もう行くね、と。逃げるように離れていく背中に、手を伸ばすことが出来なかった。
固まって動かなくなった手先には、まだ大きく震えた感触が残っている。
目蓋には、見開かれた恐怖を映した目が、戦慄いた唇が、焼き付いて。
(どうしよ)
どうしよう。どうしよう、どうしよう。
じわじわと、息が詰まりだす。心臓が締め上げられていく。
もう見ないと思っていた。あの子のあんな顔は、もう二度と見ないように、気を付けていたはずなのに。
怖がられた。
その事実に、頭の中がぐちゃぐちゃになりそうだった。
オレはまた、あの子を怖がらせた。
オレが、あの子に、あんな顔をさせた。
「どうしよ、赤ちん」
オレ、また失敗しちゃった。
怖がらせちゃった。あんなに近くにいてくれたのに、笑ってくれてたのに。
話を聞いて、自分の気持ちを口にしてくれてたあの子を、突き放した。
傷付けたんだ。きっと。
(バカだ)
バカだ。本当に、救いようがないバカだ。
黒ちんのことを話しながら伏せられていた目が、悲しそうな顔がちらついて、頭を抱えてしゃがみこむ。
何回間違えれば気が済むんだろう。
何回あの子に酷いことをすれば、治るんだろう。
「オレ…ゆあちんに、嫌われる…」
こんなことをずっと繰り返して、好きになってもらえるわけない。
優しくできない奴なんか、あの子に好かれる人間じゃない。
苦しくて、悲しくて、どうしようもない。
自己嫌悪で泣きそうになっている頭の上に、落ちてきたのは聞き慣れた溜息だった。
「お前は馬鹿だな」
「っ……」
「後悔するなら最初から滅多な口を利くものじゃない」
ぐさり。突き刺さる言葉は尤もで、当たり前のことだから痛かった。
本当に何で、口に出す前に止められないんだろう。
あの子にぶつける前に自分に向けていれば、ここまでどうしようもなくなることもないのに。
「そのまま花守に嫌われてしまうか」
「っやだ…!」
「ならどうするべきか、自分で考えろ」
「……ゆあちんに、謝る…」
「そうだな。正解だ」
部活に励む後輩から目を逸らさず、オレが出した答えを認めてくれた赤ちんを見上げて、でも、と思う。
怖がられてしまったら、近付かれるのも嫌がられるんじゃないの。
考えただけで泣きたくなるけど、可能性はある気がする。
今までのやり取りを思い出せば、最悪のイメージなんて簡単に導き出せた。
「…それで、オレ、嫌われたりしない…?」
「どうだろうな」
「なっ、何それ…やだし。だったら近付いたってダメじゃん!」
近付いたって嫌われるならどうしようもないじゃん!
思わず叫んだ。
そんなのは嫌だ。折角、触っても平気なくらいにまで近付けていたのに、そんなのは。
自分の所為だと解っていても、嫌で。そんなことになったら本当に、おかしくなってしまいそうで。
なのに今日の赤ちんは優しくなくて、返ってきたのは鋭い視線だった。
「ならそのまま嫌われてしまえ。いい加減僕が奪いに行ってもいいんだぞ」
「! やだ!!」
それだけはダメ! 絶対ダメ…!!
いくら赤ちんでも、あの子だけはダメだ。奪われたくない。
オレが何をするかも判らないし、そうなっても絶対に敵わない。あの子の笑顔だって、きっとオレよりずっとうまく引き出せるんだ。
そんなの、
(ダメだ)
奪われたら、終わりだ。
結論が出るのは早かった。
「きっ…嫌いにならないでって、頼む。ゆあちんに、ちゃんと謝って…ダメでも……」
ダメでも、諦められないことはもう、解ってる。
何回でも、バカみたいでも、繰り返し謝って頑張るしかないんだ。オレは。
「そうか。なら行ってくるといい。そろそろ部活も終わるからな」
部室辺りにいるだろう、と涼しげな顔で助言してくれる赤ちんに、ちょっと前までの威圧感は消えていた。
けど、きっとさっきの言葉だって冗談なんかじゃない。
オレがどうしようもなければ、ゆあちんは簡単に奪われてしまうんだ。
背中に走る冷たい感覚に急かされて、もう一度立ち上がった。
赤ちんでも、誰であっても、あの子だけはとられたくなかった。今はまだ無理でももっと頑張って、いつかはオレが、好かれたくて。だけど。
それが叶わないと知った時、身体中の感覚が抜け落ちて、真っ暗な穴の中に突き落とされたような気がした。
「まぁでも、ゆあは決まってるようなもんだもんねー」
「え? あ、えっと…」
赤ちんの言っていた通り、部室にはマネージャーが数名集まっているみたいだった。
多分備品や処分するものでも分けていたんだと思う。開け放たれたドアに少し近付いただけで、がちゃがちゃとした音や中の話し声が漏れていた。
それ以上足が進まなかったのは、何でだろう。
ドアまであと数歩の距離で止まってしまったオレの耳に、女子達の声が入り込む。
「いいよねーゆあは青春してて! 私も恋したかったなー」
「え、いや、そんなことは…」
「なくないでしょ! んで? 実際どうなのよゆあさん的には?」
「あ、え…うー…ん…」
口籠もるその声は、聞き間違えるはずもない。あの子のものだった。
それでも聞こえてきた内容をすぐには把握できなかったのは、そんな現実を受け入れたくなかったからで。
「す…好き……です…」
躊躇いがちに、小さく呟かれたはずの声が、信じられないくらい重かった。
(すき…?)
誰を?
恋って…誰が、誰に?
ぐらあ、と視界が歪む。
誰、って。そんなの、聞こえたじゃん。
(好きな、奴、いるの)
どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
さっきとは比べものにならない目眩に、地面が揺れているみたいに感じる。
(吐き、そ…)
気持ち悪い。頭が、痛くもないのにがんがんと揺さぶられる。
謝らなきゃいけなかったのに。早く、伝えなきゃいけないのに。
でもきっと、今行っても、また間違いそうな気しかしなくて。
今までより、もっと酷いことをしてしまいそうで。
そんなこと、したいわけじゃなくて。したくなくて。でも痛くて。苦しくて。
「ゆあちん…好きな奴いる、って…」
どうやって、体育館まで戻ったのかも判らない。
壁に手をついて戻ってきたオレを見上げた赤ちんは、軽く目を見開いた。
「…花守がそう言ったのか?」
「謝りに、行ったら…話してて」
どうしよう。
もうオレ、駄目かもしんない。
好きで、大好きで仕方なくて。笑っててほしいけどその隣に、オレじゃない奴が並ぶなんて考えたら、気持ちが悪い。
でも、驚いた顔をしてる赤ちんにも、きっともう頼ったって意味がないんだ。
あの子の心は、あの子のものだから。どうしたってもう、手に入らないんだ。
でも、オレは、
「ゆあちんが、好きなのに…っ」
崩落する大好きだよ。笑ってほしい。笑わせてあげたいって、思うのに。
あの子がそれで幸せでも、オレは全然嬉しくなれないよ。
20130128.
prev /
next