正直言って、信じられなかった。
あの紫原くんが、必死になって頭を下げる図なんて、今まで一度だって考えたこともなかった。考えるはずもないような状況だった。
いつかは接触することがあっても、こんな形で来るとは思っていなかった私の身体は、慣れない衣服に身を包んでいるのも絡んでうまく動かない。
母の背中越しに見えた深々と下げられた頭に、一瞬呆然としてしまった。けれど。
「ごめんなさい」
守らせてください。
そんな切羽詰まった声を聞いて、現実味が返ってくる。か細く震えた響きに、心臓を締め付けられる。
ああ、これは、現実なんだ。
まだ足りないと思い続ける彼に、胸の中が切ない痛みで満たされる。
もう、私は充分なのに。たくさん優しく、大事にされているのに。
どれだけ伝えても納得してもらえない。紫原くんはまだずっと、首を横に降り続ける。
(私は…)
私は、やっぱりこの人が、好きだ。
膨れ上がる気持ちが視界を歪めるのに、それでも、それだけのものを見せられても、揺らがない人は欠片も揺らがないのが苦しかった。
「口先だけでは何とでも言えるわね?」
底冷えするような冷たい声は変わらず、微かに震えている彼へと突き刺さる。
覗き込むまでもない。その顔も隙なく微笑んでいるだろう。
それは私への愛情からくる叱責だと、解ってはいてもあまりにも聞き分けない反応に、思わず数歩の距離を駆け寄って母の腕を掴んでいた。
「お母さんっ…!」
「大丈夫。ゆあちん、いいから」
大丈夫、だから。
そんなことを、絞り出すような声で言われても信用できない。
ゆっくりと持ち上がった紫原くんの顔面と言えば蒼白で、常人より大きな体躯が嘘のように小さく見える。
「大丈夫じゃないよ…」
だって、手も足も、震えている。
当たり前だ。ただでさえ私のことになると罪悪感で押し潰されてしまいそうになる人なのに、親い人物からこれだけ頑なに阻まれて平気なはずがない。
きっとその胸の中は、胸だけと言わず、身体中ずたぼろに引き裂かれているはずだ。
それが分かる私も、同じように痛みを感じとった胸がじくじくと疼いた。
自業自得だと言われればそれまでだ。
彼が苦しむのも私がそれを感じるのも、結局は自分で選んだからこそ。解っているけれど。
拳を握り締め、項垂れたまま視線をさ迷わせて、届きもしない言葉を未だ選ぼうとしている紫原くんを、一人放ってもおけない。
これ以上傷付いてほしくなくて、駆け出した私の草履が地面を打ち鳴らした時、緊迫した空気に似合わないのんびりとした声が距離を置いて、届いた。
「おーい…どうしたんだい? 今日はやけに家の前が賑やかだけど」
「っ! お、父さん…っ!」
「えっ」
憤りを殺さない母から離れて、紫原くんの近くまで移動した私の目には、彼の背後数メートル先に見慣れたグレーの背広を纏った影が写った。
思わず叫んだ私の声に、視界に入ったままの巨体がびくりと引き攣るのも見えた。けれど、今度は焦らない。
マイペースを崩さずに歩いて来る仕事帰りの父は、私や母とは違う濃い色の目を弛ませて首を傾げていた。
「これはまた…随分大きい子だなぁ。こんばんは。ゆあの彼氏君かな? 二人ともお祭りにでも行くのかい?」
「え、あ…えっと…こ、こんばんは…」
自分よりも背丈の低い人間相手にびくびくしている紫原くんは、母からの攻撃がかなり効いている。
けれど、今フォローを入れる先はそちらではない。すぐ近くまでやって来て私達の装いに目を走らせる父に、できるだけ小声で話し掛けた。
「助けて、お父さんっ」
「ん?」
母の怒りを刺激しないよう最小限の身振りと声で現状を説明すると、話を聞いていた父の眉が徐々に下がっていった。
鞄を持っていない方の手が困惑気味に頭を掻く。
まだ言ってなかったのか、と嘆息した父に、困らせている原因の一端である私も申し訳なさが込み上げた。
「ゆあ…お母さんには早めに話した方がいいって言っておいただろう…またあんなに怖い顔をさせて」
「タイミングが図れなくて…もう少し落ち着いてからきちんと話そうと思ってたのっ」
「まぁ確かにいつ話したところで激昂しただろうけどなぁ…」
怒った母さんは怖いもんなぁ、と頷きながら苦い笑みを浮かべる父には、前以て少しは事情も話してある。
どちらかといえば理性的というか、心情を汲んでくれる人だから、複雑な顔をしながらも理解は示してくれた。そんな父を盾にするのは申し訳ないけれど、もうこの場では私の言葉も届かないのだから他にどうしようもない。
「お帰りなさい、あなた。ところで…まさかとは思うけど、そちらに付くとは言わないでしょうね?」
にこりと一見穏やかな笑みを浮かべる、母の背後に鬼が見える。
張り合う気満々じゃないか、と肩を落とした父に、私よりも焦りの拭えない紫原くんがまた頭をかくりと俯ける。
「う、ごっ…すい、ません…オレ色々、あの…」
「ああ…うん、頭をあげようか。…きちんと謝ろうとしてくれるんだから、悪い子ではないんだと思うよ」
「謝って済むなら法はいらないわね」
「本当に君は手強いな…」
宥めるような口調を拾った母の顔が、あからさまに不愉快げに歪む。それを見た紫原くんが隣で震えた。
見るに見かねて震える手に指を添えると、また少し震えた後に指先を握り込まれる。
その動きに気付いた父の苦笑が深まったけれど、解く気にはどうしてもなれなかった。
「ゆあを心配する気持ちは解るよ、僕にもね。だけどこんな形で更に悲しませることなんてしたくないだろう…?」
「あなたは甘過ぎるわ」
「父親は娘に甘いものだからなぁ。せっかくこんなに可愛く着飾ってるのに無駄にするのは勿体ないし、一先ず今日は許してあげたらどうかな?」
今や取り繕うこともせずに無表情になった母は、じとりと紫原くんを見詰めている。
それを遮るように立ち位置を変えてくれた父は、人の好い笑みを浮かべた顔で半分ほど振り返った。
「紫原君、だったかな。ゆあから少しは話を聞いているんだけど…あまり遅くならない内に、その子を送ってくれるかな」
「っ! は、はい…!」
「できれば、今度またゆっくりと話す時間をとった方がいいね。今日のところは楽しんでおいで」
「っ…ありがとう、お父さん…!」
お母さんのことは任せて、と言って背中を押してくれる父に、漸く呼吸をするのが楽になる。
顔を見合わせた紫原くんはまだ迷うような表情をしていたけれど、繋がったままの手を引くと促されるままに足を踏み出した。
「あ、ありがとう、ございました…っ!」
最後に振り返って叫んだ彼に、家の方へと再び歩き出していた背中がほんの少し、笑っていたようだった。
休戦する背後で文句を溢す母の声には、今は一時、耳を塞いで。
20131107.
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