が少し邪魔だったけれど、今にも泣きそうなくらいにくしゃりと顔を歪めていることは分かった。



「む、り…いっ」

「ご、ごめんね、本当にごめんっ…あ、足触って大丈夫? 揉んだら少しは痺れも引くけど…」

「! いっ、今はダメ…っ触んないで…!」

「だ、だよね…うう…もう…っ」



なんて酷いことをするのかと、母を問い詰めたい。けれど、今責めるようなことを口走ればこの一時間の苦労が水の泡となる。
それでは、ここまで堪えた意味がなくなってしまう。迂闊な言葉を口にするわけにもいかない。

せめて何か、苦痛を和らげる方法があればいいのに。
何もできない。ふるふると震えている彼をただ見ていることしかできない自分に歯痒さを感じていると、それまでリビングの方にいた父が戻ってくる気配がする。



「…ちょっと、やりすぎじゃないかい?」



人様の子に…と、溜息を吐く父の手には、コップが二つ握られていた。
それをテーブルに下ろし、私達側に寄せる。微かに漂ってきた甘い匂いの正体は、ココアだろう。お疲れさま、と労うその声に気持ちは落ち着いていく。
痺れは、まだまだ引く様子がないけれど。

倒れたまま唸り続け、起き上がれそうにない紫原くんの背中を意味がないことを承知で擦っていると、二人は一時間前と同じ席に再び腰を下ろした。



「このくらいしないと、収まりがつかないわ」

「それは、解らなくはないけどなぁ」

「ええ。これで、少しはスッキリしたし」



肩を竦めた母の声音は、決して柔らかいものではない。けれど、激しい敵意は今は消えているように聞こえた。



「約束は約束だもの。一先ずはこれで、納得してあげましょう」

「!」



うぐうぐと喉奥を震わせていた紫原くんが、苦痛を忘れたかのように顔を上げる。
見開かれている瞳を真っ直ぐに母に向けた彼に、私も釣られてそちらに視線を定めた。



「ただし…ゆあを裏切るような真似をしたら、今度こそ一生許さない。最悪、二度と近付かせないから…覚悟をしておきなさい」

「っ…はい」

「それで、あなたは? 何か言っておきたいことはないの?」



二人の話をきちんと聞かなければならない。そう思ったのかもしれない。鈍い動きでも、紫原くんは起き上がった。
そしてこれまで、比較的強い意見を述べなかった父へと向き直る。促された父もほんの少し、苦い笑みを浮かべながら彼を見やった。



「そうだな…付き合っていて、諍いが全くないということはないだろうけど。悪い意味で娘を泣かせないでほしい…ってことだけ、覚えててもらえるかな」



まぁゆあも、そこまで弱々しい娘でもないんだけどね。
軽く笑い飛ばすように付け足された言葉には何とも言えない気分になったけれど、勢いよく首を縦に振った紫原くんは、真剣だった。



「…絶対、覚えておきます」



畳の上で握り締められた拳は震えていて、掠れた声にも緊張が滲んでいた。

きっと、これが与えられる最後のチャンスとでも思っているんだろうな。
見慣れた横顔の引き結ばれた唇に目をやると、その心を見透かした気がした。









玄関を出ると、空の色は殆ど紺に染まり駆けていた。
門の前まできてはああ、と大きく息を吐き出した、紫原くんの背中が一気に丸まる。



「よかったぁー…」



見送りに出ていた私の両手が、向かい合った人の長い指に浚われる。
大事に大事に、宝物を包み込むかのように持ち上げられて、俯いた彼の頬に寄せられた。



「これで、ゆあちんとちゃんと一緒にいれる…よかったー……っ」

「うん…」



心の底から安堵するような溜息に、私まで胸が苦しくなって肺の奥から息を吐いた。
本当に、紫原くんは必死になってくれた。とても難しいと思われた説得のために、何度だって挫けそうになったはずなのに。



「紫原くん…ありがとうね」

「ん…何が?」

「頑張ってくれて。とっても嬉しかった」



掴まれたままの手は思うように動かないから、指先だけで頬を撫でる。
すると眠たげな瞳がぱちりと瞬いて、すぐにその顔は泣きそうに歪められる。

けれど、知っている。もう何度も見ている、彼のこの顔は嬉しさを含んだ表情だ。
喜びで一杯になっても胸は苦しくなるから。その証に、落ちてくる間延びした声に切ない響きは混じらない。



「そんなん、オレの我儘叶えるためなんだから、お礼とかいらねーし…ゆあちんの方こそ」

「私?」

「そう。オレさー、自分のために、話し合わなきゃって思って来たけど…」



一呼吸置いて、獣が甘える時のように手先に頬を擦り付けられる。
不意に掠った唇の感触に、ドキリとしてしまった。



「ゆあちんも…オレと頑張ってくれるくらい、同じ気持ちなんだなぁって。解ったから、あんまり怖くなかったよ」

「紫原くん…」

「今日ダメでも、それならこの先何回でも二人で頑張れるし。だったら、大丈夫だって思えた」

「…うん」



安らいだ表情から、優しい声から、甘えた仕草から。
その全部が愛しい愛しいと訴え掛けてくるようで、身体の奥から大きな熱の塊が昇ってくる。



「ゆあちんいたら百人力…どころじゃないかもねー」

「私も」



穏やかな波が押し寄せるように、この人が好きだという気持ちをまざまざと思い知らされる。



「紫原くんが味方なら、少し怖いことも大丈夫。越えられるって思うな」



あなたほど、私を想ってくれる人なんていないから。
だから私も、私の全部で想い返して大切にしたいと思う。



「私も紫原くんの家族に、挨拶しないとかな…」

「えっ」

「え?」

「それは…ちょっと」



ぎくりとした動きが触れたままだった頬から伝わって、私の背筋まで何かが駆け抜ける。
歯切れの悪くなる彼に、僅かに不安を覚えた。
もしかして、と。



「私も、紫原くんの家族から悪く思われてる、とか…?」

「いや、違う。そこは問題ないし。そーじゃなくて…オレ兄弟多いから」

「あ…全員に挨拶するのは難しいか」

「そーいう意味でもないけど…まぁ、女陣なら会っても大丈夫かなー」

「? よく解らないけど…あっ、でもお母さんにはもうお会いしてたね」

「あー…うん。あの時、既に彼女と思い込んでたみたいだったよ」

「え…あ、そうなんだ。あの時……」



あの時。体調を崩した彼のお見舞いに行った日のことを思い出して、心臓がドクン、と鳴き声をあげる。
咄嗟に俯いてしまったのは、つい最近にされたこと、頷いてしまっていた言葉まで頭に浮かび上がってしまった所為だ。
認めてもらえたら、もう一回。二度目にキスをされた時、そう、照れも躊躇いも捨てた真っ直ぐな目を向けられた。



「あの…さ、ゆあちん」

「う、うん」

「…しても、いい?」



ここで、何を?、と訊けるほど、私も鈍感じゃなかった。

怖がらせないためか、ゆっくりとした動作で背を屈めて私の顔を覗き込んでくる彼に、跳ね上がった後の心音が走り出す。
今度は私の震えが、手先から彼に伝わってしまったんじゃないだろうか。
そっと視線を上げると、思っていたよりも近い距離に真剣な目をした彼の顔があって、またすぐに逃げるように伏せてしまった。



「駄目?」

「あ、え…と……」



駄目。なわけは、ない。嫌なわけでも、勿論ない。
好きな人とお付き合いしていて、同時にとても好かれてもいて、拒否するような理由はない。
ただ、慣れなくて、とてつもなく恥ずかしい。というか、緊張してしまうのはどうしようもなくて。
触れた部分から彼の頬の熱を感じて、逃げ出したいような気持ちになる。まさか本当に逃げ出すようなことはできないけれど。



「今日はまだ嫌、とかなら…待つけど」

「ちがっ…い、嫌じゃないよ?」

「…ほんとに?」

「う、ん…」



そう、心臓が胸を突き破るんじゃないかと思うほどドキドキするけれど、頭が働かなくなってしまうけれど。絶対に、嫌な感覚じゃない。
私の答えを優先して、大事にしてくれようとしている人を、我慢させたくもない。



(初めてじゃ、ないんだし)



いや、何度したって慣れる気はしないけれど。それでも、最初の衝撃に勝るものはきっとないはずだから。
血液が巡る音を耳の近くで聞きながら、目蓋を下ろす。改めて、となると勝手が分からなくて、つい息を止めた。

視界を塞いでも、不思議と気配は読めてしまう。自分に影が差し、距離が近づくのが分かる。
走る鼓動が煩くて、緊張が最高潮に達しかけた時。



「言い忘れたことがあったんだけど」

「っ!?」



静かに響いた他者の声に、驚き悲鳴すら上げられなかったのは、私だけじゃなかった。

目を開けた瞬間に音を立てる勢いで距離を取って、ほぼ同時に門の内側へ振り向いた私たちの視界に入ってきたのは、表面上は穏やかに微笑む母の姿で。
その背後に、般若の面が見えた気がしたのは、気の所為なのか。



「お、母さ…っ」

「付き合うにしても、節度は弁えなさいね?」



赤くなればいいのか、青くなればいいのか。
固まったまま動けなる私達へ、にこりと笑い掛けてくる母に向けて、ぎこちなく頷き返す以外の選択肢があるはずもなかった。





割り込む



そんな失敗でも恥ずかしいだけで終わることが嬉しくて、そして少し残念に思ってしまうから居た堪れなかった。
惜しかった。なんて心の声は、誰にも、彼にも、まだ言えない。

20140814. 

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