放課後の教室内は静かで、聞こえる音と言えば紙を捲る時に聞こえる音やシャープペンの走るそれ、それから合間に響くのがお菓子を咀嚼する音なのは…彼がいる限りは当たり前のように響くので、だんだんとそれが当たり前のものになってしまった。
自分のノートを整理しながら、その傍ら彼の手元も覗いて間違いがないかを軽くチェックする。
片手がお菓子で塞がっているため字はよれよれと紙の上を泳いではいるけれど、ケアレスミスを除けばそこまで大きな間違いはない。
勉強会も残すところあと三日ほど。この調子なら赤点は確実に免れそうなことに内心ほっとしていた。
紫原くんが勉強を苦手としていないことは、意外ではあったけれど。
「んー…ゆあちん、これ漢字分かんない…」
「あ、うん。これは、こう」
ぼうっと、俯いていた彼を見つめていれば唐突に上げられた視線に、軽く肩が跳ねそうになった。
いけない。勉強に集中しないと。
ついつい彼に引き寄せられてしまう目を何度か瞬きさせて、ノートの端にシャープペンを走らせる。
そうしながら随分と進められた単元に気づいて、再び驚かされた。
「! 紫原くん…これ、今日やる分終わるね」
「うん。頑張ったからねー」
信じられない。これが普段勉強しないらしい人間のスピード…?
夕方の6時までと決めている勉強会で、範囲は試験に間に合うレベルだから決して少なくはない。
まだ5時からそうずれていない壁にかかった時計の短針と、へらりと笑う彼を見比べて私は軽く固まった。
予想外過ぎる。
「勉強してたらゆあちんと喋れないしー」
早く終わったらその分時間が余るかなって。
そう言って首を傾げる姿に、きゅう、と胸が絞られる。
顔が赤くなりはしないか、少しだけ不安になりながらも悪戯心が湧いてしまうのは…随分と彼に絆されているからだと思う。
「早く終わったら、その分早く帰れるんじゃない…?」
「えっ」
少し、ほんの少しだけ…意地悪をしてそんな言葉を掛けてみれば、予想通り。
はっと目を丸くして背筋を伸ばした紫原くんは、慌てた様子で首を横に振った。
「や、やだ。まだ勉強するし。ゆあちん次の教科! えっと…何だっけ、何でもいいけど…」
「…ふふっ」
「? ゆあちん…?」
「ごめんね。まだ帰らないから、大丈夫」
想像できていたイメージでも、実際に見せられると擽ったくて堪らない。
眉を下げたまま狼狽えた彼に手招きで屈んでくれるよう伝えれば、不安げな表情はそのままにその頭が降りてきた。
「でも紫原くん、偉いね」
シャープペンを机に転がして伸ばした手を、柔らかな髪に差し込む。
そのまま褒めるように掻き回して撫でれば、俯き加減の彼の頬がじわじわと朱に染まっていくのが見えた。
なんだかその様が可愛くて、私も照れるのに嬉しくも感じてしまう。
好きだなぁ…なんて考えながらふわふわとした時間に身を委ねていると、ちらりと上がった視線と目が合った。
「っ…ゆあちん…」
「うん?」
「勉強ぶっ飛んだかもしんない…」
「えっ」
それは一大事だ。
紫原くんならあってもおかしくなさそうな事情に慌てて引こうとした腕は、しかし手首をがしりと捕まれてしまったことにより叶わなかった。
犯人なんて、一人しかいない。
「む、紫原くん…?」
さすがに今まで教えた分が、頭から飛んでいってしまうのは困る。
離して?、と言外に首を傾けて頼んでみたけれど、彼の逆襲には勝てなかった。
「もうちょっと…」
「え、っと…でも勉強が」
「倍頑張るから、ゆあちん…触って」
お願い、と頼りなげな顔をして見つめられて、断れる人間はいるのだろうか。
図体は大きいのにそんな健気な訴えをする彼に射抜かれて、私は再び込み上げる熱に声をあげて降参してしまいたくなった。
先に惚れた方が敗けだなんて、絶対に嘘だと思う。
要求する紫原くんは、たまにあざとい。
(ゆあちん好き…きもちい。大好き)
(う、も、もういいかな…)
(…まだ、もーちょっと)
(勉強、間に合わなくなっちゃうんじゃないの…っ?)
(だから、頑張るためにゆあちん補充すんのー)
(だ、大丈夫かな……)
20121202.
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