中学最後になる大きな大会も終えて、三年はもうすぐ引退の時期を迎える。
最近では殆ど練習に出ていない自分の時間も充分に有り余っていると、身辺の事情を語る紫原くんの口調は硬い。
けれど、数時間前の初対面時と比べれば随分と落ち着いてきているように、私の目には映った。
「だから、近い内にちゃんと、その……話をさせてもらう時間が欲しい…です」
慣れない敬語を懸命に捻り出す紫原くんの隣に並んで、相対したのは玄関まで出迎えに来てくれた父だった。
母さんはまだ機嫌がよくないから…と苦笑しながら出てきた父には、申し訳なさが募る。対応を押し付けて頼りきってしまったのは他でもない、私なのだけれど。
駄目だなぁ、と内心で溜息を吐いた。
元々あまり我儘は言わない質のはずなのだけれど、中学に入ってからは両親その他数名に迷惑や心配を掛けてばかりで、いい娘とは言い難い。それなのに現状を後悔する気持ちが芽生えないのがまた、酷いなと思った。
自分の薄情さに落ち込むだけで、紫原くんと離れようなんて気持ちは欠片もないのだ。
今の私は両親が何を望んでいるのか理解しながら、自分の確かな意思でそれを踏み躙っている。
私を送り届けた際に、緊張した面持ちで紫原くんの口から紡がれた言葉に、一瞬だけ父は目を丸くした。
けれどそれも本当に一瞬で、すぐに目蓋を伏せると普段から浮かべている人当たりのいい表情に戻る。
「それは…僕らは揃っていた方がいいかな?」
「えーと……はい。できればちゃんと全部…謝りたいから」
「…解った。それなら今週末、土曜の夕方なら時間をとれると思うよ」
父の答えを聞く紫原くんの真剣な横顔からは、張り積めた緊張が伝わってくる。
そして柔く笑みを浮かべている父からも、ここに来て初めて甘くはない言葉を聞いた。
「ただし、母さんがあれだからね…。僕としても、さすがに今は君を信用しているとは言えない。こちらもそうそう庇ってはやれないから、少し覚悟を決めてくるといい」
母の言動に比べれば、相手を傷つけようという意図は汲み取れなかったけれど、威圧感を全く感じないでいられるかと言えば、そうでもなかったはずだ。
父の本音をきちんと聞いたことはないが、決して私達の付き合いに対して好意的なわけではないだろう。それくらいは当然、予測がつく。
今のところは、私の気持ちを重んじてくれているだけだ。今後の動き次第でどう転がるかも判らない。
それでも紫原くんは、父の言葉にありがとうございます、と深く頭を下げた。
家の門から離れていく大きな背中を見送って、玄関まで引き返した私は息を吐き出す。
はあぁ、という小さくはない溜息に、反応したのは板張りに上がったところで待ち受けていた父だった。
「どうした、徐に溜息なんか吐いて…楽しくなかったのか」
「ううん、楽しかったよ。このヨーヨーも、紫原くんが取ってくれたし…」
普段からたくさん、優しくしてもらっている。今日だって変わらない。
左手の指にかけて、大事に持ち帰ってきたヨーヨーを揺らせば、それなら何故、という目で見下ろされた。
決して身長が低い方ではない父だけれど、少し前まで紫原くんと並んでいた所為で容易く合う視線に一々感動してしまう。
大人以上に大きな態をしていて、歳よりも子供らしい部分の多い彼を思う。
(子供のような人だと、思ってたんだけどな…)
賑やかな屋台の並ぶ、人でごった返した道で感じた火照りがまだ残っているようだ。
じわりと肌には汗が滲んでいる。帯を解いて浴衣を脱いで、早くシャワーを浴びたい。
そうして、頭の中もスッキリ洗い流して整理するのだ。
それでも、今日の内で何度か食らった衝撃は、忘れられないだろうけれど。
「何だろ…なんだか、感慨深くて」
「なんだい、それは」
「だって…紫原くんがあんな風に、頭を下げることなんかないから」
不思議そうに訊ねてくる父に、苦笑を返す。頭の中に普段の紫原くんの振る舞いを思い起こすことは、簡単だった。
それだけ、私だってもう随分と彼のことを見つめ続けている。
それ以前に苦手だったからこそ、よく知っている部分もある。
平常では、良くも悪くも自由な人だ。
子供らしい。我儘と言われても仕方がないほど傍若無人な部分が目立つし、実際に人に甘えることはしても、必死に願い倒したり謝罪したりするようなタイプではない。
私はその欠点にもなり得る性質を知っていて、それでも彼を好きになってしまったわけだけれど。
(なんだろう…)
イメージと合致しない部分が嫌なわけではない。
寧ろ、私のために自分を曲げる彼を見て、ほんの少し喜びに似た感情を抱いてしまった。
たった一人、ちっぽけな私の存在のために、アイデンティティすら崩壊し兼ねないのだと見せつけられて。
喜んではいけないことのような気もするけれど、どうしても湧いてくる優越感は否定できなかった。
「我儘で子供っぽい人なのになぁって」
私の一手でどんな風にでも壊れてしまいそうな彼なのに、一気に大人になられたような気もして、不思議な感覚がする。
脱いだ下駄を並べて、板張りに上がった私に合わせて歩き出した父の表情は、少し通り過ぎて先を歩いてしまったから窺えなかった。
けれど、後ろから届く声は優しいものだ。
「それだけゆあのことが大事なんだろうね」
「…うん」
「ゆあも大事にしたいんだろう?」
「うん」
紫原くんが私のために自分の在り方をねじ曲げてくれるなら、私はどうしようか。
そんなの、考えるまでもない。
同じだけを返したいと望んだ。だから私も、彼のために壊れてもいい。
我儘を口にして、突き通すことを厭わない。
「今ももう、大事なの」
しっかりと弾き出した答えを乗せて紡いだ言葉を、背後で聞いていた父がどんな顔をしたのかは分からない。
分からないけれど、それでいいと決めた。
覚悟する約束の土曜、再び家の門を潜った紫原くんは当たり前だけれど緊張した面持ちで、一人で出迎えに出た私を瞳に写すとあからさまにほっと息を吐き出した。
両親のどちらかが出て来はしないかと、気を張っていたのだと思う。
分かりやすい態度を見せられて、少しだけ硬くなりかけていた私の胸も解される。
いらっしゃい、と自然に笑いかけられた。
けれど、それにしても。
「…何で制服?」
三年は受験前ということで午前授業はあったけれど、今は夕方。とっくに着替えていてもおかしくない…というよりは、着替えているのが普通な時間だ。
今日は部活にも顔を出していなかったらしいし、不思議に思って問い掛ければ、答える紫原くんは居心地悪げにもごりと口を動かした。
「なんか、こう…ちゃんとした服着なきゃかなーって思ったけど、判んなかったからさー」
変だった?、と珍しく不安げな目をして見下ろしてくる紫原くんは、真剣だ。真剣に向き合うための正装らしい。
つい、恥ずかしいような可笑しいような気分になって、笑ってしまう。
ゆあちん?、と若干焦り声で呼んでくる彼に、心配させないように首を横に振った。
違うの。少しだけおかしいけど、変とかじゃなくて。
「いつもの紫原くんだけど」
「けど?」
「なんか、いかにもご両親に挨拶しますって感じだなぁって」
結婚前のご挨拶なんて、あまりうまくイメージは湧かないけれど、そんな雰囲気を彷彿とさせる。
今から開ける扉の向こうで待ち構えている状況は、そんな大層なものではないけれど。それでも、今の私達にとっては大層な壁だ。
私の言葉を聞いて僅かに顔を赤くした、彼に手を伸ばす。そして下がったままの大きな手を、包むように両手で握った。
「大丈夫」
「ゆあちん…?」
「二人が何を言っても、思っても、私は紫原くんの味方だからね」
親不孝者でも、仕方がない。私はこの人を選んでしまった。
他の人では駄目だと思う。こんな気持ちにはなれないと思うから。
苦しくて傷付いてしまっても、ちゃんと隣にいるから、忘れないでね。
見上げて微笑めば、大きく目を見開いた彼がすぐにふにゃりと相好を崩した。
「ゆあちんいるなら、百人力だし」
ぎゅ、と握り返された手に、少しだけ心許なく揺れていたものが立て直す。きっと彼も同じ気持ちだと察せられた。
「じゃあ、開けるね?」
「うん…よし。行ける。大丈夫」
泣かない挫けない負けない、と頷きながら唱える紫原くんから手を離して、玄関の扉に手を掛けた。
最後に一つ深呼吸をして、腕を引く。
大丈夫だと、自分に言い聞かせる言葉には、言葉以上の力がこもっている気がした。
20140711.
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