ひたすら人気のない場所を目指していた彼の足が止まったのは、校舎の最上階の端に位置する音楽室、そこに至る階段だった。
残すところはホームルームと清掃時間のみ。となれば音楽室に続くような場所に訪れる人間はいない。
足と背中を支えていた手がゆっくりと下がって、地に足がつく。
心臓は壊れそうなくらい暴れているけれど、もう私の身体は勝手に走り出すようなことはなかった。
身体が離れても彼の手は私の手を握りこんで、離してくれはしなかったけれど。
「あの…っオレ、多分色々、ゆあちんに謝んなきゃいけないんだと、思うんだけど…」
「っ、い、いいよ。もう…謝ってもらった、から…」
「でも…」
「いいの。それより、私…」
私の話、聞いてくれる…?
大きな手を握り返しながら小さく訊ねれば、緊張しきった頷きが返される。
繋いだ手の震えがどちらのものなのかも、もう判断がつかない。
顔を逸らしてはいけない。目を見つめなくちゃ、伝わらない。
今にも胸を突き破りそうな心臓を感じながら、思いきって顔を上げた先で彼の肩が跳ねるのが見えた。
(ああ)
おんなじだ。
それだけの動作からも、同じだけ苦しいのが分かる。
苦しげに眉を顰めて私を見下ろす彼も、きっと私と同じように心臓に殺されてしまうような気持ちでいるんだ。
熱に浮かされて夢を見るような、あの日彼の部屋で感じた高揚感に近いものが、舞い戻ってくる。
自然と、溜まった唾を飲み込んだ。
もう逃げられない。逃げないと決めた。
「…紫原くん」
静かに、呼び掛ける。
頭の中はいつになく纏まっていて、勢いさえつけばもう、躊躇う理由もない。
ぴくりと揺らいだ彼の目は不安げなのに期待を孕んでいて、繋いだ手にかかる力が増した。
ああ、そういえば、彼の気持ちを聞いたのもこんなシチュエーションだった。
意図して場所を選んだわけではないのだろう。けれど、偶然の一致が心に火を着ける。
あの時とは違う。恐怖心はない。
目線の高さより距離の近さを取って、段差も殆どない場所で彼を見上げる。
私の言葉をただ待ち続ける彼の瞳も、あの日とは大きく違った。
「私…ずっと、何度も…紫原くんを傷付けたと、思う」
「…そんなん、」
否定の句を紡ごうとする彼を、首を振って止めた。
私は、紫原くんの後悔を引き出したいわけじゃない。
「紫原くんは充分謝ってくれたよ。優しくもしてくれた。…なのに、こんなに時間が掛かって、たくさん…悩ませて。私、本当に駄目な人間だと思うの…」
歩み寄ってくれた彼を、私はきっと何度も傷付けた。
彼が私を傷付けていただけ、何倍もの威力でその刃は彼の胸に刺さったことだろう。
なのに、それでも、それだけ苦しい思いをしても、想いを捨てきれないでいてくれた。
悲痛な声で、縋ってきた姿が、目蓋の裏に焼き付いて消えない。
笑ってほしい、と彼は泣いた。
それがたった一つ、彼が口にした最初の願いだった。
でも、それだけが願いなわけじゃない。
好きになって、と。私は確かに、その言葉も聞いたのだ。
だけど…
(好きよ)
そんなこと、もう、願われなくたって当たり前のことなのに。
好きになったよ。頼まれなくても私は私の意思で、答えくらい選べるの。
「ゆあちんは、駄目なんかじゃないよ」
オレが苦しむのは、仕方なかったよ。
そう言って、何でも自分の所為にしてしまえるくらい、今でも彼は私を傷つけまいと必死で。
じん、と痛みが響く。その優しさに、胸を締め付けられて。
目の奥が痛くなると視界が揺らいで、彼の顔がよく見えなくなった。
(ああ、もう、どうして)
どうしてそんなに、私を好きでいてくれるの。
「私…」
どうしてこんなに、私に愛しく思わせるの。
好きだなんて、もう解りきったことなのに、際限なく込み上げるから量りきれない。
もう、どうしようもないよ。
好きで埋め尽くされて苦しいのに、身体中が熱く火照っていく。
(こんな気持ち、知らなかった)
あの時は、欠片も。
「私が、泣いても…紫原くんは、うざがったりしないよね」
「なに、それ…するわけ、」
「いくら背が高くても、踏み潰したりしない…私を睨んだりしないし、見下したりも……ゆっくり喋る声だって、ちゃんと優しい。逃げ出したくない。傍にいたいって、思う」
「っ……ゆあちん…」
「紫原くんが近寄ると、胸が痛いよ。今だって、声が震える。身体も。でも、でもねっ」
嫌なんて、思えないよ。
今感じる痛さも息苦しさも、少しも嫌えない。失いたくないとさえ思う。
溢れ出して止まらなくなるくらい私を想ってくれる人なんて、他にはいない。
こんなに、想いを与え返したいと思う人だって。
この人だけだ。
私が、好きになる人は。
「傷付けて…待たせて、ごめんなさい、私っ…」
彼に負けないくらい、溢れ出す気持ちが視界を奪う。
ぼたぼたと溢れる涙で濡れる頬を、拭う手は空いていなかった。
取り繕うことなんて、できるはずもなかった。
「あなたが、好きです…紫原くん…!」
でも、何だっていい。情けなくてもみっともなくても、今度こそ届かせる。
震えそうになる泣き声を振り絞って、やっと言葉にし直せた気持ちは、きっと今度こそ疑われない。
彼が息を飲むのが聞こえたのと、いつ離れたのか背中に回された腕に、痛いくらいに抱き締められたのは同時だった。
段差一つでは私の顔は彼の胸より上に押し付けられて、頭の上でひくりと、喉の痙攣する音も聞いた。
「ほ、んと…っ?」
震えていた。
彼も私と同じくらい、緊張と興奮に襲われていた。
「ゆあちん、それ、嘘じゃない? オレ、ほんとに好き…?」
「っ…うんっ」
好き。
ぐしゃりと、確かめるように髪に差し込まれる大きな手が、熱い。
私を覆い隠す広い背中に、応えるようにしがみついた。
「信じられないくらい…紫原くんが、大好き」
「っ……好き…オレ、ゆあちんが好き…! 本当に、ゆあちんだけが大好きだよ…っ」
「っ、うん…私も、好きよ…」
抱き締める腕も、声も、触れた背中も震えていて、私の顔も彼の顔も、きっとぐしゃぐしゃに歪んでいる。
身体ごと締め付けられる心臓は苦しいのに、疎めない。
密着した部分から伝わる心音は早くて、重ならないその音がもっと聴きたくて、しがみつく力を強くした。
想いが伝わるって、こんなに幸せなことなの。
涙で濡れてしまう制服も気にならない。ずっとこのまま時が止まればいいと、そう思うくらい。
想い合う幸せで、死にそう。
掻き消えそうな声で落とされた言葉に、その胸の温もりに身を任せていた私も、頷いて応えた。
20130317.
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