幼心の成長記 | ナノ




顔を合わせたら、まず落ち着いて深呼吸をする。
それから家まで押し掛けてしまったことを謝って、ちゃんと覚えてもらえているか判らないから、気持ちも伝え直して。
キスのことについては…追い追い。彼の出方を見て、できる限り冷静に、慌てずに対処していこう。

そう、心に決めて家を出てきたはずなのに。



「っ! ゆあちん、あの、」



朝練中は顔を合わせることなく平穏に過ごせていたから、完全に油断していた。

辿り着いた靴箱で、わざわざ待っていたのだと思う。背中を丸めて座り込んでいた彼が私の気配に気付いて顔を上げた瞬間、その口から名前を紡がれた瞬間に、私の手足は素早く支度を整えていた。

しまった、と。そう思った時には既に遅く。
真っ白になった頭が元に戻る頃には、私は教室の扉に手をついてぜいぜいと荒い息を吐いていて。

落ち着くとか冷静になるとか考えるより先に、正に脱兎のごとく、彼を置き去りにしてきてしまっていたのだ。



(っ…馬鹿…!?)



私、何してるの…!?

驚いて振り向くクラスメイト達の視線も気にならないくらい、パニックに陥った頭の中で叫んだ。

落ち着いて、謝って、それから気持ちも伝えて彼の言葉も聞こうと思っていたじゃないか。
顔を見ただけで、やるべきことと決めていたのに、全て飛んでいってしまうなんて。
そんなの、最悪過ぎる。



「おーい、ゆあ? 大丈夫?」

「っあ、や、何でも…ないよ…」



心配そうに顔の前で手を振ってきた友人には、ぎこちないながらも笑顔を返す。けれど内心はまだいっぱいいっぱいだ。

だって、逃げてしまった。紫原くんから、それはもうあからさまに。
クラスが同じな上に席まで隣なのに、逃げたって意味はないのに。



(どうしよう…)



どうしようもない。謝るしかない。
あんな態度を取られて、気にしないでいられる人間なんていない。特に彼には、きっととても悪い誤解をさせてしまう気がする。

不用意に傷付けたくはない。そう思っているのに。



(こ、今度こそ落ち着いて…)



私が意識しすぎなんだ。
顔を見るのが駄目なら、目を逸らしてでもいい。とにかく今は、彼と向き合わなくてはいけない。

そう思い、深呼吸しようとした時だった。



「おー紫原おはよ…お前、なんて顔してんだ…?」



近くにいた男子が、私の背後に呼び掛ける声がした瞬間、私の足はまた弾かれたように走り出していた。

ガタン、とぶつかる勢いで席に着き、机に放った鞄に突っ伏す。
ばくばくと脈打つ心臓の音と、燃えるように熱を持つ顔。反射的に動いてしまう身体に、目蓋からじわりと染み出した涙が腕を濡らした。



(だ、駄目だ。どうしよう。全然、駄目…)



混乱し過ぎて、頭で考える余裕がない。
逃げたいという気持ちばかりが、先行して身体を動かしてしまう。

すぐ後ろに、いたはずなのに。
今日だって隣の席に、座るのに。

ぐるぐると、脳は活発に回っているようなのに、空回りして。
おかしい。私はもう、怖くなんかないはずなのに。



(怖くない…違う…)



早く、早く謝って訂正しなくちゃいけない。
でも、顔を上げる勇気が出ない。

伏せたままでも、室内の空気が不穏にざわめくのは判った。そして数人が、まだ入口近くにいるらしい彼に何かを訊ねるような声も聞こえた。
けれどそれらを言葉として認識する余裕は私にはなく、ぐちゃぐちゃになってしまった思考を組み立て直すことすら儘ならない。

やがてクラスメイトから解放されたのか、静かに音を立てて引かれた隣の椅子の音にさえ、びくりと全身が引き攣ってしまう。
振り向くどころかそれでも顔が上げられない私に、突き刺さる視線には気付いていたのに。








逃走する




私は、忘れていたのだ。混乱した自分の行動力と、それに伴う無意識の配慮を。
一年間、彼の行動を熟知し逃走を重ね続けていた。その能力だけは並外れている私には、とっくの昔に逃げるための反射が身に付いている。

望んでいるつもりはない。本気で逃げたいわけでも、彼を傷付けたいわけでもないのは事実なのに。
彼がこちらを向く度に顔を背けて、話し掛けられる前に走り去る。教室以外ではその視界にも入らないよう、行動範囲を外して選んでしまう。

そんな以前よりも明白な拒否反応を、どうにか止めたいと思うのに止められない。
逸る心臓と空回りする脳が、過去に使用していた信号ばかりを、飛ばすから。



(どうしよう、謝らなくちゃ…)



でも身体が、言うことを聞かないの。
近くに寄られるだけで頭が沸騰したみたいに熱くなって、わけが判らなくなってしまって。

そうして私はまた、逃げ回る。
彼の傷付いた表情すら、確かめることもできずに。

20130227. 

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