幼心の成長記 | ナノ




案内したのは、リビングの先に配置されてある和室。
小さなテーブルを挟んで四枚の座布団の並べられた一角に、近付く彼の一歩一歩が重いものになっていくのが目で見てとれる。

私も、人の心配をしている余裕はないけれど。
意図的に呼吸を深めて緊張を逃がそうとしている紫原くんに並んで、ゆっくりと腰を下ろす。
ちっとも心のこもっていない声でよく来たわね、と笑う母は、やはりというか、彼の正面に座ってしまった。



(逆に座ればよかった…)



後悔したところでもう遅い。
遅れて私の正面に腰を下ろした父が微かに苦笑するのが視界に入ったので、私の気持ちが悟られてしまったのだと思う。



「それで、改まって話すことが何かあるの?」



一人悠々とした態度で自分の湯飲みを傾ける、この場は既に母の独壇場だ。
私の隣の座布団で、立てた膝の上でぎゅう、と拳を握りしめている紫原くんは、僅かに身体を揺らしたようだった。



「全部じゃ、ないけど…ゆあち…ゆあさんに、一番大きな事件について聞いたから、どうしても謝りたく…なりました」

「そう…ゆあが話したの」



それなら話は早いわね。

にこりと微笑む母の声に温度がないのが、余計にうすら寒いものを感じさせられる。
私がそうなのだから、直接対峙する彼はどれほどのものだろう。ちらりと窺ってみた横顔は強張っているけれど、まだ挫けそうな様子はない。



「オレが、原因でもあったのに、今まで何も知らなくて。心配も迷惑もたくさんかけてたのに……すみません、でした」



ぐっと頭を下げる紫原くんは、そこで一度言葉を切った。
反応が返るまでそのままの体勢で固まる彼に、やがて母は深く息を吐き出した。
もう態度すら取り繕う気はないようで、テーブルに置かれた湯飲みがゴン、と鈍い音を立てる。
滅多に怒りを現さない人だから、たったそれだけの動作に恐れが過って私まで背筋が伸びた。



「素直になれなくて苛めましたって言われて、自分の娘が危険な目に遭ったのに、はいそうですかと簡単に許せると思うの?」

「っ…お、もわない…です」

「ええ、そうでしょうね。だって私は…いいえ、この人もよ。あの日、いつまで待っても帰ってこないその子を死ぬほど心配したんだから」



ゆるゆると顔を上げた紫原くんに、突き刺さる視線は一段と厳しさを増す。憤りも露な母とは違い、未だ口を父噤んでいる父ですら、その口元は笑っていなかった。
力を込めすぎて震える大きな拳に、テーブルで隠れるのをいいことに手を伸ばした。
大丈夫だから。口で励ませない代わりに掌でその片方を包めば、ピクリと跳ねた後少しだけ力は緩まったようだった。

その間も、母の猛攻は止まらなかったけれど。



「何で帰ってこないのか、何か事件に巻き込まれてやしないかって、生きた心地がしなかったのよ。それがいざ帰ってきたゆあに事情を問い詰めれば、随分前から嫌がらせを受け続けていたっていうじゃない。その延長であんなことまで起こるなんて、ふざけているにも程がある。もっと酷い目に遇わされていてもおかしくない。挙げ句、そうだとしても間に合わなかった可能性もあるのよ」



立て板に水を流すように、滔々と心情を語る母の目は真剣で、私の胸まで軋むのは罪悪感を刺激されてのことだ。
そもそも、私が両親に嫌がらせのことを隠し続けていたのも悪かった。話していれば、事はあそこまで大きくならなかったかもしれない。
代わりに、もっと早くに心が挫けて、部活をやめていた可能性もあるけれど。

たらればを気にしだしたら切りがない。
今目の前にある現状だけが、私の事実なのだから。



「あなたが仕向けていないとしても、あなた一人の勝手な感情で、どれだけ振り回されたことか」



そうね。決して、紫原くんの態度や言動は褒められたものじゃない。私だって、理性ではそう考えないこともない。
一番怖い目を見たのは私で、母の言い分は尤もだから頷ける。けれど、それでも、理屈じゃないのだ。

私の手の下で、皮膚に爪が食い込むほど握りしめられた拳を。強張る頬の内側で食い縛られている奥歯を、知っている。
それを思うだけでも、ぎしぎしと痛む胸が熱いもので押し潰されてしまう。

過去を清算するには、確かにまだ時間は足りないのかもしれない。許せないのは当然なのかもしれない。
けれど、今を見つめる時間なら充分にあったから。
いい部分を受け入れることだって、できないはずはないのだ。



「今までそんなこと気付きもしなかったんでしょう? そんな人間に、全て責任が負えるかしら? 今更、私の娘を傷付けずにいられるって?」

「できます」



母の台詞の最後の方に被せるように、漸く紫原くんが吐き出せた四文字。
震える喉から出てきた答えに、迷いは含まれなかった。

その瞬間、ぶわりと込み上げる熱量が身体に収まりきらなくて、逃がすために息を吐き出す。
自然と彼の拳を包む私の手の方に力が入った。



「責任でも、何でも…ゆあちんがいてくれるならオレは、何だってする。できるし、させてほしい…です」



一度ゆっくりと目蓋を下ろしてから、だからお願いします、と紫原くんは先程より深く頭を下げた。



「オレのことは許さなくていいから、それは…もっと時間もかけて頑張るから、だからこの子の傍に、いさせて…ください。それだけ、許してください」



私がそっと手を離すとまたぴくりと拳が揺れたけれど、彼の態度は崩れなかった。
お願いします、と更に押すのを横目で確認してから、私も畳の上に両手を揃える。



「私も、お願いします」

「! ゆあちっ…」

「お母さん…お父さんも、聞いて」



これ以上、紫原くんだけに任せ頼りきる気はない。
言うべきことは全て言う。私の意思を届けなければ、彼だけが粘っても意味はない。

紫原くんを倣って頭を下げた瞬間に驚き振り向く彼が見えて、声も聞こえたけれど、私は振り向かず何も返さなかった。

ただ、息を吸ってから、唇に笑みを型どる。



「私、紫原くんが好きなの」



口に出すだけで、胸が締め付けられるほど。深く実感してしまうくらいに、この人が大好きだ。

誰かの息を飲む気配がした。誰かまでは確かめられなかったけれど、一層笑みを深める。
私にだって、譲れない意地や望みがある。



「こうして、私のために一生懸命になってくれる人なの。最初はやっぱり怖かったし、酷い人だと思ったけど…そうじゃないって知って、信じられたのに…今更離れたくなんかないよ」

「ゆあ…」

「紫原くんは私に対しては優しいし、捨て身になってくれるくらい、誠実だから」



私の下す結論は愛情からくる両親の心配を、滅茶苦茶に、無駄にしてしまうことかもしれない。
それが解っていても、私を想うだけでこんなに形を無くしてしまうような人を逃すような真似はできない。

私は父と母の子供であって、花守ゆあ個人でもあるのだ。



「だから、もし二人に許してもらえなくても、私は紫原くんから離れないから」



絶対に、別れたりしない。
はっきりとした声に本気を滲ませて宣言する。これが私の返す覚悟だ。

時間が止まったかのようにしんと静まり返る室内の空気に、不思議と気まずさも覚えなかった。
たっぷり数秒置かれる間、次に来る言葉を警戒はしても、怯えはない。

言い切って暫く、目を見開いたまま硬直していた私以外の三人の中で、一番初めに正気に戻ったのはやはり大きな溜息を吐き出した母だった。



「ゆあ……あなた…」

「…やっぱり母さんの子だなぁ」

「黙っていて」



次いで困ったように笑い出す父を一言で黙らせて、頭が痛むと言いたげに額に手を当てる。
そして苛立たしげに視線を滑らせた先、頬を紅潮させたままぎこちなく動き出そうとしていた紫原くんに向けて、母が言い放った言葉は。



「そのまま正座で一時間よ」

「え…っ」



驚いて声を上げてしまったのは、私だけだった。
確認してみると、紫原くんの方はいつもは眠たげな目をしっかりと開けて、母の言葉の続きを聞こうと顔を上げている。

対して、テーブルから拾い上げた湯飲みの中のお茶を全て飲み干してしまった母は、人差し指を立てて胸の前に突き出した。



「今から正座で一時間、動かず耐久できれば一先ずは認めてあげましょう」

「! まっ、待ってお母さん、中学ではもう引退間近だけど、紫原くんは選手でっ…」

「一時間で壊れるほど人の足は脆くないわよ、ゆあ」

「そっ…」



そういう問題じゃない…!
慌て過ぎて叫びそうになるのを、すんでに堪える。

並大抵の体格の持ち主ならまだしも、対象は紫原くんだ。規格外なのが身長だけに留まらないのは、見た目からも十二分に分かることだろう。
せめてもの情けは元々敷かれていた座布団の存在だが、その効果もどれだけのものか。

狼狽える私の肩に、黙って母の台詞を耳に入れていた彼の手が落ち着かせるように乗せられる。



「大丈夫だよー、ゆあちん」

「紫原くん…っ」

「一時間耐えれば一応は認めてもらえるってことだよね…大丈夫。そんくらい余裕で耐えれるし」



大丈夫なわけがない。
普段の緩い口調で私を安心させるようなことを言う紫原くんは、今は笑っているけれど。
普段から正座をしつけていなさそうな彼は、しかも今日に限って制服を着ているのだ。伸縮性の少ない服で、私の倍近くある体重を一時間身動きをとらずに膝で受け止め続けなければいけない。
その負担は決して軽くないだろう。考えただけで目眩がするのは、私が大袈裟なのだろうか。

紫原くんは選手だ。元から立派な体格を支え続けている脚に、いらない負担までかけさせたくはない。
簡単に壊れると思っているわけではないけれど、疲れは蓄積するものだという知識が、頭をちらついてしまう。



(ああ…でも……)



けれど、止められる気はしなかった。母から与えられる、これが最初で最後のチャンスかもしれないのだ。
認められなくても…とは私も口にしたし、本心ではあるけれど、それでも許してもらえるものなら許してもらいたい気持ちの方が大きい。
そして紫原くんも、私が関わることでこんな条件を出されて、引くような人ではなかった。

溜まった唾を飲み込む。
どうするの、と視線で問い掛けてくる母を見返した。



「…わ、解った。じゃあ私も。私も一時間一緒に耐えるから」

「…ゆあも?」

「えっ…いや、ゆあちんは楽にしてていーよ。オレ頑張るから」

「ううん。私もやる」



割に普段から膝を立てることも少なくない私では、彼の感じる苦痛とは比べ物にならないだろうけれど。
だからといって、紫原くん一人に任せて楽をする気にはなれない。隣にいると口にしたのは、決して軽い気持ちではないのだ。

辛かったり苦しかったりすることを、支えてあげられるのも大事だろうけれど、一緒に味わえるものなら私はそうしたい。
紫原くんを一人で放り出したりしたくない。



「私も認めてもらいたいもん」



頑張る時は、なるべく一緒がいい。
すぐ傍に味方がいるのといないのとじゃあ、全然訳が違うでしょう?



「ゆあちん…」

「だから、頑張ろうね…紫原くん」



真顔になっているはずの私にやがてうん、と首を縦に振った紫原くんは、家に入る直前と同じくらい穏やかに頬を弛めた。



「ゆあちんがいれば、百人力だしね」



心から嬉しそうに紡ぐ彼に、私も頷き笑って返した。

私も勿論、負ける気なんてしないよ。
負けるつもりなんて、あるものですか。






たたかう




これで駄目でも、きっと違う手もないわけではなかったけれど。
それでも私を大切に想ってくれる人達には、どうしても正面切って向き合いたかった。

私の、彼の本気を、認めてほしかったから。

20140723. 

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