こんなんじゃ、なかった気がする。
こんなもんじゃ終わらなかった。そう覚えている。
「ひ、酷いよ紫原くん! 何でそんなこと言うのっ?」
そんな人だと思わなかった、とか、勝手な理想を押し付けておいて逆ギレする目の前の人間を見下ろして、頭の奥が痛んだ。
ろくに仕事もできないくせに近くをうろつく女は鬱陶しくて、しかもゆあちんに悪意がある奴だというから視界に入るだけで苛つくのも当然で。
それはギリギリまで堪えていたのに、話しかけてきたそいつに少し強めに邪魔だと言っただけで、ぼろぼろと泣きながら責められて気持ちが悪くなった。
(ゆあちんは)
あの子は、もっと酷いことを言っても絶対にオレを責めたりはしなかった。
涙だって、限界まで堪えて、多分逃げ出した先でオレに見えないように泣いていた。
なのに、明らかに1年の頃のゆあちんより仕事ができない、やる気もないような奴が当たり前のように責めてくるのが意味が解らなくて。
酷いとか最低だとか、お前が言うなとは思うのに、完全に否定しきれなくて吐き気がした。
(…気持ちわるい)
ゆあちんじゃないのに。ゆあちんにはもっと酷いことをしたのに。
だったら、それなら、もしかしたらあの子も、同じようなことを思っていたのか。
そう考えたらずしりと、胸の中に石が落ちてきたような嫌な感覚がして、息が苦しくなった。
違う。こいつはゆあちんとは違うのに。
「バカじゃないの」
泣きながら、自分の言いたいことだけ言って人を傷つけようとする。
その姿は多分、昔のオレによく似ていた。
ああ、こんなに馬鹿だったんだ。理不尽で最低で、汚い。
そんなことを自覚する度に、どうしようもなく苦しくなる。
「1年の頃のゆあちんより仕事できない奴に、文句言うのなんか当たり前じゃん」
「なっ…何でそこで花守がっ」
「はぁ? そっちが標的にしたからじゃん。何も知らないで、いっつもゆあちんばっか狙ってさー」
ゆあちんは優しすぎるから、いつもいつも、傷付けられて終わりで。
その中に自分が入っていることは百も承知だけど、それでも苛つくし許せない。
自分も。自分以外も。
「最低なのはそっちだし。あんまり調子のるとヒネリつぶすよ」
「っひ!」
殴り飛ばしたいくらい、本当は苛ついてる。
けど、さすがにそれは赤ちんが許してくれないだろうし、ゆあちんも気にするだろうからできなかった。
一瞬でも、こんな奴のことに気を取られてほしくない。
少し脅しただけで腰を抜かして座り込むそいつの弱さに余計に苛立って、さっさとその場から離れることにした。
他の奴も今頃一軍メンバーにぼろくそ言われているはずだ。
(頭痛い…)
色々、考えすぎてくらくらする。
とりあえず血が昇った頭を冷やそうと思って水道場に向かいながら、自分が口にした言葉を反芻した。
最低なのは、知ってる。オレもだ。
後から後から肺の中に落ちてくる石の所為で、息が詰まる。
(本当は)
本当は、オレはあの子に好きだなんて、言っちゃいけないんじゃないか。
だって、あんなに汚い人間と同じようなことをしたのに、優しいあの子に近付いてもいいのか。
いつも、考えないわけじゃない。
一番あの子を傷付けたオレが、あんなに優しくされていいのか。
考えれば考えるほど自分が許せなくて、とてつもなく汚い人間に思えて苦しくなる。
だから、優しくされて嬉しいのに、怖くて悲しくて悔しくて堪らなくなる時があって。
謝りたくて、謝ったって、自分が許せなくて苦しくて。
だけどそんな時に限って、ゆあちんは自分の心配はせずに躊躇いなく踏み入ってくるから、オレはまたズルい人間にしかなれない。
「大丈夫。紫原くんが狡くても、私は嫌いにならないから」
首に回された腕は、細くて折れそうなのにオレをしっかりと包み込んで慰める。
馬鹿みたいに優しいその子の言葉を真に受けて、調子に乗る自分がいるのも知ってる。
そんな自分を好きにはなれないし、多分ずっと許せないままなんだとも理解している。
だけど、許せなくても、我慢もできない。
(どうしようもないくらい、好き)
肺の中の石はきっと、そういうものなんだと思う。窒息しそうになるのは、だからだと思う。
これだけは本当で、嘘じゃない。
ズルい人間は嫌いになって、なんて言えなかった。
低い位置にある肩に頭を預けて、柔らかな温もりと匂いに擦り寄っても、受け入れてくれるゆあちんの中に、居続けたいと思った。
切望する積もり積もって、この子を守れる盾になれればいい。
傍にいさせてくれるなら、どれだけ苦しくても構わないから。
20121122.
prev /
next