最近、見つけた癖がある。
聞いてほしいこと、訊ねたいことがある時、彼は少しだけ顔を傾けながらじいっと見つめてくるのだ。それは授業中にも関わらず、黒板や教師には見向きもせずに、じいっと。
今日もその熱視線に耐え兼ねて軽く隣に目をやれば、ぱちりと瞬く瞳が嬉しそうに細まる。
もう、なんというか、それだけで動揺してしまう私は既に殆ど負けている気分なのだけれど。
「何かあったの…?」
休み時間に入ってすぐに身体ごとそちらに向き直れば、結局一時間ずっと私を観察することに徹してシャープペンを握ることすらしなかった紫原くんは、うーんとねぇ、と彼特有のまったりと間延びする声を発しながら、やはり首を傾げてきた。
「ゆあちん、携帯持ってるよねー」
「? うん、持ってるね」
帝光中学バスケ部といえば、言わずと知れた強豪。二軍と言えどマネージャーの仕事は結構ハードで、居残ることも少なくはなかった。
このご時世だし、家に連絡の一つも入れられないのはさすがに困るだろうということで、両親が進んで用意してくれたのだ。
あくまでも連絡用なので頻繁に携帯を触っているわけではないけれど、部活や学校の連絡事に関しては、遠慮なく使わせてもらっている。
「オレ、ゆあちんのアドレスとか番号、ほしいんだー」
「え? うん、いいけど」
「!…本当? いいの?」
「うん?…だって、使うかもしれないから聞くんでしょう?」
配属が違うとはいえ、同じ部活の部員でクラスメイトだ。
別に、抵抗感はない。というか寧ろ、少しだけ仲良くできているような気がしている今、連絡先を知らないということの方が違和感を覚えたりして。
こんなことを考えるようになるなんて、一年前の私じゃ想像もつかないだろうな…。
いそいそと、喜びのオーラを隠しもせずに鞄を漁る紫原くんは本当に分かりやすくて、好かれているんだなぁ…と、じわりと胸の奥が暖まった。
切り刻まれてぐちゃぐちゃに潰されたことなんて、殆ど忘れかけてしまえるくらい注意深く接してくる彼が、少しだけ切ないけれど。
「ゆあちん、赤外線ー」
「うん、じゃあ送信するね」
こちらも鞄から取り出した折り畳みの携帯を、プロフィールを開いて通信用のポートを彼へと向ける。
数秒の間を置いて送信修了の文字が出ると、紫原くんは何故かすぐに自分の分の携帯を引いて弄り始めた。
「紫原くん…?」
てっきり交換するのかと思っていれば、どうやらアドレス帳を確認したらしい彼はすぐに携帯を仕舞ってしまった。
何故…と疑問を込めて彼を見つめれば、お礼にあげるね、と差し出されるまいう棒が一本。
「ありがと、ゆあちん」
「え? う、ん…」
「あとでメールするねー」
「今じゃ、駄目なの?」
それは自然と出てきた疑問であって、勿論責めるつもりなどなかった。
けれど、それまで笑顔だった紫原くんの表情が一瞬、どこか寂しげに揺らいで。
迷子になった子供のような頼りない瞳は、すぐに何でもなかったように、いつものぼんやりとしたものに戻りはしたのだけれど。
不用意に彼を傷つけてしまったのかと、不安が胸を過った時、タイミング悪く教室に入ってきた教師が授業の開始を告げてしまった。
「あ…えっと、」
どうしよう。
傷つけてしまったなら謝りたい。けれど原因が何なのか判らない。
とりあえず、次の休み時間に持ち越すべきかと考えていれば、ぽつりと、彼の口から零れ落ちた。
「やっと、叶いそうだから…」
「え?」
「ありがとね、ゆあちん」
「……うん」
何がありがとうなのか、語られはしないし、理解もできない。
だけど彼は、満面の笑みとは言い難いものの、笑っていたから。
だから私はそれ以上踏み込んではいけないのだと、そう解釈して頷いた。
彼の中で決着がついていることなら、他人が踏み込んで荒らす必要はない。
何か考えがあるのならと、その後私は話題を引き摺らなかった。
その日の夜、もうすぐ日付が変わるかという頃に短く鳴ったメールの着信音に、そろそろ眠る準備をしていた私は驚いて振り返った。
急ぎの連絡でもこんなに遅くにはさすがに回ってこない。
もしかして、と受信ボックスを開けば、送信者は私の予想を裏切らない彼だった。
電話を掛けても大丈夫かと問い掛ける一文と、その下に改行を挟んで彼のフルネームが並ぶ。
その気遣いが何だか彼らしくなくて、少し口許が綻ぶのを感じた。
いいよ、とこちらも短いメールを返せば、数十秒置いてから響いたのは今度は電話の着信音で。
少しだけ、ほんの少しだけボタンを押す指が震えたのは、緊張のため。
「も、もしもし…?」
引っくり返りそうになった声をなんとか留めて、ベッドに座ったまま姿勢を正す。
様子なんて伝わるはずはないのだけれど、なんとなくだらけた体勢は取れなかった。
『もしもし、ゆあちん…?』
「うん、えっと…こんばんは」
少しだけくぐもった声が、耳のすぐ傍から響いてくる。
相手が紫原くんだとやっぱり何か違うのか、軽く肩がびくりと引き攣る。
決して、怖いわけでも嫌なわけでもないのだけれど。
『んー…あのね、ゆあちん』
「うん?」
『……おめでとう…』
「え?」
『誕生日…おめでとう、ゆあちん』
「…え?…あっ」
はっ、と壁に掛けてある時計を見上げて、思わず息を飲んだ。
図ったかのように長針は12の文字を指していて、変わった日付は確かに、私の生まれた日付と重なっていた。
呆然と固まる私に気づいているのかいないのか、同じようにどこかで携帯を耳に当てているのであろう彼が、安心したような嬉しそうな声で呟く。
よかった、と。
『オレ、一番だよね』
「っ…え、と…何で…」
どうして誕生日だなんて、知っているの?
うまく回転しない頭で戸惑うままに疑問を投げ掛ければ、僅かに唸りながらも彼は素直に答えてくれた。
『去年、黄瀬ちんと話してんの聞いて覚えてた』
「そ、う…えっ? 去年から、覚えてたの?」
『……ほんとは、去年だって言いたかったんだけど』
賭けに負けたから、と溢した彼の声は少し、沈んで聞こえた。
(去年…)
私が、紫原くんを避けて通っていた頃。
“賭け”が誰とのどんなものなのかは分からないけれど、たった一言、私の生まれた日を祝いたくて一年先の今日を待っていてくれたのだと思うと、ぎゅう、と胸が締め付けられて。何だか目の奥が一気に熱を持って。
嬉しいのか、切ないのか、判らない。
ごめん、なんて言葉、私は言えない。言ってはいけない。
だから両手で携帯を握って、目を閉じた。
ずっと、彼は気に掛けていたのだ。
大きな身体で、気を抜けば踏みつけて忘れてしまえるような、何でもない小さな出来事を。
(苦しかったのかな…)
苦しかったんだろうな。
それが解るから、それでも抱え続けてくれたことが、本当に、とてもとても、苦しいくらいに。
「ありがとう…」
『ゆあちん…?』
「嬉しい…本当に、すごく…嬉しいよ。ありがとう…紫原くん」
『…えっと……』
ああ、いとしい、と。
湧き出てくる気持ちを、無かったことにしてしまうことはできない。
ほんの少し戸惑うような気配が電話口から伝わってきて、私は自然と口許を綻ばせていた。
通話する痛くて重くて、でも温かい。
そんな祝福を受けたのは、きっと初めてのことだった。
(本当は顔見て言いたかったんだけど…一番に言いたかったから、電話にしたの)
(そっか)
(ん…でも、学校でも言うね)
(っふ…うん、ありがとう)
(…ゆあちん今、笑った?)
(え? うん)
(…やっぱ声だけだとちょっと困る…顔見たくなるし)
(明日また会うよ)
(んー…じゃあ明日、早く学校行く)
(…じゃあ、早く寝なくちゃね。おやすみなさい、紫原くん)
(………ゆあちん、今のもっかい言って?)
(え?…おやすみなさい…?)
(うん……おやすみー)
20120926.
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