思っていたより、心は落ち着いている。
熱の所為かいつもよりも更にぼんやりとした目をしながらも、プリンとゼリーを無事に完食した紫原くんは少し嫌がったけれど、薬もちゃんと飲んでくれた。
ゴミを片付けて姿勢を正した私は、さてこれからどうしようかと、身を起こしたまま何も言わずにこちらを見つめてくる彼を見上げる。
(寝かせた方がいいんだろうけど…)
でも、もし昨日の諍いを放って、聞かれた会話も誤解されたままなら、弁解しておかないと大変なことになる気がする。
どう切り出そう。
私を見つめる彼の目は虚ろで、何を思っているのか全く読み取れない。
まず、謝った方がいいよね。
昨日のこともだけれど、一番気になるのは勝手に部屋まで上がり込んでいることだ。
とりあえずそこから話そうと息を吸った時、ぴくりと動いて持ち上がった彼の手が伸びてきて口を塞がれた。
「っ!」
「ごめん…なんも、言わないで」
「ん…?」
強く押し付けられた掌は大きくて、鼻から下くらい簡単に覆われてしまう。
ぱちぱちと瞬きを繰り返す私を見て一瞬でその眉を顰めた彼は、戦慄く唇を無理矢理扱うように、ごめん、と謝った。
(何で…?)
謝るのは、私の方じゃないの?
彼が何を考えているのか、解らない。
力なく俯く首も、それがゆるゆると横に振られる動作の意味も、私には欠片も理解が追い付かなかった。
それでもされるがままに黙っていれば、口元を覆う手からは少しだけ力が抜ける。
「ずっと考えた…けど、どーせ無理なんだって、解ってる」
「…?」
「ごめんね…ゆあちん、ごめん…怖がらせて、ごめん。ほんと、オレバカだから、仕方ないんだって解ってるんだよ…」
何が、仕方ないの?
怖がったなんて、あんな一瞬のことを今更謝られなくたって、私は気にしていないのに。
弱々しく紡がれる声は、空気に溶けるように消えていく。
いつか、私を好きだと口にした時の彼が、頭を過った。
「力がさ、入んないの…手とかずっと震えてるみたいで、身体ん中も空っぽみたいで、すーすーする」
病気みたいだよね。
そう自嘲する姿はらしくなくて、俯いた顔も髪で隠れて、覗き込ませてももらえない。
何か言いたい。でも、何を言えばいいのかが判らない。
彼が、傷付いているのは解るのに。
その口から言葉が溢れ出す毎に、どくん、どくんと、身体中が心臓になってしまったかのように鼓動が響いた。
「オレ、ゆあちんに嫌われたら…病気になるかもって、思うよ」
力が抜けたように、倒れ込んできた身体を慌てて支えようとすれば、口元を覆っていた手も離れる。
代わりに腰に回った手に身体を引き寄せられて、ずるりと下った顔が肩口に埋まる。
その感覚にも、覚えがあった。
「ごめんね…ごめん。ゆあちん、好き…」
好き。
その一言だけで、肩が跳ねそうになった。
何度もその口から聞いたものなのに、どうしてか。
「ゆあちんに好きな奴いても、駄目だし。諦められるかなって、考えたけど…無理に決まってんじゃん…」
「紫原、くん‥」
「だって、ゆあちんが好きな奴より、絶対…オレの方が、好きなのにっ…無理だし、こんな好きなのに、ゆあちん……ごめん」
お願い。嫌いになんないで。
何でもするから。何回でも、謝るから。
支離滅裂な、ぐちゃぐちゃになった心をそのまま曝け出したような彼の声に、言葉に、私の呼吸まで釣られて乱れる。
彼が、泣いている。
ひくりと、すぐ近くで引き攣る喉の音に、身体ごと心臓を握り締められた気がした。
(どう、しよう)
苦しい。私まで、熱が上がったみたいに朦朧としてしまう。
頭に血が集まったように熱くて、くらりと目眩がした。
「好かれたい、よ…ゆあちん、オレを、好きになってよ…」
心臓を、突き刺される。何度も何度も、凄まじい熱量で埋め尽くされていく。
(好き)
好き。私だって、好きよ。
同じだけを返したくて、でも私には大き過ぎて、扱いきれない。
受け止めきれずに溢れた想いで、視界が滲む。頬が濡れてやっと、自分が泣いていることに気づいた。
「紫原、くん…」
「好き」
「ま、って、お願い、待って」
止め処なく溢れ落ちる。拾いきれない彼のそれを、それでも拾い集めたい。
自分の気持ちの量くらいなら測りきれたはずだった。けれど、彼の想いについては、軽んじていたのかもしれない。
(溢れる)
溢れちゃうよ、こんなの。
こんなに私の中に流し込まれても、処理しきれない。溺れてしまう。
だって、こんなに大きな身体に、どれだけ詰め込んだら溢れて止まらなくなるの…?
彼の中にある私への気持ちは一体、どれだけ。
私はどれだけ、大切に想われているの。
「っ…き……」
「…ゆあちん?」
私の中にある気持ちを彼に分ければ、溺れずにすむだろうか。
きっと、それでも溺れさせられる。
でも、そんなことはどうでもいい。
考えるだけの理性なんて、疾うに壊されてしまった。
「すき…っ私、紫原くんが、好き……っ」
苦しくて、息もできなくなるくらい、好き。
こんな思いをするのも、こんなに想われることも、きっとない。彼にしか、ない。
それだけのことが愛しくて、だけど切なくて堪らなくて。
私の肩から顔を上げた彼の表情を、読み取る余裕もなかった。
「…オレが、好き」
ぽつりと、呟かれた声に頷こうとした。けれどそれを遮るように背中にあった手が昇って、後頭部を掴まれた私は目を瞠る。
涙の膜の張った目で、高揚しきった頭で、彼の意図を読み取ろうとしても間に合わなかった。
「む…っん」
意味もなく、彼を呼ぼうとした唇が柔らかく熱い感触に塞がれる。
それが何なのか、一瞬後に理解した頭の中は、今までの混沌とした感情が嘘だったかのように真っ白になる。
「……っ!」
反射的に固まる身体には、気付かれなかったのかもしれない。
啄むように何度か重ねられた唇が離れて、動揺に震える息を吐き出そうとすれば、待ち構えていたようにもう一度。
今度はぬるりと、弛んだ唇から熱い舌が割り込んでくる。
驚いてくぐもった声を上げる私の反応を、更に引き出そうとするように動く。ざらりと上顎をなぞられた途端に、ぞくん、と背筋を駆け抜けた感覚に悲鳴を上げそうになった。
何が起こってるの。
何で急に、こんな。
まるで、彼に食べられているような錯覚に襲われる。
わけが解らないまま、ぼやける頭が必死に考えることを放棄しようとする頃。隅々まで舐め回して満足したのか、最後に縮こまっていた私の舌を撫でるようにして、漸くそれは出ていった。
「ふ、はぁ…は……っ」
「ゆあちん…好き」
うまく呼吸を確保できなかった私が肩で息を吐いているのに、気にも留めていないように寄り掛かってくる彼を、混乱も後回しに支える。
そしてずしりと重みの増した身体に、私は押し潰されそうになって声を上げた。
「む、らさきばらくんっ? ちょっと、あの……っ!?」
そして、気づいた事実に呆然となりそうになり、更に潰されそうになって慌てて全力で押し返した。
ぼすり、とベッドに倒れた彼の顔は真っ赤で、確実に、これは。
(熱、上がってる…!!)
しかも気絶するレベルということは、かなり不味いのでは。
何を考えるよりも先に急いで探ったバッグから冷却シートを取り出して、長い前髪を掻き分けて額に貼り付ける。
もしかして、具合が悪いのに感情を昂らせて、無理をさせたのだろうか。
小刻みな呼吸を聞き取って、申し訳ない気持ちになりながら、それでも私の方もこれ以上冷静さを保つのは無理だった。
濡れたままの唇へと無意識に伸びた指に、血液が駆け上る。
熱を集める顔を、見ている人もいないのにどうにかしたくて、彼の横たわるベッドの傍らにぼすん、と埋めて羞恥に耐えた。
でも、こんなの、耐えられるわけがない。
「……死んじゃうよ…」
生々しく残った感触に、心臓が胸を突き破ってしまいそうで。
ばくばくと強く脈打つ胸を、ぎゅう、と制服の上から握り締めながら、半分泣いているような声が喉から漏れ出した。
混乱する嫌だったわけじゃない。嫌だなんて、思わない。けれど。
次に彼と目を合わせた時、私はどんな顔をすればいいのか。どうすればいいのか、もう判らなくなってしまった。
20130207.
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