体育倉庫での一件から三日目。
できる限りの注意を払って一軍の練習に近付かずにいる私の代わりに、キャプテンや監督、マネージャー同士の連絡などは殆ど鍬田さんが肩代わりしてくれている。
その分二軍部員の記録や引き継ぎに力を入れることはできるのだけれど…今日もまた一軍の方へ指示を受けに行っていた鍬田さんが、真っ青になった顔を隠しもせずに帰ってきたことに、自然と私の眉が寄った。
「鍬田さん、何かあった?」
まさか他者の目がある場で嫌がらせを受けたりすることはないとは思うのだけれど、何事も絶対とは言いきれない。
ふらふらと覚束ない足取りで歩み寄ってきた彼女に声をかければ、いえ…と掠れた、彼女らしくない返事が返ってくる。
何かがあったのは確実で、教えてくれないかな…とじっと見つめてみれば、俯きがちになっていたその目が少しだけ、私を写して揺れた。
「先輩…あんなの、無理です」
「…あんなのって?」
「あんな、怖いなんて…あれ以上だったなんて…花守先輩、よく部活続けられましたね…私だったら、無理…」
何のことを言われているのか、なんとなく解ってしまった。
鍬田さんに矛先が向くことはないだろうから、その現場を偶然目撃してしまったのかもしれない。
未だ記憶に色濃く残るその姿を思い起こして、少しだけ私の心臓まで絞めつけられた気持ちになる。
「紫原先輩…すごく、怖かった…」
彼のことを好きだった子がここまで怖がっているのだから、やはり相当なのだろう。
かたかたと震える指を見てとって、それでも、それ以上を知っているらしい私に恐怖が伝染することはなかった。
意外と、気持ちは落ち着いている。
「…ドリンク補給しなくちゃいけないから、作ってくるね」
「えっ…でも私の仕事、」
「鍬田さんは少し休んでて。あんまり考えすぎないように」
数名分のスクイズボトルを纏めて入れた篭を手に、部員への指示だけは出しておくように頼めば、彼女は戸惑いながらも頷いてくれた。
一人でいると思考は深みに向かいやすいから、暫くは騒がしい方で仕事をしてもらおう。
考えすぎては失敗することも増えるし、何よりトラウマは浅い方がいい。
そして私は彼女とは逆に、考えなければいけない。
思い出しても、昔の私のような表情をした鍬田さんを見ても、あの頃に感じた恐ろしさはもう、込み上げてこなかった。その意味をしっかりと受け止めなければ。
そんなことを思いながら、スクイズを軽く濯ぐために外の水道へ向かった私は、そのすぐ近くで立ち竦んでいる、今正に思考の中心にいた彼の姿に思わず足を止めた。
「紫原くん?」
「! あ…ゆあちん」
「どうしたの? 練習中じゃ…」
ぼんやりと水道場の方へ投げられていた視線が、はっとこちらに向いて、すぐにその肩が落ちる。
傍目から見ても落ち込んでいると分かる仕草に、つい思考も仕事も頭から抜け落ちて、自然と足は彼の傍へと向いてしまった。
部活中は近づかない約束ではあったけれど、分かりやすく沈んだ姿を見て放っておけるはずもない。
「紫原くん、どうしたの…?」
「んー…」
そっとその腕に手を添えてみると更に顔が俯いたけれど、その表情は身長差のお陰で丸見えだ。
渋るように唸る彼の目は痛みを堪えるように揺れていて、もう一度どうしたの、と囁きかければ軽く首を振って返された。
「何でもない」
「…嘘。私もう、紫原くんの嘘は判るよ」
「……うそ、かもだけど。でも…ゆあちんには言えない」
「どうして?」
「ズルいから」
限界だったのだと思う。
ぽたりと、落ちてきた雫が私の頬を伝っていった。
くしゃりと歪んだ顔は子供が泣くのを堪えているようで、結果的には堪えきれずに溢れだしてしまったのだけれど。
言葉にならない唸りを喉から絞り出して、彼はその大きな手で自分の顔を覆った。
「私には、教えたくない?」
傷付けてしまわないようそっと訊ねた声に、少しだけ間を置いて、逡巡しながらも震える声が発せられた。
「最低、だって…ひどいんだって…言われた」
「…あの子達に?」
「ん、でもそんなん、あいつらに言われたくねーし…ゆあちんに酷いこと言ったりしたりするなら、あっちだって言われて当然…だけど、」
「うん?」
「でも、ゆあちんは、言ってよかったんだよ」
オレに、もっと酷いこと言う権利、あったよ。
そんな言葉を途切れ途切れに口に出して、自分で痛がっている彼に、私は少しだけ目蓋を伏せた。
彼を責める気持ちなんてこれっぽっちもない。それは、私が彼を怖がっていた時ですらそうだった。
そして、思う。
私が彼に厳しい言葉をかけることを正しいと思いながら、怖がっているのはきっと彼の方だ。
言われて当然だと思いながら、それでも、嫌われたくはないと思っている。それくらいは容易に想像がついた。
確かに、狡いかもしれない。ここで私に縋るのは、あまりいいことではないのかもしれない。けれど。
(でも、私は)
もう、怖くなくて。嫌いになんてなれるわけもなくて。
彼が望むから優しくするのではなくて、私が彼を好きだと思うから、優しくしたいのだ。
「紫原くん」
「っ、…な、にっ」
屈んで、と腕を引けば素直に近付いてきた、その首を引き寄せる。
びくりと揺れた身体は気にせず、私の肩に顔を埋めさせるように手を回した。
「は、っ…ゆあちん…っ?」
「思い出しちゃったんだね…それで、私まで重ねて見ちゃったかな」
「え、あー…えっと…」
驚いて、戸惑う声を上げながらも離れようとはしない。
どうやら涙は止まったようで、私の肩はそれほど濡れなかった。
大丈夫だよと、伝わるように柔らかい髪に指を通す。
ゆっくりと頭を撫でてあげれば、軽く固まっていたその首から力が抜けたように、重みがかかった。
「もー……やだ」
「何が?」
「…ゆあちん、優しすぎるし…オレすごいズルい奴みたいだし」
ぐずる子供がするようにぐりぐりと押し付けられる顔に、心臓が絞られるように苦しい。
苦しいのに、恥ずかしさもあるのに…愛しくて。
(ああ)
好きなんだ。
私、この人が本当に、好きなんだな…なんて。
思い知らされて、つい、嬉しくなってしまうから困る。
「大丈夫。紫原くんが狡くても、私は嫌いにならないから」
多分もう、何を見ても彼を怖いと思うことはない。
思い出しても、心は震えない。
それが嬉しくて弛む頬を堪えきれないでいると、少しだけ首を擡げた彼は怒っているような困っているような、そんな表情を真っ赤な顔に浮かべていた。
「……何でそーゆーこと言うの…ゆあちんバカじゃないの…」
「…バカかな」
「バカだよ。だって、怒らなきゃいけないとこだし」
「でも…私、紫原くんの気持ちは嬉しいの」
私のために何度も傷つく姿は、痛々しいけれど。
それはそれだけ必死に、好きでいてくれているからだと解るから。
だからありがとう、と囁けば、再び落ちてきた頭が首もとに埋まった。
「ゆあちん…好き」
涙混じりの声は、それだけでも胸が一杯になるくらい、優しかった。
感じ入る(でも、ゆあちんもズルい…)
(え?)
(可愛いし、優しいし…好きすぎて窒息したらゆあちんのせいだからね)
(え…っご、ごめんなさい…?)
(…てゆーか、もう心臓爆発しそうだから…離してほしいし)
(え、あ、はい…)
(……でも、嬉しいから…また触ってね)
(! う、うん)
20121113.
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