帝光中学バスケットボール部、二軍マネージャーを務める私には最悪の弱点がある。
それは一軍レギュラーの一人である紫原敦くんが、今まで関わってきた人間の中で一番苦手であるということだ。
元々人見知りの気がある私だけれど、中学に入って初めてできた友達と一緒にバスケ部に入部して少しずつ人付き合いにも馴染んでいけていたと思う。
仕事は大変だし人と知り合うのはやっぱり緊張したけれど、それなりになんとかやってきて、今までの自分より少しだけ成長できた気もして。
そんな中、その頃はまだレギュラーではなかったけれど、これから入ることは確実だろうと思われていた紫原くんにある日唐突に言われたのだ。
「ちょろちょろしてんの虫みたいでうざいんだけど」、と。
子供特有の残酷な物言いをする彼のことは知っていたけれど、悪意に弱い私の心臓はその一言で塩をかけられた蛞蝓のように縮こまってしまった。
その場で泣かなかったことだけでも、誉めてほしいくらいだった。
彼と言えばその頃からもう体格は規格外で、真上から見下ろされて冷たい声で馬鹿にされては、私のような人間は簡単に踏み潰されてしまうような錯覚を覚えるくらい、恐ろしかったのだ。
震える唇で謝罪だけを溢してその場から逃げ出した私は、体育館に一番近い水道場へと辿り着く頃には堪えきれなくなって、蛇口にしがみつくようにして吐きそうになるまで泣いたのを覚えている。
そしてそれから事あるごと、顔を合わせるごとに、彼は私を鬱陶しいだとか、バカっぽいだとか、気持ち悪いだとか、そんな言葉ばかりを投げ掛けてくるようになった。
せめてもの救いは、一軍メンバーである彼と二軍のマネージャーである私とではそこまで接点が無かったことだ。でなければマネージャーを続ける勇気はバキバキに折られてしまっていたことだろうと思う。
それなのに、だ。
三年次のクラス替えで、最後の一年で、私は運悪くも彼と同じ教室に通う日々を引き当ててしまったのだ。
少しだけ賢くなった二年次ではできる限り顔を合わせることがないよう徹底的に彼を避け続けたので、そこまで酷い言葉を投げ掛けられることもなかった。
けれど、クラスが同じではどうしようもない。避けようにも格段に難易度が上がるのは確実だった。
さすがに一年生の頃のような衝撃を受けることはないだろうが、嫌われている人間と一年間顔を合わせなければいけないなんて、憂鬱以外の何者でもない。
新学期初日から逃げ出したいような気持ちで通い始めたクラスだったが、意外にも彼は私に対して特に何も言ってくることはなかった。
もしかしたら興味をなくしたのかもしれない。そもそも子供のような彼のことだ。私が誰かも覚えていない可能性がある。
その考えに至って、私は心底安心した。
それでも私の中の苦手意識は消えることはないので、極力彼の半径五メートル以内には近寄らないように気を付けていた。
それなのに。
「えーゆあ、紫原くんの隣!? いいなー癒されそう…」
どうして私のくじ運はここまで意地が悪いのだろうか。
新学期が始まって落ち着いてきた頃に、お決まりの行事がやって来てしまった。
そう、席替えだ。私が最も危惧していた行事で、しかもやはりというかあまりツキに恵まれない私は、見事一番避けたかった位置を獲得してしまったのだ。
(最悪だ…)
癒されそう、とは、彼の何を見てそんなことが言えるのだろうか。
二メートルを越える上背も、怠そうな目付きも、ゆっくりと喋る口調にさえも、私には威圧感しか感じ取れないというのに。
彼に睨まれたら、悪意に対する耐性が少しは育った今でも、石のように固まって動けなくなってしまう自信がある。
だから私は最終手段に頼るしかないと思って、私の引き当てた席から一番遠い位置になったクラスメイトに、席を交換してもらおうと考えた。
「ねぇ、悪いんだけど、席換わってもらってもいいかな?」
「えっ!? でもゆあ、位置的にもすごくいい席じゃ…」
「あ、最近ちょっと視力落ちたみたいで…眼鏡をかけるまではないけど、前の方が嬉しいから」
もちろん、嘘だった。
けれど声をかけた友達は紫原くんを可愛いと言っていたのを聞いたことがあったし、私は前の方の席でも一向に構わないタイプだったからこれで万事解決だと、ほっと安堵の溜息を溢しそうになった時だ。
ざわりと、教室がざわめいたのは。
「お…おい? 紫原っ? どうした!?」
「え!? ちょっ…どうしたの紫原くん!?」
「え…?」
ざわめきに反応してつい振り返ってしまった私は、ぎしりと心臓が凍りついた音を聞いた気がした。
私のいる位置から、およそ六、七メートルほど離れた席に着いていた彼が、たれ目がちなその瞳からぼろぼろと涙を溢して、強く激しい視線を私に突き刺していた。
周囲のクラスメイトは紫原くんの異変に焦って立ち往生していたけれど、当の本人はそんなものには目もくれず、いつかとは違う悲しそうな目を、私に向けたまま口を開いた。
「うそつき」
「っ、え…」
「目なんか悪くないくせに、そんなこと言って…何で、オレちゃんと話しかけなかったし、近寄らなかったのに、何でそうやって逃げんの……っ」
「え、え…?」
「がんばって我慢したのに、赤ちんが言ったとおりにしたのに、何でっ…」
何でオレから逃げんの?
長い腕でぐしゃりと、顔の上半分を隠すように拭って、そんなことを言う。
何でって、そんな、今更なことを。
紫原くんの、というか、男子の泣き顔なんて見たことがなかった私は、混乱しながら周囲を見回した。
けれどこんな修羅場にうまい助け船を出せる人間なんているわけもなく、席を譲ろうとしていた友達ですら困り顔で私を見つめていた。
「な、何でって…そんなの…」
クラス全体の空気が凍って、とてつもなく居づらい。怖い。
助けがないこの状況から逃げられないことだけは悟ることができたけれど、当然ながら全く嬉しくない。
私こそ泣きたい気分になりながら、どうしてこんなことをわざわざ口に出さなくちゃいけないのかと思った。
そんなこと、よりにもよって君が訊かないでよ。
「自分のこと、嫌ってる人の傍には…いたくないから、仕方ないじゃない」
「っ!! きっ…っ」
私だって、苦手な人には近寄りたくない。
冷たい言葉を吐かれるのは嫌だし、近寄るだけで震えそうになるくらい、彼の言葉は胸に突き刺さっていつまでも消えてくれないのだ。
だから、と続けようとしたのに、がばりと目元から腕を外した彼は何故かとても傷ついた風な顔をして、教室全体に響くような声で叫んだ。
「嫌いじゃねーしっ!!」
それこそ、信じられない言葉を。
「…は………?」
「嫌いなんかじゃっ…う…ーっ……」
理解できずにフリーズしそうになる頭に、意味もなく手を当てる。
私の脳は、耳は、おかしくなってしまったのかと。
(なに、言ってるの。この人)
嫌いじゃない?
あれだけ暴言を吐いておきながら、嫌いじゃないわけがないじゃないか。
そのまま机に腕を置いて伏せってしまった彼はぐずぐずと子供のように泣きじゃくっていて、何で、とか嫌いじゃない、とかもうやだ、とか、そういった言葉がちらほらと聞こえてきた。
状況が把握できない私より先に復活し始めたクラスメイトが、仕方なさげな苦笑を浮かべながら彼の背中をぽんぽんと撫でている光景が、癇癪を起こした子供とそれを慰める母のようにしか見えなかった。
幼心の荒療治そして何故か苦い笑みを浮かべた友達に席の交換は断られ、わけも解らないまま、結局私の席は彼の隣に決定してしまったのだった。
20120801.
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