いつだって、割りに合わない程の優しさをくれる。
そんな存在には、こちらからは何を返してあげるべきなんだろう。
「紫原くん!」
部活の朝練もなく、比較的のんびりと登校していた朝。
楽しげな高い声に自分の名前を呼ばれたかと思うと腰の辺りに衝撃が来て、一瞬お菓子を取り落としそうになった。
聞き間違えるわけがない声の持ち主は、多分どこからか走ってきたんだろう。軽く息を上げながら俺の制服を掴んで見上げてくるゆあちんが、無性に可愛い。
思わず抱き締めたくなる衝動を登下校中は目立つからと押し留めて、跳ねた心臓を落ち着かせた。
オレはよくても、ゆあちんの嫌がることはできないもんね。
「びっくりしたー。どしたのゆあちん」
まずは身を屈めておはよー、と声をかければ、嬉しげに挨拶を返される。
目尻が下がって頬が緩む、ふわふわした笑顔。学校に着く前からゆあちんのこの顔が見れたのは、ついてる。
「紫原くんと一緒に登校したりとか、なかったよね」
「…走ってきたの?」
「う、うん…遠目でも判ったし。見つけたらやっぱり、一緒に行きたいなって…」
解ってた。答えは解っていたのに、口に出されるだけですごい威力になるのはどうしてか。
付き合い出してからのゆあちんは元が素直だから余計に破壊力が上がって、言葉一つでオレの心臓に打撃を与えてくるから堪ったものじゃない。
いいけど。嬉しいけど。嬉しいからこそ、オレはどんどん馬鹿になるような気もして。
この子が天使だとか妖精だとか言われても、今なら信じそうな自分が怖い。
怖いだけ自覚があるからマシだと思いたいけど。
「あれ?…紫原くん?」
立ち止まったオレに気付いて、不思議そうに振り向くゆあちんに自覚はないんだろう。
(ずるい…)
狡い。けど、可愛い。好き。
オレの方が絶対、気持ちは大きいのに。なのに好意を態度に出されたら、すごく好かれているように感じて息が詰まる。
好かれて、好かれたらまた更に好きになって。どつぼにはまっていくのに、抜け出したくはないんだから。
「ゆあちんはさー…何でそんな、」
「? え? 私何かした…?」
「…いや、いーんだけど…」
「?」
朝から忙しく働く心臓を休めてやるべきかもしれない。
そう思いもするのに、すぐ傍で揺れる手が目に入ると手を伸ばさずにはいられないし。
俺のものより大分小さな手を包み込むように捕まえれば、一瞬驚くように目を瞠るゆあちんの頬が赤くなる。
ただ、手を繋ぐだけなのに。そんなにハードルの高い行為でもないはずなのに。
何でこんな小さなことで、どうしようもないくらい嬉しくなってしまうんだろう。
「…ゆあちん可愛すぎるし…」
「そっ…そんなことない…よ」
そんなことない、わけがないのに。
恥ずかしそうに忙しなく瞬きを繰り返す横顔を覗きこんで、また胸の奥がきゅっと締まるのを感じる。
この子と、付き合ってるんだ。
好きで好きで仕方なかった子と、両想いになれたことが未だに信じられない。信じられないくらい、幸せで。
離したらこの現実は消えてしまうんじゃないかと、思う気持ちも少なからずあるから、いつだって繋いだ手はしっかり握りこむようにしている。
「一々ツボ突いてくるとかゆあちんマジ卑怯」
「ひ…きょうと言われても……あ、そうだ!」
「ん? なーに?」
照れた態度から一変、ぱっと上げられた顔は輝いていて、また胸が苦しくなる。
オレの寿命、ゆあちんに縮められてるよね確実に。平静保ててるの奇跡だよねこれ。
鼓動がまたテンポを速めるのを自覚しても、ゆあちんの言葉から意識を逸らすわけにもいかない。
話だけは真面目に聞こうと気合いを入れていると、あのね、と繋いだ手を軽く引かれた。
「休みの日の行き場所、一つだけ提案があって」
「え?…提案って」
休みの日、デートの約束をした日のことだとすぐに思い当たって、首を傾げる。
提案なんて言わなくても、ゆあちんが行きたいところだったらどこでも付き合う気でいるんだし、そのまま言ってくれればいいのに。
そう思ったオレに気付かないその子は、ほんの少し緊張した表情で口を開いた。
「お祭りなんか、どうかな…って。ちょうど、遠くない町で花火大会があるみたいなの。出店とかも楽しめると思うんだけど…」
どうかな?、と首を傾げるゆあちんに、見えない手に心臓を握り絞められる。
それでもなんとか、へらりとした笑顔をオレは返せたはずだ。
「んー、いいと思うよ。オレ結構お祭りは好き」
「本当? じゃあ、そうしちゃおっか」
「うん。あ、そうだゆあちん浴衣着る?」
「え? う、うん…そうだね。せっかくだし着ようかな…」
「やった! それも楽しみにするねー」
「そ、それは…あんまり期待されると怖い、かも」
困り気味に苦笑するゆあちんに、大丈夫でしょ、と切り返すオレの顔は多分、笑えていたはず。
間違っても、嬉しい気持ち以外はゆあちんには気取られなかったと思いたい。
(お祭り、か…)
その選択は、正直想定外だった。
オレはゆあちんに付き合いたくて、ゆあちんの喜ぶところに行くつもりだったから。
オレのこと考えてくれたんだ。
考えて悩んで、決めてくれたんだ。
それが解ってしまうから、嬉しいなと、素直に思う。
大事に想われて、オレのことをたくさん思い浮かべてくれたのは分かるから。
でも。
だけど。
(なんだろ…これ)
嬉しいのに。嬉しいから、行き場がない気持ちが生まれる。
本当にこれでいいのかな、なんて。
今更不安を覚えている自分を、誤魔化し続けることはできそうにない。
諭されるゆあちんと過ごす間、今まではずっと甘えきっていて。
今になって気付いたことがある。
「あれ…赤ちんいないんだ」
放課後になって部室に入ると、いつもなら早めに到着しているはずの赤ちんがいなかった。
代わりにいたのは、ちょうど今着替え終わったらしいミドチンで。
「ああ、生徒会との交渉があるらしい。赤司に用でもあったのか?」
「あー…うん、まぁ…そんなとこ」
赤ちんがいたら、部活前に話を聞いてもらおうと思ってたんだけどな…。
タイミングの悪さに肩を落とせば、あからさまな反応に気付いたらしいミドチンが眉を寄せた。
「何なのだよ、その態度は」
「いやー…だってミドチンに恋愛相談とか無茶ぶりでしょー?」
「な…」
一瞬、言葉に詰まったミドチンは気まずげに、ずれてもいない眼鏡の位置を正す。
「無茶と言われるほど無茶でも…ないだろう」
巻き込まれるのは御免だが、と呟くミドチンは話だけは聞いてくれる気でもあるのか。
相手としては不足気味だけど、吐き出したら少しはスッキリするかなぁと、ベンチに腰掛けながら少し考えた。
まぁ、いいか。話しちゃっても。
寧ろ詳しい事情を知らないミドチンの方が適当に流してくれるかもしれないし。
「ゆあちん。あの子さー、すごい優しいんだよね」
「…ただのノロケか」
「違うし。至って真面目な話だから」
苦虫を噛み潰したような顔で話を投げようとするミドチンを、心外だ、と睨み上げる。
オレだって真面目に考えるし、ノロケる相手は選ぶ。
「優しいから、オレのためにって考えて、喜ばせようとしてくれるんだよ。それはすごい嬉しいんだけど。でもオレ、そんな風に考えたことなかったなって思って」
一度でも、あったっけ。
ゆあちんが喜ぶことをしてあげようとか、そう思って行動に移したことは。
(なかった…気がする…)
ずん、と重い石が内臓に落ちてきたような感覚に襲われる。
「人間のレベルがさー…追い付いてないんだよね…」
与えられる優しさに釣り合わない。自分がたまに、嫌になる。
よくこんなんでゆあちんに好きになってもらえたよなぁと、自嘲して自分で傷付く。馬鹿らしいにも程があるけど。
不純物の溜まった息を吐き出そうとした時、少しの間黙っていたミドチンが意外にも、話に乗ってきた。
「何事も、見聞を深めるべきなのだよ」
「は?」
てっきり聞き流されると思っていたところに口を出されて、目を瞠る。
しかも言われた言葉の意味も解らなくて、呆然とするオレから顔を背けたミドチンはこっちを気にする様子もない。
「お前の得意技なんじゃないのか。その女を観察し続けるのは」
「…他人をストーカーみたいに言わないでくれる」
めちゃくちゃ心外なんだけど。
やらしいことなんてしてないのに、他から指摘されるとなんとなく嫌だ。
驚きも忘れてむっとするオレに気付いてか気付かないでか、話は続いた。
「何をしてやるかなど、オレの知ったことではない。が…その女が何に心を動かされているか、喜ぶのか…見て知って蓄えておくことは全くの無駄ではないだろう」
特に、長く傍に置くつもりなら。扱いを知っておけば長く大事にできるのだよ。
物でも人でも同じことだと、言い残して部室から出ていくミドチンに返す言葉は見つからなかった。
「……何それ」
部室に一人残されたオレは、やっぱり呆然と呟くしかない。
ミドチンからのまさかの助言は、撥ね除けられるほど的外れでもなくて。
今できることをするしかない、という。ただそれだけのことなんだろうけど。
らしいと言えばらしい、シンプルな答えが、それでもどうしてかあの口から出たものだとは、信じがたかった。
(ああ、でもそうだ。終わらせたくない)
(よく見て、よく聞いて)
(よく、知っていかないと)
20130819.
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