くん、と締め付けられる慣れない感覚を味わいながら袖を持ち上げていると、目の前の鏡越しに着付けを手伝ってくれている母の満足げな頷きが見えた。
「よし、できた。うん、綺麗に結べたわ」
「ありがとう。おかしくないかな…髪型とか、これ」
「最近はそう珍しくないんじゃない? ちゃんと似合ってると思うわよ」
今の今まで浴衣の帯を整えてくれていた母は、いつも通り穏やかな笑顔で肯定してくれる。
おかしければおかしいと言ってくれる人だから、とりあえず母の目からは気にするところはないのだと思う。けれど、これからのことを考えるとちょっとしたことでも気になってしまうのも仕方のないことで。
姿見を見つめて360度、おかしな部分はないかと何度も確認してしまう様は、自分でも浮かれすぎだと思うのだけれど。
そわそわと浮き足立つ私をこれまた飽きずに見つめる母の顔は、楽しげに笑っていた。
「ゆあもそんな歳になったのねぇ」
「へっ…?」
浴衣を着るのを手伝ってほしいと言い出してから、終わりまで。特に詮索もなく引き受けてくれていたかと思えば、今頃になって意味深な呟きを落とされて、自分のことでいっぱいいっぱいになっていた私はびくりと肩を震わせてしまう。
振り向いた先の人の良さそうな顔が、どこかイタズラに微笑んでいた。
「デート、でしょう」
「え、あ、なっ…何で…?」
「そりゃあ…そんなに身嗜みを気にするなんて今までになかったことだし。男の子相手って考えるのが普通でしょう?」
「あ、う…えーっと…」
「別に隠さなくてもいいのに」
クスクスと、至極楽しそうに後片付けに取り掛かる母はとても勘が鋭いから、たまに意地悪をされて困る。
羞恥心と戸惑いと、罪悪感に襲われる私の意識は、最早身嗜み一つに構ってはいられなかった
(ど…どうしよう…)
もう何度も繰り返した悩みではあるのだけれども。
母が確信に触れようとしなかったから逃げ出せてきた話題が、じわりじわりと距離を縮めてきているような気がする。
そっと溜まった唾を飲み込んでいると、余分な布や今まで着ていた服を軽く纏めた母がそれで、と顔を上げる。
どこまでも、優しげな雰囲気を漂わせる笑顔を。
「ゆあの好きな人はどんな人なのかしら?」
「え……と…」
ぎくり、慣れない浴衣に伸びていた背筋が更に伸びる。
ああ、これ、どうしよう。どうすればいいのかな。
つい逃げるように視線を逸らしてしまう私を、見逃すような人じゃない。崩れない笑顔のままゆあ?、と首を傾げられて、罪悪感よりも恐怖感が上回った。
(だ…駄目だ…)
これは、駄目だ。言えない。言うわけにはいかない。
背筋に走る寒気が語る。絶対にこの場で口にするな、と。
伸ばし伸ばしにして告げてこなかった事実を、こんな状況でバラしてしまうのはきっとよくない。
そう、思ったのに。
「っ!」
「電話?」
聞き慣れた着信メロディが、嫌がらせかというタイミングで鳴り響く。床に放置していた携帯を慌てて拾った私は、ディスプレイを覗いた瞬間に一気に身体が重くなった気がした。
そこに並ぶ名前を、決して疎んじたいわけではない。けれど。
嫌な予感に苛まれてボタンを押せない私に、母の首が大きく傾けられる。
出ないの、と訊ねられてしまえば余計に無視するわけにもいかず、震えそうになる指で通話ボタンを押した。
「も…もしもし」
『あ、ゆあちーん?』
「う、うん…どうしたの?」
電話口から響く間延びする声に、緊張感が高まる。
待ち合わせの時間まではまだ余裕があるから、何か急ぎの用件でもできたのだろうか。
不思議に思う気持ちは脇に置いて応答すれば、顔を見なくても笑顔が浮かぶような、普段よりもはっきりとした声が返ってきた。
『うん、あのねー、楽しみにしすぎて準備早く済んじゃったから、赤ちんに住所訊いてねー』
「…えっ」
『迎えに来ちゃった』
ゆあちんの家の外にいるよー、と無邪気に言い放つ紫原くんに、愕然とする。
迎えに来た。それだけの台詞に目眩がした。
「む、むか…えっ…」
『うんー…ゆあちん?』
「なんで…ま、待ち合わせって言って…」
「あら、お外にいるの?」
「あっ、わ…待っ」
『ゆあちん? どしたの?』
さすがに電話越しの会話全ては聞き取れないだろうけれど、私の言葉から状況は察せたらしい母がするりと部屋のドアを潜り抜ける。
駄目。これ、本当にまずい。
一瞬にして脳裏に過った声に、さっと血の気が引いた。
「む、紫原くん、逃げて!」
『は?』
慌てて追い掛けた母が玄関の扉を開くのと、私が叫んだのはほぼ同時だった。
ガチャリ、と開いた扉の音は重苦しく、心臓を締め上げてくるかのようで。
扉からそう遠くはない門の向こう、呆けたようにこちらを見て固まる彼の姿が見えたら、もう、どうすることもできない。
「あらあら…」
あなた、見覚えがあるわ。
背後に立っていても分かる。穏やかな声にこれ以上はないくらいのトゲを乗せて、にこりと母は笑いかけたのだろう。
それは冷たい、氷のような笑顔で。
「ムラサキバラくん? 名前も聞いたことがあるわね…確か」
「お、おかあさ」
「ゆあを、散々貶してくれた子」
当たり、でしょう。
一人楽しげにサンダルに足を通し一歩一歩と進む先で、よっぽど大きな身体がびくりと揺れる。
彼の目は凍りついたまま母から逸らされず、私を気にする余裕もないようだった。
そして、それは私にも言えたことで。
「ゆあ…野暮だとも思うし、あまり口出ししたくはないけど」
「っ…」
「この子は、駄目よ」
重く響く判決は予想に違わないものだからこそ、指先まで震えが走る。
胸を握り締められるような痛みは、きっと彼の半分にも到達していないはずなのに。
露見する母の視線が私に戻る。その向こう。
息すら止めたように立ち竦む、彼の瞳が揺れていた。
20130915.
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